第三章 魔都旻稜

第一話 夢の中 

 すいが数えで七歳になったその年、飛家は揃って耀ようを訪れた。


 子供が無事に七歳を迎えられたことを神獣に感謝し、今後の健やかな成長を祈願する――それは貴賤を問わずこの世界に広く流布する慣習のひとつである。もっとも大抵は最寄りの祭殿で済まされるものであるが、ことに信心深いすいの母は、神獣が祀られているという耀ようまでの参詣を主張した。


 飛禄ひろくは妻ほど敬虔なわけではなかったが、この世界でも最高の権威である耀ようを見ておくことは子供にも良い経験になるだろうと考えて、すいのほかにせんがくも伴っての耀よう行きを決める。


 りんから耀ようまでは船で内海から紅河を上り、びんの都・りょうの近くに注ぐ支流に逸れてさらに遡る。びんさんの境に聳える急峻に囲まれた、山間の盆地がそのまま耀ようだ。広大な内海に囲まれて生まれ育ったすいにとって、周り一面が雪化粧に覆われた山々ばかりの耀ようという土地は、まるでお伽噺に聞く別世界のようであった。


「いよいよ神獣とのご対面だ。気をつけろよ、すい


 年が明けたばかりの耀ようは盆地一帯に真冬の冷気が立ちこめて、神獣が祀られるという祭殿の中もしんと冷え切っていた。一行は白い息を吐き、時折り指先を擦り合わせながら、案内役の神官の後を追う。祭殿の厳粛な雰囲気に誰しも言葉少なになる中、ひとりだけ無遠慮にそう言い出したのは、すいの傍らを歩くがくであった。


「気をつけるの? どうして?」


 小さな身体をすっぽりとコートに包み込んで、すいは彼の言葉を素直に不思議がったものだ。するとがくは真っ赤になった鼻の下に指を当てたかと思うと、にやりと笑みを浮かべた。


「なにしろ神獣ってのはこの世界を創ったっていう、それはもうとんでもなく偉い奴だからな。もしちょっとでも失礼なことをしたら、お前みたいなちびっ子はひと口で食われちまうぞ」

すい、食べられちゃうの?」

「ああ、お前なんかひと呑みでぱくり、だ」


 がくは両手を頭の上に翳して、今にも襲いかかるような真似をしてみせる。その仕草に怯えるすいを見て、がくがますます調子に乗る。「いい加減にしろ」という声と共にがくの頭をはたいたのは、ふたりの後ろを歩いていたせんであった。


すいの祝いに耀ようまでやって来たってのに、そのすいを脅かしてどうする」

「いやあ、あんまり怯えるから、つい面白くて」


 へらっと笑いながら釈明するがくを押し退けて、せんは涙ぐむすいに語りかけた。


「泣くな、すいがくはお前のことをちょっとからかっただけだ」

「……すい、食べられないの?」

「食べられないよ。大丈夫だ」


 せんすいを安心させるように、まだ小柄だった少女の頭の上にぽんと手を置いた。


「そんなに気になるなら、神官様に聞いてみたらいい。ここに祀られてる神獣ってもんが、いったいどういうものなのか」


 なるほどとすいが顔を上げると、神官は三人を置いてけぼりにしたまま、父母を引き連れて先を歩いていってしまっている。


 慌てて追いかけようとするすいを、ひとりの声が呼び止めた。


「神獣とはそんな恐ろしいものではないよ」


 すいが振り返ると、そこには先頭を行く神官と同じように紫色のはおりを肩にかけた、だがはるかに年配の老人が立っていた。


 どうやらすいたちの会話が耳に入っていたらしいその老人は、目を細めて子供たちの顔を見比べながら、白い髭に覆われた口を開いた。


「神獣とはこの祭殿の奥深くで、いにしえから長い長い眠りについている。この世は遍く神獣の夢の中。夢の中だからこそ、どこまでも世界は果てしなく広がって尽きない」


 幼いすいも、その伝承は母から何度も聞かされてきた。この世は全て神獣が微睡まどろみの中に見る夢であると。耀ようの祭殿は、いわば古代から続く神獣のために用意された、巨大な寝所なのだと。


いにしえからって、神獣ってのは随分と長いこと寝こけてるんだなあ」


 両手を頭の後ろに回しながらのがくのふざけた口調にも、老神官は眉をひそめることもなく穏やかな顔を向けた。


「むしろいつまでも神獣の安らかな眠りを妨げぬこと、それこそが儂らの務めよ」

「爺さんたち神官様はそうなんだろうけど、俺たちには関係ない話じゃ……」

がく、お前は少し口を慎め」


 いかにも高位の神官相手にさすがに度が過ぎると思ったのか、せんが慌ててがくの頭を押さえつける。だが老神官は無礼を気に懸けることなく、むしろ彼の軽口に応じるかの如く笑みを浮かべてみせた。


「関係ないどころか大有りよ。なにしろ神獣が目を覚ませば、この世の全てが消えて無くなってしまうのだからな。の中には、おぬしたちも含まれておるのだぞ」

「……全部無くなっちゃうの?」


 それまで黙って老神官の話に耳を傾けていたすいが、その言葉に反応して思わず尋ねる。


 彼女の問いに振り返った老神官は、今度は慈愛に満ちた視線ですいの顔を見返した。


「神獣が眠りについてから既に何百、何千年も経つと言われておる。滅多なことで起きることはない。だがあまりに世の中が騒がしくなれば、ひょっとすると目を覚ましてしまうかもしれん。だから儂らはこの世を平穏に保ち、神獣の夢が続くよう努めねばならんのだよ」


 腰を屈めて視線を同じくしながら、老神官は諭すように語りかける。その言葉にいちいち真剣に頷くすいの後ろで、がくが、こちらは明らかに話半分に聞き流していた。


「だからみんなで仲良くしろってか。昔のひとは上手いこと言うねえ」


 わかったような顔を見せるがくに、老神官が苦笑を投げかける。


「したり顔するのも程々にせいよ。この世界にはまだまだ、おぬしの知らないことに満ち溢れているぞ」


 再びせんに頭を抑えつけられたがくが小さく肩をすくめるのを見届けてから、老神官は今一度すいの顔を覗き込んだ。


「嬢ちゃん。神獣はかように寝坊助だが、ひとつだけ気をつけねばならんことがある」

「何に気をつけるの?」


 すいは黒い瞳をまん丸に見開いて問い返す。その表情に老神官は頬を弛ませながら、少女の小さな頭の上にそっと手を置いた。


「神獣は真名まなを呼ばれると、それがどこであっても聞きつける」

「真名?」

「神獣の本当の名前のことよ。その名はこの世の誰も、この儂も知らん。ただこの祭殿のどこかに、真名を記した書物があると伝わるだけだ」


 皺だらけの手に黒髪をくしゃりと撫でられながら、老神官から告げられた言葉を、すいは今でもよく覚えている。


「もし神獣の真名を知ることがあっても、決して口にしてはいかんよ。その名を口にすれば神獣は夢から覚めて、この世界も泡と消えてしまうのだから」


 ***


「私、神獣の真名、知ってるわ」


 だからキムの告白を聞いたとき、すいが本気で腰を抜かしそうになったとしても、それはやむを得ないことであった。

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