第45話

 時計の針が午前五時を指す。夜はいつもあっという間に過ぎる。学校で授業を受けている時間よりも、夜の数時間の方が圧倒的に有益だ、と月夜は感じる。それは個人的な価値観にすぎないが、彼女はやはり夜が好きだった。夜こそが地球の真の姿ではないか、とさえ思うこともある。しかし、地球はそれ単体で存在しているわけではない。太陽があるから夜がある。太陽がなければ、そもそも夜という状態は存在しえない。


 自分がいることで、紗矢が存在するのだろうか?


 そうかもしれない。すべては関係している。


 あそこで黒猫を拾ったのは、偶然ではなかったかもしれない。しかし、フィルという一匹の猫に出会ったのは偶然だった、と考えることもできる。フィルである必然性はなかった。ほかの猫でも良かったはずだ。たまたま、月夜が出会ったのはフィルだった。その出会いには、何らかの価値を見出すことができる。


「じゃあ、私は帰るよ」


 ソファから立ち上がって、紗矢が言った。


「うん……」月夜は応える。「大晦日の夜に、フィルと一緒に行くね」


「分かった。でも、無理はしないでね」


「無理とは?」


「フィルもだよ」月夜の質問には答えず、紗矢は彼の頭を撫でる。「月夜の傍にいてあげてね」


「任せろ」フィルは低い声で応えた。


 玄関からではなく、紗矢は硝子戸から出ていった。彼女が戸を開けたとき、空に三日月が上っているのが見えた。十二月のこのタイミングに、三日月が上ることはありえるだろうか、と月夜は考える。奇妙な考えだった。現に、それは、今彼女の目の前に存在している。何もかも合理的に考えようとするから、そういった制約を受けるようになる。何もかもがルールに従っている必要はない。ルールは人を愚かにする。フィルや紗矢は、死んだら消える、という生き物のルールを逸脱した。そちらの方が有益だと考えたからだろう。そして、その思考はきっと正しい。少なくとも、その結果として二人に出会えたことを、月夜が良かったと感じているのは確かだ。


「紗矢が言った通りでいいのか?」フィルが言った。


「言った通りって、どういうこと?」


「あいつだけ一人で行かせて、お前はそれでいいのか、という質問だ」


「私はそれでいい」


「本当に?」


「紗矢が決めることだよ」


「お前はどうしたいんだ?」


「私は、彼女が決めたことを尊重したい。フィルはどうしたいの?」


「まあ、俺もお前と同じだ」


「じゃあ、どうしてそんなことを訊くの?」


「俺とお前の距離が離れていないか、確かめたかっただけさ。つまり、安心を望んでいたんだ。孤独を感じないようにな」


「紗矢は、孤独かな?」


「孤独ではないだろう。あいつは一人でも大丈夫だ。俺なんかに惚れなければ、あいつはもっと強かったはずだ。そして、俺と暫くの間別れて、あいつはもう一度その強さを取り戻す。それでいいんだ。あいつは、人のためなら自分を殺せる人間なんだ」


「フィルがそうさせたんじゃないの?」


 月夜の言葉を受けても、彼は何も言わなかった。


 月夜は、フィルと紗矢の関係にはできるだけ立ち入らない、と決めていた。立ち入るというのが、どの程度からそう呼ぶのかは分からないが、とにかく、深く干渉しなければ良い。今回のことで、たしかに月夜は二人の関係に深く干渉した。けれど、フィルも、紗矢も、そんな月夜を許してくれたようだ。二人が死を選んだ過去には、月夜はまったく関係がない。それは確かだ。だから、フィルのせいで紗矢が死んだのだとしても、彼を責めるような気持ちにはならなかった。


 すべては、人の自由だ。


 生きる自由が与えられているように、死ぬ自由も万人に与えられている。


 愛情を表現する方法はいくらでもある。


 紗矢は、それを、フィルが望んだやり方で示したにすぎない。


「月夜、眠らないのか?」


 黄色い瞳を向けて、フィルは月夜に尋ねる。


「君が、私の分まで眠ってくれれば、それでいいよ」月夜は応えた。

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