2章 サヤの街

2章 サヤの街 その1

 翌朝。

 瞼の向こうから光を感じて、まどろみから意識が浮かび上がる。

 目を開くと、カーテンが開けっ放しになっていた。眠る前に閉め忘れたらしい。


 起き上がって欠伸を一つ。

 スマホのスリープモードを解除し、ロック画面を眺めやる。

 5:38

 他のヤツならいざ知らず、普段の俺からしたら快挙とも言える早起き。この功労を讃えて勲章を授与されたっておかしくないはずだ。

 日付は6月2日。

 ……つまり昨日のことは夢じゃなかったってわけだ。

 ため息を吐きかけたが、まあ悩んでばかりいたって仕方ない。


 光に導かれるように歩いて窓を開き、朝の新鮮な空気とやらを吸ってみる。

 別段、普段と味は変わらない。都会の近くだから排気ガスとか混じってそうだし、時間問わず身体に悪そうな気もする。田舎に行ってファーストフードを食べた方がよっぽど健康的かもしれない。

 ただ真新しい陽光を浴びるのは、まあ悪くない。


 くわっと口を開き、欠伸を漏らす。

 いくら朝日で体内時計がリセットされるとはいえ、寝不足から来る睡魔には敵わない。

 二度寝をしたいぐらいだったが、今から寝たら一限の講義をすっぽかす自信がある。それはあまりよろしくない。


 ……ただ。

「無駄になるかもしれないんだよなあ……」

 声に出して言ってみた。

 そう、全ては水の泡、なんてことがあり得る。


 ツユバライ。

 俺たちがあの異世界でその名を冠する刀を手に入れなければ、この6月はなかったことにされて、6月1日の0:00まで巻き戻されてしまう。

「あんだけ一生懸命書いたレポートも、一文字すら残ってないのか」

 ため息。今度は止められなかった。

 腹も鳴った。生理的欲求。

 昨日の記憶も蘇ってくる。

 本月と一緒に観た映画、キスシーン、腹の虫。


 ……まあでも、悪いことばかりじゃなかった。

 頬を押さえる。そこは昨日、本月の唇が触れた場所だ。

 ちょっと気分が明るくなる。

「……うし、頑張るか」

 拳を握りしめる。気合いがチャージされた気がした。


 ドアを開けると、ちょうど目の前を雪奈が横切っていた。

 こちらを向いた雪奈が、目を丸くする。

「わっ、お兄ちゃん早いね。もしかしてこれから雪が降るのかな?」

「ずいぶんな言われようだな」

「だってお兄ちゃん、1限に講義があってもいつもギリギリまで寝てるでしょ」

「まあ、その指摘は間違ってないといえなくもない」

「当たってる、って素直に言えばいいのに」


 半笑いで肩を竦められてしまった。

「……雪奈は年齢を偽ってるか、人生二週目だよなきっと」

「あはは、大人びてなんかないよ。成熟しきった精神を持ってるなら、不登校になんかなったりしないもん」

「頭いいんだから、別に学校に行くのも苦じゃないだろうに」

「お兄ちゃん。学校っていう場所はね、勉強するためだけに行くわけじゃないんだよ」

「あー、はいはい。人間関係の構築に、コミュ力と社会的常識の会得、それと社会の縮図とでも言うんだろ?」


 耳が腐るほど聞かされた言葉を羅列すると、雪奈は鼻から息を出して窓の外を見やり。

「……ちょっと違うよ」

「違う? どういうことだよ」

「学校はね、自分の限界を知るために行く場所なんだ」

「よくわからないんだが……」

 雪奈は壁にもたれて、天井の自動点灯の照明を見上げた。そこには薄い橙色の光が灯っている。


「人には適正がないせいで、たくさんのできないことがある。知能、運動神経、社交性。努力すれば身に着けられるものと、そうでないもの。それを理解して選り分けるために、子供は学校に行かされるの」

「……だけどそんなこと、誰も教えてくれないじゃないか」

「そうだね。むしろ大人は、その不向きなことさえ子供に押し付けたがる。だって子供や教え子に、自分の理想を押し付けたいから。本来の目的と、大人の都合。その板挟みになった子供達は圧迫され、本当の意味の限界を迎えてしまう……」

 雪奈は自分の部屋のドアを見やって、肩の力を抜いた。


「雪奈はね、運がよかったよ。お父さんもお母さんも、不登校になっても何一つ文句を言ったりお説教したりしてこないんだから」

「親父もおふくろも、結婚した相手にしか興味ないんだろ。今時、子供置いて配偶者だけで転勤先に行く家なんてなかなかないぞ」

「ふふっ、そうだね。でもそれでよかったなって思うよ。……こうしてお兄ちゃんと二人きりでいられるし」

「その展開は読めてるぞ! 俺が『えっ、もしかしてお前、俺のこと……』ってなった瞬間に『へへーん、騙されてやんのー』って落としてくる流れだな!?」

「……あー、うん。そうだね、きっとそうだよ」

 策略を読まれたのが悔しいのか、白眼視しながら投げやりな口調で言ってきた。


「よしよし、俺の人読みに磨きがかかってきたな。これなら次のランクマッチで高順位が狙えるぞ」

「またゲームの話……。そんなんじゃ、恋人にフラれちゃうよ?」

「いや、本月はそんなヤツじゃ――っておまっ、なんでそれを!?」

 飛び退きクンフーの構えをとると、雪奈は不敵な笑みを浮かべた。

「ふっふーん、雪奈の人読みも捨てたものじゃないね」

「い、いや、今のは鎌をかけただけだろ!?」

「別にどっちでもいいよ。でもそっか、本月さんって言うんだ、お相手の名前」

「っく、一生の不覚……! だが、苗字を知ったところで名前までは……」

「それはどうかなー? 雪奈のミラクルオラクルパワーにかかれば、それぐらいまるっとお見通しだよー」

 不気味にうねる小さな手が俺の額へと伸ばされてくる。


「またハッタリか、だが今度はそんな手には……」

「本月さんの下の名前は……文香だね」

「なっ!? も、もしかして……マジでエスパー!?」

 動揺する俺を雪奈はくすくす笑って、手を左右に振り。

「うそうそ、そんなわけないでしょ。お兄ちゃんをからかっただけだよ」

「じゃ、じゃあ、どうして……?」


「本当、お兄ちゃんって社会とか経済に無関心だよね。本月家の現当主、本月明新(もとづきめいしん)って言ったら一部の界隈では有名だよ」

「……全然知らんが」


 雪奈の人差し指がぴんと天井を向く。

「本月明新がCEOを務めるウェントゥス製薬会社は、日本で株価がもっとも安定している企業の一つ。それに売上高が5位なんだよ」

「安定してるのに、5位なのか?」

「うん。安定してるのと、トップを取るのはまったく違う話。玉座を狙うばかりが、生き残る能じゃないからね」

「能ある鷹は爪を隠す……か」

「企業としては常に全力を尽くしてると思うけどね。多分、経営陣の目利きがいいんじゃないかな」

「勝てる勝負を瞬時に見抜く力に長けているヤツがいるってわけだ」

「投資家の間では上昇するなら須海(もちうみ)薬品、常勝するならウェントゥス製薬って言われてるんだ」

「株かあ。俺もやってみようかな」

 そう呟くと雪奈は頬に手を当て、眉尻を下げながら笑い。

「うーん、お兄ちゃんにはちょっと向いてないんじゃないかな」

「なんでだよ?」

「よくピックアップキャラが出ないからって石をすっからかんにしちゃってるでしょ。そういう引き際がわからない人は株とかFX以前に、賭けごとに不向きだよ」

 ……顔が引きつり、脳裏に今のガチャ石の残高が浮かんだ。


「ゆ、雪奈が教えてくれれば……」

「雪奈ね、カルネアデスの板って嫌いなんだ」

「……かる、なんだって?」

「ああいうリアルタイムで数字が変化するものって目が離せなくて、自分の分だけで手いっぱいなの。だから、ごめんね」

 ……だから、ごめんね。男子が女子に言われて傷つくワードランキングを開いたらベスト5に入るだろう言葉だ。状況が状況なら、今ごろ吐血していたかもしれない。


「ぐっ……。だが、金持ちになる夢はそう簡単には諦めきれぬ」

「それに、投資で爆死したらお兄ちゃんの好きなガチャが回せなくなっちゃうよ」

「それは困る! やっぱり人生って堅実が一番だな、うん」

「ふふっ。お兄ちゃんはやっぱりそうじゃなくちゃね」

 雪奈は柔らかく微笑んで小首を傾げた。


   ●


 大学の講義室。

 いつもなら板書をするか睡眠するかのなんら生産性のない時間だが、今日は違った。

 講義なんていつも以上に上の空で、俺はさっきから別のことに心を奪われていた。


 講義室の後部の席。そこに一人座る、黒髪ロングの女の子。

 わき目も降らず一心不乱にホワイトボードの文字を書き写す容姿端麗なあの子は、今や俺の彼女なのである。

 なんというか、すごい至福感。今までも何度か目を奪われたことがあったが、実際に手が届いた今は以前の比じゃなかった。

 もう嬉しすぎて頬が緩んで、笑いが止まらない。隣席の真琴の視線が痛いが、そんなの気にならないぐらい、今の俺は有頂天になっていた。


 スピーカーから講義終了を告げるチャイムが鳴る。

安藤教授はそれを聞いて「では、本日の講義はここまで」と言ってレーザーポインターを傍らの椅子に置いてあったバッグに放り入れた。


 人気の講義だったと言うこともあり、室内は一斉に蜂の巣をつついたような騒ぎになる。

 俺がさり気なく本月に目線を送ると、彼女もおずおずとうなずいた。

「おい暁夜、今のなんだよ?」

「……ちっ。勘のいいガキは嫌いだよ」

「ガキじゃねーし。おめえいつの間にあの鉄壁の令嬢と親しくなったんだよ?」

「鉄壁の令嬢?」

「知らねーのか? あの子、どこぞの製薬会社のお嬢さんで……」


 いくら待っても話が進まないので、仕方なく助け船を出してやることにする。

「ウェントゥス製薬か」

「あーそうそう。そこの令嬢でしかもあの見た目だろ? だから色んな男が声かけてるんだけど、未だ誰一人、色いい返事がもらえたヤツはいないんだよ」

「ふーん」

「ふーんって、おめえなあ。自分の狙ってる女が難攻不落ってわかって、ちょっとは焦ったりしないのか?」

「焦る? それは城下の民草かすることだな」

「おめっ、まさか……!?」

 絶句する真琴を背に俺は立ち上がり、肩越しに振り返って手を上げた。

「それじゃ、俺は忙しいからこれで失礼するよ」

「ちょっ、待てよ!? 話聞かせろって!!」

 真琴は慌てて荷物をまとめ始めたがすでに時遅し。とっくに支度を終えていた俺はさっさとその場を立ち去り、ヤツの前から姿を消した。


   ●


「……あっ、沖田君」

 例のカフェでブルーマウンテンを飲んでいると、ドアベルの残響を残して本月がこちらへ歩いてきた。

「遅れてごめんなさい」

「いや、全然待ってないよ」

「くすっ。なんだか、デートっぽい」

「いやだって、デートだろ?」

「そうね。……あ、わたしはキーマンで」

 マスターはお辞儀を一つして、カウンター裏の厨房へ向かっていった。


「講義室にいた時と、少し化粧が変わってるな」

「へえ、そういうの、わかるのね」

 本月は目を見開いて本気で驚いているようだった。

「まあな。妹によく、化粧の出来の感想とか言わされてるんだ」

「妹さんがいるの?」

「ああ。雪奈っていって今中学生なんだけど、引きこもってて大変なんだよ」

「別に引きこもりぐらい、したっていいじゃない」


 今度は俺がおったまげる番だった。

「引きこもるぐらいって……。世間様からしたら、なかなかの大ごとだと思うが」

「確かにそうかもしれないわね。だけどわたしは、そういう時期があってもいいと思うの」

「どうして?」

「引きこもることで必要な養分を得られるなら、そうすべきだからよ。そもそも今謳われている多様性なんてものがあるなら、みんなが同じ出席日数分学校に行くっていうシステムに欠陥があると思わない?」

「確かにそれぞれに適合するカリキュラムにすべきだとは思うな」

「でしょう。まあ、そんなことができる余裕も予算も今の日本にはないでしょうけどね」

「あー、じゃあ無理か」

 背もたれに身を預けて肩を竦めると、本月は微かに首を横に振った。


「いいえ、たった一つ方法があるわ」

「どんな?」

「学校に行かない人間を認めること。つまり、子供に入学しない自由を与えるのよ」

「おお、なんかよさげだな」

「ところが、そうもいかないのよ」


 本月が頬杖をついてため息を吐いた時、マスターがポットとティーカップをトレイに載せて運んできた。

 マスターがソーサーを手にカップを机上に置き、ポットにキーマンを注ぐと濃ゆい甘い香りが漂った。


「ありがとう」

「いえ。ごゆっくり」

 マスターは盆を胸に頭を下げて、カウンターへ音も立てず歩いていく。

 その背を横目で眺めた後、本月はカップを手に持ち、瞼を閉じて鼻に近づけた。

「……へえ、いい茶葉を使ってるわね」

「飲んでないのにわかるのか?」

「ええ。紅茶の真偽は、香りだけでわかるものよ」

 縁を瑞々しい唇につけ、くいっとカップを傾ける。

 僅かに口に含んで、カップを離す。

 それから少しして、本月はゆっくり目を開いた。

「美味しいわ」

 慈しむように、紅茶に柔らかな笑みを向ける。その表情に俺は自信の心臓が強く締め付けられるのを感じた。

「そりゃ、よかった」

「キーマンはね、粗悪品も多いから、上質なものに出会うのはなかなか難しいの」

「ふーん。俺にはよくわかんないな」

「そう、それが問題なのよ」

 意味がわからず首を傾げると、彼女はカップを机において、その表面に猫の喉を撫でるように指を滑らせた。


「本物と偽物を見分けられる審美眼を持つ人は、ほぼ存在しない。目の腐った輩(やから)に任せると、本物を腐らせる恐れがある」

 一度言葉を切って、こちらに細めた瞳を寄こして言った。

「だから、学校は存在するのよ」

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