3-10 エスケープ
気づいてしまった自分の中の感情から逃げるように、リノリウムの廊下を歩く。気づいてしまった以上、隅に追いやろうとしてもすぐに意識を乗っ取ってくる。
何かを好きになるのはもう諦めたはずなのに、まだ未練があったのか。あたしも、もう一度何かを好きでいられるようになりたいというのか。けれど、どうしようもなく岸井さんや高倉さんが羨ましかった。
気分を落ち着けようと速足で歩いているうちに昇降口にたどり着く。その時、昇降口の横にある階段から高倉さんが下りてくるのが見えた。
こちらをちらりと見た高倉さんは、なぜか顔を青ざめさせて駆け寄って来た。
「橋本さん、どうかしたんですか⁉」
「え、なんで」
「泣きそうな顔してたから」
何か分かるわけでもないのに、自分の頬を触る。案の定、何も分からなかったが、泣きそうになっている理由は分かっていた。子供が、自分に持っていない玩具を持っている子供を羨んで、泣きたくなっているのだ。
そんな自分がみっともなくて、話を逸らす。
「……高倉さんは、何してたの?」
「担任の先生と面談をしてました。私、第一志望の大学の近くに大叔父さんが住んでた家があって、受かればそこに四年間住むことになってるので、そこらへんも含めてちょっと相談を」
「そうなんだ」
それを聞いた時、頭の中に一つの考えが浮かんだ。
もし、あたしが経済的に自立ができれば、父もあたしにとやかく言えないのではないか。そうすれば、父にあの時、あたしの好きなものを侮辱した言葉を取り消すように自信を持って言えるかもしれない。そうしたら、また何かを好きでいる資格を取り戻せるかもしれない。そのためには。
「……あのさ、そこにあたしも住まわせてもらうことってできたりしない? もちろん、タダで、なんて図々しいこと言わないから」
実家にずっといれば寝床を提供してもらっているという借りになる。かと言って、アパートの部屋を借りても、家賃や生活費、学費を自力で賄えるとは思えない。しかし、居候となれば家賃は浮く。それぐらいなら、自分でも賄えるかもしれない。電気代などは折半すれば安くなるし、高倉さんにとっても悪い話ではないはずだ。
特にやりたいこともないし、進学先も高倉さんのところに合わせれば――。
しかし、ぽかんとしている高倉さんの顔を見て、我に返る。子供の軽はずみな発言だった。
「あ、ごめん、忘れて」
慌てて取り消す。しかし、
「……いえ、多分大丈夫だと思います」
「へ?」
「お母さんもお父さんも、私に友達いないの心配してたので、橋本さんとシェアハウスなんて言ったらきっと喜びます! 楽しそう!」
そうして、幸運なことにとんとん拍子に話が進んでしまったのだった。
父は案の定反対したが、「感謝ゆえに自立したい」「父の出身大学の教授が長花にいる」など、父の耳触りの良い言葉を並べて説得し、いくつかの条件と引き換えに高校卒業後、高倉さん、もといカナとの二人暮らしが始まった。
しかし、現実は甘くない。学費に生活費に、お金はいくらあっても足りない。ただ、それ以上に問題だったのは、別に父に言い返さなくてもいいのではないかと思い始めてしまったことだ。それなりに平穏な日々を送れている。もうこれでいいのではないか、と。
そんな中、事件が起こった。
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