第三話 『天覧記』

「内海の和を乱す賊の討伐には、内海に関わる諸国が共にして当たるべし。そう天女は申されております」


 上紐恕じょうちゅうじょが海賊討伐の申し出を承諾する代わり、げんの水軍も引き入れることを条件に出した際、顔をしかめたのは単陀李たんだりであった。


「島主殿は賊を討つのにいつりんだけでは心許ないと、そう仰られるのですか」


 いつの使者である科恩かおんよりも、単陀李たんだりこそがむきになる理由は明白だ。言ってみれば彼には、いつとの伝手しか誇れるものがない。そこに上紐恕じょうちゅうじょの手引きによってげんが割り込んでくれば、単陀李たんだりの存在感が薄れてしまう。


 海賊討伐のためにいつの助力を仰ぐことが出来たのは彼のお陰であるという、わかりやすい功績を単陀李たんだりは欲している。


 対して科恩かおんは、その福々しい顔に動揺も見せることなくこう答えた。


いつとしてはげんとの協力はやぶさかではありません。かの国も内海の賊が猛威を奮うことは望みますまい。島主殿自ら取りまとめて頂けるのであれば、願ってもないことです」


 科恩かおんの言葉の裏を読み取れば、その場合は全てりんが取り仕切れということだ。討伐軍の主導権は手放すことになろうが、一方で面倒な調整ごとはりんに押しつけることが出来る。何よりげんという大国の力を借りれるならば、いつにとってもりんにとってもお互いに悪くない話であった。


 当の科恩かおんが承諾してしまっては、単陀李たんだりもこれ以上ごねるわけにいかない。不承不承といった体の単陀李たんだりに、上紐恕じょうちゅうじょは薄い笑みを投げかけた。


「ご安心召されよ、単陀李たんだり殿。今回の討伐軍の目的は二度と海賊の蠢動を許さぬこと。そのためには叩きのめさねばなりません。今回はげんの力も必要とご了承願いたい」


 含みを持たせるというにはあからさまな言い回しだったが、お陰でというべきか、単陀李たんだりもそれ以上異を唱えようとはしなかった。


 こうして海賊討伐軍にはげんの参加も認める形に決まる。討伐軍の集結地は、地理的な事情を考慮していつとなった。りんげんの水軍はそれぞれまずいつに向かい、その後共同して海賊討伐に乗り出すことになる。


 討伐軍結成の道筋がつくと、科恩かおんはその日のうちに屋形を発っていつへの帰途に着いた。いつ本国での用意を急ぎ進めるためだ。上紐恕じょうちゅうじょりんでの討伐軍の編成やげんとの折衝など、やるべきことが山積している。げんでも上紐恕じょうちゅうじょの要請を受けた醜楷しゅうかいが、今頃準備に大わらわだろう。


 内海の実力者たちがそれぞれの思惑を抱えつつも、ひとつの目的に向けて俄かに動き出す――


「そこを行くのは、天女様のお付きの下女ではないか」


 両手に書物を抱えながら屋形の回廊を歩いていたすいは、聞き覚えのある声に呼び止められて振り返った。


「これは単陀李たんだり様」


 すいを背後から呼び掛けたのは、未だ島主の屋形に滞在し続ける単陀李たんだりであった。


 海賊討伐に向けて、屋形の主立った面々は一斉に慌ただしくしていた。すいやキムでさえ、『大洋伝』のあらましが上紐恕じょうちゅうじょの役に立つだろうということで、島主の執務室に頻繁に呼び出されたりしている。


 そんな中でただひとり、単陀李たんだりだけが暇を持て余していた。


 彼はいつの使者を上紐恕じょうちゅうじょに引き合わせるためにりんを訪れた立場である。一方でりょうから都落ちした、流浪の身分でもある。それまではいつに世話になっていたのだが、科恩かおんが彼を置き去りにしたまま帰国してしまったので、やむを得ず上紐恕じょうちゅうじょの屋形に世話になり続けているのだ。


「ちょうど良かった。天女様はいずこにいらっしゃる?」

「申し訳ございません。天女様はただいま、島主様と会談中でございます」


 いつりんの会談が成功すると当面すべきことのない単陀李たんだりは、どうやら天女に興味津々らしい。しばしばこうしてちょっかいを出そうとする彼を、すいは何度ものらりくらりと躱し続けている。


 上紐恕じょうちゅうじょの名を出されては、単陀李たんだりも引き下がらざるを得ない。残念そうな顔を見せた彼は、ふとすいが抱える書物に目を留めた。


「そなた、その本はいったいなんだ?」

「これですか?」


 抱えていた書物の中からすいが一冊取り出して見せたのは、今彼女にとっては最も大切な書物である――


琅藍ろうらんの『天覧記』ではないか」

「ご存知なんですか?」


 驚いたすいが見返した先で、単陀李たんだりはその神経質そうな面持ちを苦渋で歪ませていた。


りょうにいた頃に奇天烈なお伽噺として聞き及んだことはあるが、まさかこのりんにまで持ち込まれているとは」

「この本は島主様の書庫にあったものを、私が許しを得て借り受けているのです」

「ああ、島主殿は以前に都に上られたことがあったな。そのときに入手されたということか」


 その折には上紐恕じょうちゅうじょのことなど歯牙にもかけていなかったことを、単陀李たんだりはすっかり忘れているらしい。すいの言葉に頷きながら、彼はなおも難しい顔のままだった。


「いずれにせよ、その本はあまり見せびらかしてくれるな。儂にはどうにも気分が悪い」

「……それはいったいどういう意味か、伺ってもよろしいでしょうか。もしかして内容が禁忌に触れるとか? まだ全部読んだわけではないんですけど」

「いや、安心せい。そういう意味ではない」


 心配そうに眉根をひそめるすいの懸念を、単陀李たんだりは否定してみせた。ただ口元に袖口を当てて顔を背ける仕草を見せるなど、どうやら彼は個人的に『天覧記』が苦手らしい。


「『天覧記』がどうこうというわけではない。ただ儂はその作者の名を見ると、胸がむかむかする」


 単陀李たんだりは空いたもう片方の手で、すいの手の中にある『天覧記』の表紙をそろそろと指差した。


「作者の琅藍ろうらんは『天覧記』を著したことで奇才を認められて、今ではあの変翔へんしょうの知恵袋に収まっているという。儂には目にしたくない名前のひとりなのだ」


 そう言い捨てると単陀李たんだりはまるで一刻も早く離れたいとでもいうように、すいの前から走り去っていった。その場に取り残されたすいはぽかんと口を開けて、彼が去っていった後を呆然と眺めている。


 変翔へんしょうの側近に『天覧記』の作者の琅藍ろうらんがいるという単陀李たんだりの証言は、すいには到底信じがたい話であった。


「そんなわけないでしょう!」


 両手にそれぞれ書物を手にしながら、両足を踏ん張るような格好で、すい単陀李たんだりが立ち去った方向に向かってそう言い放った。無論、単陀李たんだりの姿はとっくに柱の陰に隠れてもう見えない。誰もいないとわかっていなければ口に出来ない台詞であった。


琅藍ろうらんが宰師様の知恵袋だなんて、そんなことあるはずない」

「ローランって、『びょう遊紀』と『天覧記』の作者の、あのローラン?」


 背後からの不意の声に、すいは驚きのあまり書物を取り落としてしまった。慌てて振り返った視線の先には、すいの動揺ぶりにかえって驚くキムの姿があった。


「ごめん、そんなにびっくりさせるつもりはなかったんだけど」

「ああ、キムか。良かった」


 すいは胸を撫で下ろしながら、大きく息を吐き出した。


「ほかの人だったらどうしようかと思った」

「何か、聞かれちゃいけないようなことだった?」


 キムにそう尋ねられて、すいは今一度辺りを見回した。ふたりが立つ回廊から見渡せる範囲には、ほかに人影は見当たらない。そのことを確かめてから、すいはそれでも声をひそめて言った。


単陀李たんだり様が言ってたの。琅藍ろうらんって作家が、今は都の宰師様の側に仕えているって」

「宰師……ヘンショー様の?」


 すいの言葉を聞いて、キムは首を傾げる。


「宰師の側近とか、参謀とかってことよね。そんな登場人物、『大洋伝』に書いたっけなあ」


 細い顎に指を当てながらの彼女の台詞は、彼女が書いた『大洋伝』の記憶と照らし合わせてのことだろう。訝しげなキムの呟きに、すいも合わせるかのように頷いてみせる。


「そうでしょう、いるわけないのよ」


 そこまで言い切るすいが、キムにはかえって不思議である。琅藍ろうらんとは彼女が心酔する作家ではないのか。それとも憧れの作家が宰師の知恵袋に成り下がったという事実が許せないのか。


 だがすい単陀李たんだりの言を否定する理由は、そのどちらでもなかった。


「あんまり恥ずかしいから言い出せなかったんだけど」


 床から拾い上げた本を両手で握り締めながら、すいは彼女らしからぬおずおずとした口調でこう言ったのである。


琅藍ろうらんってのは、私の筆名なの」


 すいの言葉の意味を理解するにつれて、キムの瑠璃色の瞳が徐々に見開かれていく。


「筆名って、ええ? じゃあローランって、本当はスイのことなの?」


 耳まで真っ赤にしながら、すいはキムの言うことを認めた。


「『びょう遊紀』も本当は、がくから聞きかじった話を私が物語っぽく書き起こしただけ」


 想像もしなかった告白に今度はキムが目を丸くしながら、だが彼女には当然もうひとつの疑問が湧く。


「えっ、じゃあ、でも『天覧記』は? これもスイが?」

「こんなの知らない。『天覧記』なんて書いたことない」


 手の内の『天覧記』に視線を落として、すいは激しく頭を振った。


「その上に今は宰師様の側近だなんて。もう、わけわかんないよ」


『天覧記』を抱きかかえたまま、すいは途方に暮れた顔で、頭ひとつ背の高いキムの顔を仰ぎ見る。混乱しきったすいの視線を受け止めながら、キムもまた目をしばたたかせることしか出来なかった。

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