第15話 正男が眼をつむる
蚤ヶ島の長屋町のバラック長屋は、お祭り騒ぎであった。
「かあさん、ネコはいつ来るの?今日?」
蚤の男の子ははしゃぎ回りながら母親に尋ねる。
「もうすぐよ。待っててね。家はとくにお金がないから、一番おいしい茶色のネコが貰えるからね。今日には来る予定だよ!」
母蚤も嬉しそうに答える。
この家族に食料無料配布の決定通知が来たのは数日前のことだ。高級料理であるネコのなかでも極上とされている茶色の若いネコが配給されることになっていた。その日が今日なのだ。この日のために子ども達は普段の破れ、汚れた服を継ぎ足して、さも新しいシャツででもあるかのように見せかけているのだが、ボタンは所々外れ、嬉しさにはしゃぎ回ったためもあって、元々擦れて薄くなった布地は、また裂けていた。
足の痛みが止まらない。
砂利道を走るワゴン車は、綺麗に外装が施されている。「エダもっこ財団配給車」と大書きされ、様々な花で飾られている。
砂利道をかなりのスピードを上げて走っているため、車の中は大きな揺れが止まらず、四本の足を切られたネコの正男は、自分でバランスが取れずに転がっていた。
会社の男たちに駅で捕まり、殴られ顔を蹴り上げられ叫び声を上げた。そのうえ、逃げないようにと四本の足は切り落とされた。そのまま貨物船に載せられたようだったが、痛みと恐怖で気を失い、よくは憶えていない。どのくらいの間、貨物に載っていたのかも定かではない。どこかの港に着くなり、装飾豊かなこのワゴン車に載せられたのだ。正男が走ろうとして、走った足は麻酔もなく見事に切り落とされていた。
足の痛みは止まなかった。
ワゴン車の車窓から過ぎてゆく青空が見える。流れてゆく雲も見える。街路には、多くの蚤がいるようだ。ワゴン車を拍手と歓声が迎える。その音が正男にも聞こえる。
ワゴン車は長屋町の中でも、特に煤けたバラック長屋の前に停まった。ネコの正男は、飾られた大皿に載せられ運び出された。歓声がさらに大きくなる。バラックから小さな蚤の男の子と女の子が飛び出してくる。その後を母蚤が恥ずかしそうに続いた。
「あなたがこれまで、貧しい中でも頑張ったから、当然よ!」
近所の主婦の蚤たちが母親に声を掛けている。
ネコの正男は大皿に載せられ、足ももう無いので走ることも、逃げることもできない。そのまま部屋の真ん中に置かれた食卓に運びこまれた。
諦めはどんな痛みもいとおしさに変えるのか、これが人生最後の痛みだと思えば、痛みすらいとおしい。天井にぶら下がり、羽虫がたかる裸電球を眺めながら、ただ蚤の子ども達の楽しげな声を聞くのみだった。
「かあさん、このネコ美味しいね。かあさん!」
「たくさん、お食べ。いつもは何もあなたたちに贅沢をさせて上げられないけど、今日は特別、大事にお食べ」
二人の子どもにお腹一杯、食べさようと母蚤は手を出さず、子ども達が嬉々として、そして懸命に食べる姿を嬉しそうに眺めている。貧しい蚤の家族の楽しげな食卓の真ん中に正男はいた。
「かあさんも食べて」
「あとでね。先に食べなさい」
「お母さん」と正男の口が動く。
体が囓られ、引きちぎられていることは分かったが、何故だかいとおしいのだ。涙が流れる。
正男はゆっくりと眼を閉じる。
裸電球の残影に浮かぶのは、やはり母の顔だった。幼い頃、ただ付いて歩いた歩の歩みが。エサを運んでくる母の姿が。雨風から守ってくれた温かみが。自分のために泣く母の涙が。消えてゆくのだ。
「ああ、お母さんが、消えてゆくなぁ・・・」
生き物には生涯で二度、真に眼をつむるときがあると、ここ蚤ヶ島では言うらしい。ひとつは自分に眼をつむるとき、もうひとつは死ぬときだ。それ以外は瞬きに過ぎないと、そう言い伝えられている。
(続く)
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