1章 7月の消えた日 その3

 23:47

 スマホの電源を落とし、肩を一度上下させる。

 さっきまで深夜アニメの視聴をしていたが、1ヶ月前とまったく同じ内容だったので途中で切り上げた。

 それに色んなことがありすぎて、疲れがたまっていた。今日はもう休んだ方がいいだろう。


 ベッドに潜り込み目をつむる。

 思考を無に、思考を無に……。

 だが無駄だった。

雪奈の裸姿が、瞼の裏に浮かんでくる。

 さっきからずっとそうだった。

 濡れた髪、華奢(きゃしゃ)な体。火照った肌は仄かに赤く染まり、タオル一枚の下には熟しきっていない小さな果実が……。


「って、何考えてんだ俺はッ!?」

 跳ね起きて俺は叫んでいた。

「落ち着け俺、雪奈は妹だ。妹なんだ、妹だから……」

 めっちゃ可愛い。

「じゃないだろうがボケェ!?」

 頭を掻きむしり、枕に額をぼふっと打ち付ける。

「これじゃあロリコンか最悪シスコンじゃないか……。二次元ならいざ知らず、三次元でそれはダメだろダメすぎるだろうってかダメになってるのか!?」

 念仏調に魂の叫びが混じる。

 ああクソッ、なんだってこんなことに……。


 ダメだ、これじゃダメだ。リセット、リセットだ。

 この情欲を一旦、リセットせねば。

 俺はパソコンへと這っていき電源を入れ、VRゴーグルを装着。

「今日は夏帆(かほ)ちゃん……いや、メアリーちゃんに会いに行こうかな」

 仮想空間の女の子。

 彼女等とのふれあいを頭の中に思い浮かべつつ、テンションを上げる。


 メニュー画面から最近ハマっている『恋ノ花女学園 ~あなただけを見ています~』というゲームを起動。タイトル通り、可愛いヒロインと互いに赤い糸を手繰り寄せていくようなストーリーのギャルゲーだ。


 さあ、OPが始まるぞというところで、画面がブラックアウトした。

「……はて?」

 停電か、はたまたゲームがバグったか。

 とりあえず状況を確認すべく、頭のゴーグルを外そうとした。

 しかしその手は空を掻いただけだった。


 消えていた。ゴーグルがなくなっていた。

 俺は目を開いている。ゴーグルもつけていない。

 なのにどこを見ても、真っ暗だ。カーテンを閉じた深夜の部屋でも、こんなに暗くなることはあり得ない。


「……夢、か?」

 頬をつねってみる。痛い。つまりこれは夢じゃないってことだ。

「……は、はは」

 乾いた笑いが口から漏れた。

 タイムリープに空間転移。なんだこりゃ、できそこないのSFか?


 このまま一生闇の中かと思った時、徐々に周囲から光が差してきた。

 包み込まれるような感じ、といった方が正しいかもしれない。

 明度が上がると同時に色も付いてくる。まるで白いキャンバスにスプレーを吹きかけたみたいに。

 次第にぼやけていたそれは立体感を持ち、現実的な物体となった。いや、リアルな視界が戻ってきた。しかしここは、俺の私室とは大きく違う。


 薄暗い空間。壁にかけられた受け皿に細長い紐みたいなものを横たえ、その先端に火がつけられている。それが光源になっていた。

 色の濃い木材と漆喰(しっくい)の白い壁で作られた、直方体のやや狭隘(きょうあい)な部屋。

 いや、ものがやたらごたごた置いてあり、他にも複数人の人間がいるから窮屈に感じるだけで、本当はそれなりに広いのかもしれない。

脚から天板、背もたれまで木でできた椅子と机が整然と置かれている。ものこそ違うものの学校の教室そのままの光景だ。机の向いた先には本当に黒っぽい黒板が設置されている。

 その黒板の上に半紙が貼られ、墨汁で文字が書かれていた。


『ツユバライ』

 ……露払い?

 なぜそんな文字が書かれているのか、さっぱりわからない。

 鼻をなんだか独特な匂いがくすぐる。畳の敷かれた和室とかで嗅ぎそうな香りだ。


 室内にいる俺以外の人間も戸惑っているようで、不安そうに辺りを見回していた。


「あっ、お兄ちゃん!」

 と、馴染みの声が背後から聞こえたと思ったら、いきなり背中にどんっと強めの衝撃を受けた。

「……ゆ、雪奈か!?」

「うんっ! よかった、お兄ちゃんがいてくれて」


 腰に回されていた手が解かれ、振り返るとパジャマ姿の雪奈が俺のことを見上げてきた。


「すごく、心細かったんだ……。いきなり、こんな所にいたから」

「俺もだ。ゲームをしようと思ったら、急に視界が暗くなって……」


「キミたちもそうだったのか」

 会話に割って入ってきたのは、スーツを着た会社員らしき男だった。

 年齢は多分、30から40ぐらいか。

眼鏡をかけて力ない笑みを浮かべる様は優しそうで、でも同時に頼りなさそうな印象を受けた。

「ボクもね、帰宅途中に急に視界が暗くなって、気が付いたらここにいたんだ」

「ハハッ、おじさん酔ってたんじゃないの?」


 揶揄するように言ったのは、年若いジャージ姿の女性だった。服装の割には髪はきれいに金色に染められ、爪は凝ったネイルアートがなされたりと妙に力の入ったお洒落をしていて、ダサい感じはまったくしない。

「お酒って、百害あって一利なしって感じだし? やめた方がいいよ」

 男の頬がぴくっと震え、額に皺が寄る。

「……キミこそ、髪を染めるのはよした方がいい。将来、悲惨なことになるよ」

「はあ? おじさんこそ、もうすぐ髪が薄くなるんじゃない? どうせこの時間に帰宅とか社畜でしょ? ストレスは髪に毒っしょ」


「あ、あの、ケンカはその……。それより、ここがどこかご存知の方はいませんか? わたし子供が家にいるんで、早く帰りたいんですけど……」

 スウェット姿の30代ぐらいの女性が、みんなに問いかける。髪はぼさぼさで、肌も少し荒れ気味だ。あまり身なりには気を遣っていないらしい。


「さあねえ。……そこの人はどうかな、何か知らないかい?」

 男が最後の一人に問いかける。

 ソイツはこの中でも、明らかに異質な空気を漂わせていた。

 黒いフードを目深(まぶか)にかぶり、全身をすっぽり覆っている。フード付きケープというのだろうか。

ケープから伸びた白く細い腕の先の手には、林檎より少し大きな紫色の水晶玉を指先で支えるように持っている。

 フードの隙間から覗く顔の下半分は、肌が雪原のごとく白く、唇が血で濡れたように赤く不気味に煌めていた。


 その唇がすっと僅かに開かれる。

「知らぬ」

 声音は女のものだった。驚くほどに薄っぺらな響きで、耳に入る前に角砂糖を叩いた時みたいに崩れてしまうんじゃないかとさえ思ったほどだ。


「そうかい。ああ、困ったな。明日も仕事だし、早く帰って休みたいんだけど……」

「ようこそ、ようこそにゃ、皆さん」

 第七のあり得ない声に、俺達は一斉にその方へ向いた。

 黒板の前に置かれた、炭のような色合いの教卓。その上に、さらに黒い猫が二本足で立っていた。赤い首輪には小さな絵馬みたいなものを下げている。ガラス玉みたいな青い瞳は順繰りに場にいる人間を映していく。


 誰も一声も発さず、物音さえまったく立てなかった。予想外の出来事に、何も考えられなくなっているのだろう……俺のように。


「そんな固くならないでにゃ。楽にしていいにゃよ」


 猫がそう言っても、身じろぎできる者などいなかった。

 そんな中、最初に声を上げたのはジャージの女だった。

「……ろ、ロボット?」


 猫は人間みたいに首を横に振る。


「違うにゃ。にゃあは、猫又にゃ。ほら、尻尾が二つに分かれてるにゃろ?」

 俺達に背を向けて、尻から生えた尾を振る。確かに言われてみれば、尾が途中から二つに分かれていた。

 再びこちらを向き、猫は髭をちょいちょいと撫でて言った。


「にゃあは猫又。固有の名はまだないにゃ。だから猫又か、まーにゃんって呼んでにゃ」

「あ、あの、猫又さん。わたしたち……、気が付いたらここにいたんですけど、えっとその」

 女性が言葉に詰まっていると、猫又はうんうんとうなずき。


「混乱する気持ちはよくわかるにゃ、小租田照子(こそだてるこ)にゃん」

「えっ……!?」

 猫又の言葉に、女性の顔が凍り付く。

「どっ、どうしてっ、どうしてっ……わたしの名前をッ!?」

 狂騒的に問われても猫又は依然と変わらず落ち着いた様子で返す。

「にゃあが猫又だからにゃ。他のみんなのことも知ってるにゃよ」


 猫またはぐるっと首を巡らして場にいる人々の顔を見やって、それぞれの名を呼んだ。


「会社員のおみゃあは黒木竹生(くろきちくお)。ジャージの嬢ちゃんは要津久満子(ようつくまこ)。そのミステリアスなフードは、浦野香夢居(うらのかむい)」


 名前を呼ばれた者は一様に驚きを隠せず動揺を露わにした。

 ただ一人、浦野という女性だけは微動だにせず、水晶をそっと撫で上げただけだった。


「で、そこの二つ結びの女の子が沖田雪奈。最後にその兄の、沖田暁夜。これで全員にゃ」


「……なんであたし等の名前知ってるわけ?」

 すごむように低い声で要津が問うが、やはり猫または余裕の調子を崩さず尾を左右に振って答える。

「さっきも言ったにゃ。にゃあが猫又だからにゃ」

「んじゃ、その物知りな猫又っちに訊くけど。ここからどうやったら帰れんの?」

「帰るのは簡単にゃ」

「だったら今すぐ教えてくんない?」

「いいのかにゃ? おみゃあ等には知りたいことがあるにゃろ。にゃあはそれを教えてやることができるにゃよ」


 持って回った言い方か、あるいは上から目線に腹が立ったのか、要津は床を叩くように足の先端を上下させる。

「なんなの、その知りたいことってのは?」

 不思議の国に住むチェシャ猫みたいに口を開いて笑い、猫又は言った。


「7月1日になるはずだった今日が、再び1ヶ月前の6月1日になっていたことにゃ」

 その瞬間、場に電流がごとき緊張が走った。

「き、キミはその原因を知ってるのか!?」

「さあにゃ。にゃけど、きちんと7月1日を迎える方法なら知ってるにゃ」

「お、教えなさいよっ、その方法っていうの!」

 二人に詰めかけられた猫又はペロッと自分の手を舐めて顔を擦り。


「おみゃあ等は、もう黒板の上の文字を読んだかにゃ?」

「黒板の上の……文字?」

 要津たちは首をかしげながら、言われた方を見やる。

 俺はすでにさっき、その字を見ていたがつられてもう一度視線を向けた。

『ツユバライ』

 草書体のくずした字形で書かれている。


「……えーっと、……なんて書いてあんの?」

「ツユバライ、だ」

 俺は要津の言葉を受けて言った。

「公的文書ではあまり見ない草書体なうえに独特な字体だが、カタカナの五字で書かれてる」

「へえ。あんた、詳しいのね」

「昔ちょっと書道をやってただけだ」

「あの、ええっと……。その露払いが、7月1日が来なかったのとどうかかわっているんでしょうか?」


 小租田が恐る恐る尋ねると猫又は口を手で押さえて、微かに体を震わせた。

 最初、ヤツが何をしているのか俺にはわからなかった。

 だが徐々に聞こえてきた、音を擦り合わせるような声を耳にしてようやく理解できた。

 ……笑ってる。猫又はいかにもおかしそうに、声を殺して笑っていた。


 やがて猫又は手を除けて、尖った二本の八重歯を見せながら言った。

「永遠の6月」

 その一言は、焼印を押されたかのように脳内に残った。


「おみゃあ等はこれから、永遠に繰り返される6月を過ごすことになるにゃ」

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