第二話 『大洋伝』

「島主様が主人公って、本当?」


 かつて書き上げたという物語の主人公の名前を思い出した――それが上紐恕じょうちゅうじょであると聞かされて、さすがにすいも驚いた。


「確かにりんが中心の歴史絵巻なら、島主様を抜きには語れないでしょうけど」

「本当よ。ジョーチュージョって名前、確かに覚えがあるもの」


 すいの問いに頷きながら、キムは手にした書物の頁を一枚めくる。


「それにこうして色々目にすることが出来たお陰で、少しずつだけどほかにも思い出せてきた気がする」


 キムが今手にしているのはりんの成り立ちをまとめた、この島の通史である。元来りんの島は独立した海運国家だったが、より強大ないつに対抗するために大国・びんと誼を通じるようになった。びんにとってもりんという拠点を内海に得ることは利があった。程なくして島主一族とびん王家は姻戚関係を結ぶようになり、既に三代を重ねている。


「でも今の島主様は、確かお母様もリンの人じゃなかった?」

「よく知ってるなあ」


 キムの顔を見返すすいの黒い瞳には、だが先ほどまでの驚愕はやや鳴りを潜めていた。


「それもキムの物語に書いてあるってこと?」

「うん。確か前の島主様は正室との間に子がなくて、地元出身の側室の子を跡継ぎに据えたって」


 つまり上紐恕じょうちゅうじょの祖母はびん王家出身だが、母は地元のりんの出身なのである。そして上紐恕じょうちゅうじょ自身はりんの生まれ育ちだ。宗家たるびん王家との関係は近からず遠からず、微妙な距離感と言える。


「王家の血を引くけれど主流ではない、その絶妙な立ち位置が、主役を張るにはぴったりだと思わない?」


 そう語るキムの瑠璃色の瞳には、何やらわくわくとしたものが浮かんでいる。


「それになんだか、ちょっと得体が知れない感じだし?」

「そう、そう」


 理想で描いた主人公を現実で目の当たりにして、キムが高揚するのも無理はない。だがすいは、この上紐恕じょうちゅうじょという島主についてこの一週間の記憶を振り返っていた。


 すいが屋形に上がるのは今回が初であり、従って上紐恕じょうちゅうじょと顔を合わせるのも初めてだ。上紐恕じょうちゅうじょが若さに似合わぬ人物だということは父から聞いていたが、実際に会ってみて父の言葉にようやく得心がいった。


 公私の区別については厳密だが、身内に対しては身分の上下を問わない気さくさがある。大きな口の端にたたえる笑みからは親しみやすさを感じるが、一方で相手を推し量る彼自身を偽っているように見えなくもない。


 そして史書の閲覧を許したときの、彼の一言。「楽しみにしているぞ」という言葉の裏には「必ず成果を出せ」という意味が込められているようにも思えた。


「なんていうか腹の底が見えないお人よね、島主様って」


 すいが漏らした一言は、キムにとっては的を射たものだったらしい。


「そりゃあ、これから一大事を成す英雄なんだから。それぐらいの底知れ無さは欲しいよね」

「一大事?」


 上紐恕じょうちゅうじょは約束通り史書や博物誌から創作物まで、ふたりに見せても構わなさそうな書物の山を彼女たちの私室に運ばせていた。山のような書物に囲まれるのは、飛家の屋敷でもお目にかかった光景である。だがさすが島主の蔵書だけあって、その山の大きさは倍するものがあった。


 りんの通史を読み終えたキムは積み上げられた書物から両手に一冊ずつ手に取って、次はどちらから取りかかろうか悩んでいる。その彼女の背中に、すいは問いを投げかけた。


「ねえ、一大事ってっどういうこと? っていうか――」


 上紐恕じょうちゅうじょが主人公の物語――それがキムが書き上げた物語だと聞いたときから、すいの頭にはひとつの疑問があった。


 上紐恕じょうちゅうじょはこのりんを良く治める権力者である。だがまだ年齢も若く、主人公として語られるほどに目立った業績など、すいは聞いたこともない。


 その彼が主役を張るという歴史絵巻、一大事を成す英雄の物語を、キムは綴ったというのだ。


「もしかしてキムが書いた物語って、これまでのりんじゃなくって、りんのこれからを書いたお話なんじゃ?」


 この世界の知識が何らかの形で伝わって、それをキムは物語にまとめたのだと言っていた。だとしたらそれは当然、過去にあった出来事でなければおかしい。


 だがまだ為政者としては若い上紐恕じょうちゅうじょが主役なら、物語となるべきは今後の彼の行動こそであろう。どう考えてもそこには齟齬がある。


「……『大洋伝』」


 両手に書物を抱えたまま振り返ったキムは、不意にそう呟き返した。


「『大洋伝』?」

「物語の題名よ。この世界の言葉で言うと『大洋伝』になるの。さっき思い出した」

「それらしい題名じゃない。で、肝心のお話の方は思い出せた?」


 身を乗り出すすいに対して、キムは一瞬宙を見上げ、それから視線を落とし、やがてゆっくりと面を持ち上げる。伏し目がちの瑠璃色の瞳に浮かぶ表情は、果たして考えを口にして良いものかを迷うものであった。


「その、まだ全部思い出したわけじゃないから。もう少しはっきりしたら教えるから、もうちょっと待って、ね?」

「そんなあ、あらすじ程度でいいから、教えてよ!」


 辛抱たまらないすいが駄々を捏ねる。飛びかかってきそうな勢いの少女を押しとどめるべく、キムは手にした本を盾のように突き出して防ぐ。しばらくの押し問答の末、先に沈黙したのはすいの方である。


 だがそれは彼女がキムの言い分に納得したというわけではなかった。目の前に『大洋伝』以上の関心事がある――そのことに気づいたからにほかならない。


「ねえ、この本は?」

「ああ、これ」


 すいに指差されて、キムはすいに見せつけるように翳していた一冊を見返した。


「これ、以前にスイに教えてもらった作家でしょう? その人が書いた本がほかにもあるんだと思って、読んでみようかなって」


 キムが手にした書物の表紙の題名は『天覧記』、その下にある作者名は『びょう遊紀』と同じ、琅藍ろうらんと記されていた。

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