氷原も駆け抜ける

 あっと言う声とともに、ぼくは目を覚ました。




 ずっと走り続けていたぼくがさすがに疲れて寝ちゃって、そして何か変なにおいがしたのを感じて目を覚ますと、そこは真っ白な世界だった。


 そしてちょっと寒い。どうやらそのせいで、おねしょをしちゃったみたい。ちょっぴり恥ずかしいけれど、まあいいか。




 ぼくは自分のおしっこのにおいをかいだ事なんかなかった。と言うか、見た事もなかった。サクサクと音のする雪の上に残ったぼくのおしっこは、大きく広がっているらしい。


 そしてその部分だけちょっと茶色くもなっている。どうやら土の色だ。ぼくのおしっこのせいで雪がとけちゃったのか、それとも元から雪がなかったのか、ぼくは知らない。



 とにかく、ぼくは雪の上を走る事にした。いつもの草原とは違って、ちょっとすべるけど走り心地はいい。なんかどんどんと速く走れる気がする。その代わりちょっと止まりにくいけれど、ゆっくりと速度を落として行けば問題はない。


 実はだいぶ昔、一度だけ来た事がある。いつかは覚えていない。その時はすべって転んでけがをするまではいかなかったけど、だいぶこわい思いもした。




 風はあまりない。でも少しだけ吹いている風は、ちょっとあったかい。ぼくの好きな横風だ。横風に当たりながら、ぼくは走った。


「おやおや」


 ペンギンさんたちだ。ペンギンさんはもっともっと氷のたくさんある所に住んでるかと思ってたけどこんな所にもいるんだ。

 そう言えばどこかで聞いたことがある、はるか遠くの南の島のひとつにペンギンさんがたくさん住んでいる島があるって。ぼくには水の上を走る事はできないから無理だけど、ちょっと見てみたいかも。



 よろしくねとあいさつをしたぼくに対して、ペンギンさんたちも頭を下げてあいさつをしてくれた。なんとなく気分がいい。でもぼくの方は他のひとたちにあいさつされても、走ってばっかりであんまりあいさつを返していない気がする。


 これからは気を付けようかな、と思ったけれどやっぱりぼくは走るのが好きだ。どうしても走るのが優先でそういうことは二の次になっちゃう。悪い事なのかもしれないけど、どうしてもやめられない。





「別に私たちは気にしていないよ、君には君のやりたい事があるんだろう」


 ペンギンさんたちは優しい。そう、ぼくがやりたいのは走る事。走る事でどれだけの人に迷惑をかけているのかはわからないけど、ぼくだってどっこいどっこいだと思う。


 チーターさんやライオンさんたちの事が嫌いなわけじゃないけど、ぼくだってあのひとたちに食べられたらもう二度と走れなくなっちゃうんじゃないかって言う気持ちは常にある。それって迷惑って言うんじゃないのかな。






 雪原もあるけど、氷原もある。雪原よりもっと止まりにくくて走りにくいけど、速く走ろうとするとすごく速く走れる。実に気持ちいい、それで思わず派手にいなないちゃった。あわててスピードを落としてギリギリ転ばずにすんだけれど、ちょっと癖になる。


 でももし滑って転んで足をこわしちゃったらどうなるだろうか、ぼくはもう二度と走れなくなるだろう。それだけは絶対に嫌だ、死んだ方がましっていうのはそういう時に使う言葉なんだろうなと思う。


 だから次にこうやって氷原の上を走るのはぼくが本当に死にそうになった時か、夢の中だけにしよう。


「何だよお前は」


 改めてゆっくりと走り始めたぼくに、太い声が飛んで来た。声のした方を向いてみると、そこには真っ白な毛を生やしたおっきな体をしたひとがいた。


「俺か?俺はシロクマだよ」


 誰って聞いたら、シロクマさんだった。白くないクマさんには1回だけ出会った事がある。その白くないクマさんはシロクマさんよりちょっと小さいような気がした。何て言うか、あんまり迫力がない。


「よお、ずいぶんと元気そうに走ってるな」


 その白くないクマさんはずいぶんと優しそうに話しかけて来たけれど、このシロクマさんはずいぶんと機嫌が悪そうだ。


「今は夏だからちょっと疲れてるんだ、春とか秋とかは大変なんだよ」


 白くないクマさんはその時ぼくにこう言った。


 春は子どもが生まれたばかりで子どもを守らなければいけないので気が荒くなり、秋は冬眠に向けて食料を蓄えなければいけないので忙しくて余裕がなくなるらしい。

 草原にはあんまり季節はない。いつも適当にあったかくて適当に涼しい。ここだってそんな感じなんだろう、ずっと雪や氷がいっぱいなんだろう。


「最近はちょっとずつ暑さがなくなっている感じがするからな、夏って言うか秋なんじゃないのか」




 秋。秋になると草原の草は徐々に青から黄色になって来る。おいしいかおいしくないかで言うと、一長一短だった。夏の方がみずみずしいけど、秋の方が味わいがある。

 でもぼくは夏の方が好きだ、食べる事より走る事の方が好きだから、水分が補給できてありがたいもの。


 冬?冬はあんまり草は生えてないし、生えてても真っ黄色どころか真っ赤な事もある。まっ茶色の場合もある。好きか嫌いかだって?あんまり好きじゃない。だってぼくは食べる事自体その間走れなくなるのであんまり好きじゃないし、何より冬の草は本当に水分がないので水を飲む手間も省けない。その分味は最高なんだけど、水分がない方が問題だ。

 でもこのあたりに生えている草は寒い所なのにみずみずしい。やっぱり雪や氷って言う水分がたくさんあるからかな。


「お前はここに何しに来たんだ」




 何しにって、そりゃ走りたいから。ただ走ってたらここに来てた。それだけ。




「変な奴だな」



 変な奴。シロクマさんはぼくのことをそう呼んだ。何が変なんだろう。シロクマさんはいったい何のために生きてるんだろう。


「俺にはもう巣立っちまったが子どもが五匹いる。そいつらのために生きている。お前つがいとか子供とか、そういう物を作る気にならないのか」


 首を横に振りながらううんって言ったら、シロクマさんは何も言わずにぼくをじっと見つめた。ぼくがもういいのかなって思って走り出そうとすると、シロクマさんは怖そうな顔をしながらうなり声を上げた。


「ここはお前の場所じゃない、帰れ」


 なぜそんな事を言うんだろう。確かにここはふだんぼくがいる草原とはぜんぜんちがう。でもぼくはここに来る自由があるはずだ。実際ぼくはこうしてここまで走って来た。なぜなんだろう。


「……まあな、ここは俺たちの場所だ。まあそういう事だ」


 不思議になってその事を聞いてみたら、シロクマさんはなんだかぽかんとしたような顔をしながらそう答えた。とにかくぼくがここにいるとシロクマさんになんとなく迷惑をかけているらしいから、ぼくはここから離れる事にした。それで最後にちょっとだけいいかなと思ってシロクマさんの方を見ると、シロクマさんの顔がまた変わっていた。

 なんていうか、ものすごーく苦しそうな、と言うか申し訳なさそうな顔。何がいけなかったんだろう。教えてよと言ってみても、シロクマさんは首を横に振るだけで何にも答えてくれない。どうしたんだろう。



「すまない」



 シロクマさんはそう言ったきり何も答えようとしない。ぼくはなんとなくすっきりしない気持ちのまんま再び走り出した。


 でも走っていると、そんな気持ちもやがてなくなる。この四本の足でぼくはどこまでも走りたい、ぼくの望みってのはただそれだけ。そんなに大きな事を望んでいるつもりなんかない。







「あのお馬さんまだ走ってるよ」

「ごはんだよ」




 走り続けていたぼくは、たぶんさっき出会ったのとは違うペンギンさんたちに出会った。ペンギンさんの子どもはぼくの方をじっと見ながらそう言った。

 するとその子どもの親っぽいペンギンさんは子どもにお食事があるよと言いながら子どものペンギンさんの右手をつかんで連れて行った。そうだね、ぼくもご飯を取らなきゃいけない。




 あ、でも思ったよりおなかはすいていない。でものどはかわいた。だからたーんと水を飲もう。ぼくは走るのをやめて、ペンギンさんの親子の方へと歩いた。だってそこには水がたくさんあるから。




 冷たくておいしい、ついついたくさん飲んじゃう。でもちょっと飲み過ぎたせいで重くなった気がする。まあそんな事はたまにある。ぼくはいっぱいの水を飲んで、ただただ走る。固まった雪の上は走りやすい、でも新しい雪の上はちょっと大変、気を付けないと埋まっちゃうから。でも実はちょっとだけ埋まってみるのも楽しい。だってどんなに寒くても、走るとちょっと熱くなるから、体が冷えて気持ちいい。


 前に一度試した事がある、その後抜け出すのが大変だったからやめようとは思っているけど。

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