生と死の境界 -tone-

 腕に伝わる震えが体の奥を揺さぶる。

 目の奥が痛くなり、頭痛が始まった。その痛みを振り払うように、腕に力を入れ思いっきり柔らかな首を絞める。迷わないように力を入れるほど、反動で心が痛む。これ以上、心が悲鳴を上げないよう自分の感情を殺す。何度も、血が出なくなるまで、痛みを感じなくなるまで。そうだ、これが俺の生き方だった。

「やだ……死にたくない……嫌だ」

 漏れ出た隼人の声に、俺は腕に込めていた力を抜いた。だらんとフェンスにもたれたまま、アスファルトへ腰を落とす姿を眺める。雨粒で冷やされていく痺れた手首。

「生きるのか、死ぬのか」

「……死にたくない。俺は、生きる! まだ、まだ生きる!」

 目を赤くした隼人が叫ぶ。咳き込みながら喉を抑えて。

 その声に俺は手を差し伸べ、体を引き起こすが、赤く色が付いた首元に視線が向く。これが俺の罪。

「お前が死んだら、誰か悲しむ人は居ないのか」

「そんな人……いや、妹かな」

「なら、それが生きる意味で良いんじゃないのか。別に傍にいろとかそんなことじゃない。どこかで生きていてくれるだけで嬉しいからな」

「そっか。俺はこれからどうしたら良い」

「さぁな」

 震える右手を必死に抑えながら、隼人の隣に並びフェンスから街を見下ろす。

 狭く、小さな街だ。もしかしたら隼人には、ここに広がる世界が全てに見えているのかもしれない。そんな牢獄のような世界では息が出来なくなる。

「このまま卒業まで学校に通い続けても良い。今すぐ街を出て、気になるところへ行っても良い。何かから逃げても良い。もし選べないなら、妹にでも聞いてみれば良い。生きるための選択肢が増えるはずだ」

「あぁ……どこか旅へ行きたいな。少し違う景色が見たい……妹も誘ってみるか」

「もしこれから先、生きるのが辛くなって、もうどうしようも無くなったときは俺を思い出せ。そして、すべて俺のせいにして、生きるか死ぬか決めろ。恨んで、悔やんで、呪え」

「悪魔か天使か分からないな」

 隼人が笑う。今日、初めて笑うところを見た。棘がなくなって、柔らかくなった表情には彼の脆さと優しさが滲んでいるように見える。俺も肩の荷が下りたような感覚、これは完全な自己満足だ。今、ここで死ねば幸せだったかもしれないと思う日が来るかもしれない。でもそんなこと、俺は知らない――。

「俺はお前の悪魔になるさ、すべて俺のせいにして生きろ」

「ありがとう、那岐。一つだけ聞いて良いか」

「答えられることなら」

「死んだら何もないって言ってたけど、那岐はどうして現世に囚われているんだ?」

「簡単に言うと未練だな。現世に未練があると死にきれずに、此岸と彼岸の狭間で彷徨うことになるんだ。そうなると安らぎも来世もなにも来ない、人の死を眺めるだけになる」

「はは、幽霊から話を聞くと説得力が違うな。無理やり笑おうとしても、それは辛すぎて無理だわ」

「だから俺は、その人たちの未練の原因を探ったり、未練を断ったりしているんだ。ちょっとした何でも屋だな。実は今回もその依頼で来てさ」

 そう告げると、隼人が目を丸くし首を傾げた。無理もないだろう、自分の知らないところで依頼を出されていたんだ。しかも相手は死者。

「誰かが俺のことを?」

「相手の幽霊には面識が無いらしいけど、いつも屋上で悩んでいる高校生がいて、どうにか話を聞いてあげて欲しいってさ。心配してた」

「心配してくれる人が……」

「ここから見えるんだけど、今も校門のところからこっちを見上げている。たぶん隼人には見えないはず」

「残念だけど、やっぱり俺には見えないな。ぐちゃぐちゃになった校庭が広がっているだけだ」

 そう言いながら手を振る。僅かにズレた視線の先では、水無瀬さんが手を振り返している。互いに一方通行の想いは、交差することは無い。

「依頼者の名前を聞いても?」

「水無瀬っていう女性だ」

 フェンスを掴むと、大きく息を吸う音がして叫んでいた。

「水無瀬さん! 有難う!」

 その声が雨音に消されてしまわないか、消されても想いは届いてくれるのか。

 未だに引かない首元の赤。そろそろ時間だろう、もう大丈夫だ。

「隼人、俺はもう行く。後悔はするなよ」

「ああ、もう少し生きることにする。まだ出来ることはあるしさ」

 喉元に手を伸ばす。さっと僅かに身を引いた隼人に罪悪感を覚えながら、赤くなった首を摩る。

「悪かった。痛かったと思うし、苦しかったと思う」

「大丈夫だ。これは俺が生きたいと思えた痛みだから。そんなに悲しそうな顔をするなよ。那岐はなんで泣きそうな表情で人の首を絞めるんだ? お前にその役目は似合わない気がするな」

「……そんなこと心配するな」

「あんな表情で殺されたら、心配で死にきれないって」

 隼人の喉から手を離し、視線を逸らしてからフェンスをすり抜けて反対側へと移る。フェンス越しの俺と隼人。この細い金属の壁が、生と死の境界。

「隼人、俺がお前の代わりに死んでやる。何度でも。だから生きたいように生きろ」

 踵を僅かに外へ出し、屋上の端に立った俺は、隼人の方を向きつつ両手を広げて息を吐いた。そしてそのまま体重を背中にかける。ゆっくりと反転していく世界で、隼人が何か言いたそうにフェンスを握る。その手に流れていた血は雨に流れて消えていた。

「心配するな、俺は人殺しだから――」

 それだけを伝えて笑う。目の前に厚い雲が覆う空が広がって、雨粒が目に染みる。頬を流れた暖かな水滴も地面へと落ちた。

 しっかり笑えたかな。

 地面に落ちたら痛いかな、やっぱり痛いよな。

 誰かが俺の名前を呼んでいる。たぶん隼人だ。それに、これは結雨の声だ。俺は死んでいるんだから気にする必要はないんだって、分かっているはずなのに大げさだな。隼人、他人の心配するよりも、自分の心配をしろよ。これがお前のしようとしたことなのにさ。

 地面が近くなり目を瞑る。

 俺はまた一つ、償いをする。


 衝撃が来ると思っていたのにも関わらず、落下の浮遊感が消えても痛みが来ない。目を開けて手を空へと伸ばす。手のひら越しに見える空は、鉛色のままだった。時間切れか……体が霊体に戻っていた。最後まで格好がつかないな。

 耳元で泥の跳ねる音がする。校庭に横たわっても汚れていない手の平が、現実を突きつけていた。

 緩慢な動きで体を起こす。痛みも汚れも無い体に、この世界から切り離された存在だと実感する。

「いた! 那岐、大丈夫?」

 生徒玄関の方から結雨が走ってくる。俺は片手だけ挙げて返事をする。

「何しているの! もう心配したんだよ! いきなり首を絞めるし、そうしたと思ったら飛び降りるし」

「成り行きで」

「成り行きって……さっき隼人君と話してきたよ。もう大丈夫だって、鍵も捨てるらしいよ」

「……そっか。まあ、鍵は捨てるより学校へ渡す方が良い気もするけど」

 結雨の声に安心して立ち上がる。

 雨はより一層強くなり、白煙が立つ。周囲の音が聞こえなくなり、強くなる孤独感。自分がどこに立っているのか見失いそうだ。

 霞んで見える校門へと足を運ぶ。足元ではすでに、形の違う足跡も、太さの違う轍も消えていた。


 校庭から一歩外へ出ると、横断歩道を挟んだ向こうに水無瀬さんが立っていた。うまく表情は読み取れないが、落ち着いた雰囲気が漂っている。

「どうでした?」

「生きることにしたみたいです」

「そうですか。その選択をしたのなら、私としてはもう十分です」

 その返事に込められた思いは、俺には分からない。生きることが良かったのか、隼人が何かを決断したのが良かったのか。それでも満足してくれているなら問題ないと思うことにする。

「依頼完了はこんなんで良かったのか」

「問題ないです。私の中にいる誰かも満足しています」

「じゃあ、一つだけ。水無瀬さんの中にいる人、その人の記憶を覗かせてもらっても良いですか」

「覗くって、私は良いけれど……」

「いや、覗くって言っても俺たちは断片に触れるだけで、実際に記憶を視るのは貴方だ。だから変な心配しないでくれ」

「分かりました。もしかして記憶を視れば、どうして私がこんな依頼をしたのか理解できると?」

「あぁ、少なくとも繋がりは分かるはず。触れる必要があるから手を出してくれ」

 水無瀬さんが手を出した瞬間、その手が雨に濡れ、髪からは雫がたれ始める。水を弾く白い肌が、重い空気の中に浮き上がり、仄かに光を反射した。

「結雨も手を出して、水無瀬さんに触れてくれないか」

 小さく頷くと右手を出して、水無瀬さんの左手に触れる。

「結雨、今から俺の力を貸す。目を瞑って指先に集中しろ」

 霊体のまま結雨の肩に手を置き、息を吐く。左手で顔を覆って集中する。大丈夫だ、何も問題はない。

 意識が混濁する。白と黒が入れ替わる。

 アスファルトの香りに、校庭の土の匂いが混ざって木の葉の緑が舞う。

「あっ――」

 結雨が声を上げると同時に、水無瀬さんが目を開く。その目は僅かに赤かった。

「視えました。彼女の記憶が。どうして私がこんな依頼をしたのかも……全部友達のためだったんだ」

 空を見上げた水無瀬さんが呟いた声に、俺は結雨の肩から手を離す。震えた唇の口角が少しだけ上がっていた。ごめんね、と漏らした言葉が空へと溶けた。

「二人ともありがとう。最後に私がここにいた意味も理解できました。これで迷いも、悔いも無く逝けます。さようなら」

「あぁ、またいつか」

 広がった群青色の優しい光。

 柔らかな粒子が俺たちの体を通り抜け、この世界から消え去った。"またいつか"、自分の言葉を頭の中で反芻する。俺たちにいつかは無いはずだ。次に会うときはお互いに認識することが出来ないだろう、それこそ前世の記憶が無ければ。

 結雨へと視線を向ける。

 震える手を必死に抑え、胸元に抱えていた。

「那岐……」

 視線が絡まる。

「那岐、私から依頼があります」

 迷いのない力強い瞳の光に、俺は覚悟を決めた。

 空を見上げる。やはりそこには青空が無かった。この雨は、誰かの恵みの雨になっているのだろうか。

 

 流れた血も、流れた涙も全て雨に流され消えていく。

 血を流すことで明日は変わらないし、涙を流すことで昨日は変わらない。ただ抑えきれない感情を流すだけだ。そこにどんな想いがあろうとも、祈りがあろうとも、世界は優しくなってくれない。この世は不平等で理不尽だ。

 それに人間はすぐに壊れる。目の前から大切な人が消えるだけで、たった一人消えるだけで崩れてしまう。

 人間は生きるには脆すぎる――。

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