第38話

 日記を書き終えて、月夜は椅子から立ち上がった。部屋の明かりを消して、机のすぐ傍にある窓に近づき、外の景色を見る。景色といっても、目の前には住宅があるだけだ。その向こうに小高い山が連なっている。紗矢が住んでいる山とは違って、その山は、横に長かった。何か分からない光が、所々で点灯している。空を見ると、星が見えた。月夜は、目は悪くない。だからといって、特別良いわけでもなかった。オリオン座も見える。オリオン座は、その内の一つが超新星爆発を起こして、じきに見えなくなる、といった話を大分前に耳にしたが、未だにそういう事態にはなっていない。もしかすると、世間を煽るためのデマだったのかもしれない。オリオン座が見えなくなっても、全然構わない、というのが月夜の素直な感想だった。欠けたものは、それでも、いや、そうだからこそ、美しく見えるものだ。左腕がない紗矢が、どことなく魅力的に見えるように……。


「涼しくて、綺麗だ」窓の窪みに座って、フィルが言った。


「綺麗」


「涼しくて、綺麗の間には、何の関係もない、とでも言うと思ったが」


「フィルは、星は好き?」


「まあ、嫌いではないな」


「星が嫌いな人って、いるのかな?」


「いないとはいえない」


「こんなに、綺麗なのに」


「風力発電は、綺麗な発電方式だが、嫌いな人もいる」


「原子力発電も、充分綺麗だと思うよ」


「ああ、効率がいいし、無駄もないからな」


「うん……」


「月夜も、綺麗だよ」


 月夜は、フィルを見る。


「本当?」


「ああ」


「どうもありがとう」


「その、瞳が綺麗だ」


「綺麗?」


「そうだ」


「綺麗、と言われたのは、初めてかもしれない」


「俺の瞳も、なかなか綺麗だろう?」


「うん、綺麗」


「お揃いだな」


「お揃い、ではないと思うけど」


「来年の冬は、サンタクロースが来るといいな」


「何がいいの?」


「さあね」


「フィルは、何か欲しいものがあるの?」


「愛情が欲しいね」


「あげようか?」


「ポケットに入っているみたいな言い方だな」


 両手を伸ばして、月夜はフィルを抱き締める。


 フィルは月夜に抱き締められた。


 それだけで、意思は通じ合う。


 紗矢と、フィルは、そんな関係にはなれなかったのか?


 いや、それは違う……。


 二人は、それ以上に愛し合っていたのだ。


「月夜、鼻歌でも歌ってくれよ」


「どうして?」


「具体的な理由はない」


「分かった。何がいい?」


「アメージンググレース」


 月夜は、要求された通り、アメージンググレースを歌う。


 歌は、人の心を癒やしてくれる。癒やされる必要がなくても、聴いていれば、自然と、良いな、と思える。つまり、プラスにプラスを重ねても、困ったことにはならない、ということだ。けれど、物事が上手くいっていると、なぜか、何かこれから危ないことが起こるのではないか、という気持ちになってくる。自分の思い通りに事が進むのは、誰かに仕組まれているからではないか、と思えるようになるのだ。それは、人間に、かなり高度な危機回避のシステムが搭載されている証拠だろう。


 フィルの身体は温かかった。


 自分は、こんなことをしていて良いのか、という思いが、月夜の胸中を支配する。


 紗矢は、今どうしているだろう? 一人で泣いていないだろうか?


 できるなら、誰かが涙を流すことは少ない方が良い。でも、自分の涙で良ければ、他人のために流すことはできる、と月夜は思う。そのために、どのような手段を用いても構わない。ナイフで皮膚を切って血を流そうと、取り返しがつかないほど心に傷をつけられようと、それで、自分が涙を流し、誰かが救われるのなら、それはそれで良い、と月夜は思う。言ってしまえば、それは単なる自己満足にすぎない。しかしながら、自己満足を排除して、他人に奉仕することは、人間にはできない。そういうふうにプログラムされている。なんとも悲しい生き物ではないか、と月夜は思う。


 アメージンググレースを歌い終わると、辺りは急に静かになった。山の向こうから、何か分からない、高い音が聞こえてくる。そこに妖精がいて、誰かを呼んでいるような気がする。


「素敵な思考だ、月夜」


 唐突に、フィルが言った。


「私の考えていることが、分かるの?」


「少しだけならな」


「そっか」


「お前には、俺の考えていることが、分かるか?」


「分からない」


「どうしたら、分かるようになる?」


「視点を変えれば」


「そう……。つまり、自分と他者は、等値変換できる」


「等値変換?」


「まあ……。本当は、少しニュアンスは違うがな」


「でも、フィルが優しいことは、分かるよ」


「どうしてだ?」


「優しいから」


「理由になっていない」


「理由は、いらない」


 特に理由もなく、二人はもう一度風呂に入った。


 自分は、もう、何度フィルと一緒に風呂に入っただろう、と月夜は考える。人間がこのように考えるとき、具体的な数字は重要ではない。なぜなら、何度、と考える時点で、回数が多いことが分かっているからだ。


 身体と頭を洗い、湯船に浸かって、意識を半分くらい薄れさせる。もしかすると、自分は、風呂に入っている時間が一番好きかもしれない、と月夜は思う。人間も動物だから、リラックスできる時間が尊いのだ。

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