【26 失踪】

 ◇――――◇――――◇


 ぶ厚い雲が夜空に蓋をする。

 外を見渡せど、コンテナ街に消えた朝比奈の姿は見当たらない。不気味なサイレンが、湾岸部一帯を包み始め、靴跡も、光るガラス片が告げる目印も、雨で全てが流されてゆく。


 別れの夜にしては、些か味気なさ過ぎた。


 チーフが贅沢をして、窓とテレビ回線付きのユニットバスを導入していたことが徒となったらしい。この場に朝比奈がいたことを示す物は、脱出時に使った香水瓶と巻き付けられたネクタイ、窓ガラスに残るわずかな血痕。そして便器に打ち捨てられた、使用済みの注射器。足下に視線を移せば、ユニットバスのコンソールからケーブルが引き抜かれていることに気がついた。

 逃がし屋LARKが、苦し紛れに呟く。

「今時花粉症なんてワケは、ないと思っちゃいたんだよ」


 声色からは若干の焦りが伺える。

「最初にヤクザ屋さんに連絡したのって、朝比奈さんの側でしたね」

「怪しいとは思っていたが、まさかこんなタイミングでやらかすとはな――はなっからノーマークになる瞬間を狙ってたな、こりゃあ」

「私が――ちゃんと見張ってたら」

 お前の所為じゃねえよ。LARKは軽く、しかし強かに諫めた。

 それは、はじめから期待なんかしていないという意思の表れである。


。 速攻で連れて戻るから、もう変なワイヤード遊びに手を出すなよ。 野郎、中途半端にずるがしこいが、体力はない――まだ遠くまでは行ってない」

 そう言い放ち、LARKは防水コートを手にして足早にデスクに戻る。大きな瞳は怒りの色に満ちている。

「まさか自分で撒いた罠に手間取るなんてな――コンサートまであと数分だぜ」

 コンテナ配置の看取り図を画像化し、端末に読ませてスクリーンセーバーに登録する。事務所の備品である懐中電灯の予備電源に接続して、表示機能以外をオフにする。端末の蓄電池だけでは光量が足らず、他の機能を使えば五分と保たないはずだ。


「若いからってナメやがって、逃がし屋から逃げられると思うなよ!」

 LARKはそう怒鳴ると、嵐のように事務所を飛び出した。去り際インナージャケットから一枚の写真が落ちた。


 見知らぬ大家族の集合写真。

 写真の端には、朝比奈と思わしき男性が、妻子を傍らにして微笑んでいた。


◇――――◇――――◇


 独り、残された。


 わかばはLARKを追うか追わぬかで戸惑った。巡回にきた他社の男が口にしたことを思い出し、一度はこの場に留まろうと思案した。だがこのまま何もせずにいても仕方がない。二分ほど迷ってから、結局わかばも出ることにした。

 急げ。


 今すぐに出て行かねば、また間に合わなくなる。

 わかばは再び、あの陰鬱な焦燥感に呑まれ掛けていた。見よう見まねでタイプを操作し、端末に見取り図を読ませる。補助電源に何が使えるかと事務所を物色して回っていたその時、辺り一帯が暗闇に包まれた。


「そんな!」


 雨音の向こうから響いてくる不気味なサイレンを遮って、天使たちの大合唱は始まる。かろうじて目的を果たせたでらしい端末を懐中電灯に接続させて、ぶかぶかのレインコートを被り事務所を飛び出すが、走り出した直後異変に気がついた。

「熱っつ!」

 不用心だった。


 放り出した端末と懐中電灯が、滑り落ちた側溝の中でじゅうじゅうと音を立てて沈む。画面表示機能をオフにしていなかったせいで、安物端末は十秒も経たない間に火傷するかと思うほど過熱していた。もう手遅れだ。


 雨は降り続けるが、振り払えない思い出は流れ落ちてくれない。

 たゆたう水面の向こうで、叔父がわらっているように思えた。

 その瞬間にこらえきれない怒りがこみ上げた。

「逃がすか――逃がすもんか!」

 地図の記憶だけを頼りに、わかばは闇の中に消えた朝比奈の影を追った。奥歯を噛みしめ、突き刺さるような冷たい雨をものともせず、コンテナの街道が途絶えるまで猛進する。吐く息は白いもやになる。胸の内に鼓動が鳴り響く。


 駅のときとは違う、毅然とした怒りが、わかばの奥底を突き動かした。

「自分で勝手に、逃げた癖に!」

 何も言わず、弁明もせず、ただ周りを置き去りにして、叔父はわかばの前から去った。今度はそうはさせない。せめて最期まで見届ける。そう決意した。


 人影が見えた。中背でおろおろと立ち呆けている。

 明らかにわかばは叔父を幻視していた。


◇――◇――◇


 迷わずわかばは蛇行しながらも走り寄り、人影に勢い任せで体当たりする。影はよろけ、千鳥足を踏みながら水音をたて、やがて浅い水たまりに尻もちをつく。


わかばは寒さと怒りに震える膝で影の上に馬乗りの姿勢でのしかかり、涙と雨で濡れる瞳で睨みつけながら腹の底から沸き立つ思いを怒声と共に浴びせる。


「逃がし屋から、逃げられると思わないで!」


 逃がし屋、とくぐもった声が放たれると共に、への字に折れた丸眼鏡が浅い水たまりに落ちる。ひゃあと影は驚喜の奇声で飛び起きると、わかばを押し返し、その華奢な膝にすがりついてきた。

「やっと見つけた、君がか! ずいぶんと若いなぁ!」

 はっと気がつき、わかばは自身の安易な行動を後悔した。


 朝比奈じゃない。

 膝に寄りかかる影を振りほどこうともがくが、お構いなしに影は叫びだす。

「ヤツのIPアドレスを辿って来たんだ! 交換機の移動から、港まで来ているのは分かったんだが、そこで動向がパッタリ途絶えて――いや、でも、自分のカードを盗まれたのが怪我の功名となるとは――なあ、駅の件は謝るよ、だからさ、ほんの少しでいいんだ、させてくれないか!」


「あ、あなた一体――」

 わかばは困惑した。目の前の男は、どうも朝比奈ではない。しかし、追手からすればわかばたち逃がし屋は仇のはずだ。何故こうも下手に出るのか。


「いや、そんなことは二の次だ。なあ、それよりも――」

 影は数秒黙り込み、ぜいぜいと肩で息をしながら粛々と切り出した。

「今回のクライアントを――を、この辺でてくれないか――」


 コンテナの向こう側から乾いた音がする。タイプライターの打刻音にも聞こえた。途端に悪寒が背筋を走る。わかばは影を振りほどくと震える膝で数歩戦く。影の男も銃声に焦ったのか、影もより熱っぽく一息に語り出す。


「わ、わかってるよ、君たちとて仕事なんだろう! だが、こうしなければ記事にしちゃいけない決まりなんだ――なあ、ガラムと仲南の件は知ってるだろ? どの道、奴は助からないよ、やり過ぎた! 追手の連中はあの通り完全にいきり立っててを欲してる――でもさ、コレはボクには好機なんだ! 上手くいったら、可能な限りで報酬の代換えもしよう!」


 影は嘆願するように膝を折り、わかばの冷たい手を取って詰め寄った。

「好機って、なんで――」

 わかばが影にそう訊ねると、影は小さく、しかしさらに熱を帯びた息で、最初からそういう契約だったんだと応えた。

「契約?」


「奴は――


 堰を切ったかのように、影はまた熱弁し始める。

「奴が、警察や元締めの手に掴まったら、また真実は闇の中に葬られる! それじゃこの数年間、私が死に物狂いで追いかけてきた、キミたちの事実も水の泡だ! 頼むよ私だって背水の陣なんだ、これ以上三文記者はやっていられない! ゴーストライターの飢え死に死体なんて冗談にもならない! 特ダネが欲しいんだ! 頼むよ、どうか協力してくれよ! だって、あんな男――」

――助けたところで、誰も喜びはしないだろう?――


 鬼気迫る口調で影は嘆願した。自分の状況と要求だけ告げて、こちらの事情は一切考慮していない。それどころか、時折銃声を耳にするこの現状下で、熱弁を揮っている。その半ば狂気の域に達した行動に、わかばは改めて恐怖を覚えた。

「ふ――ふ――」

 連弾と雨足が激しくなるに連れて膨れ上がる恐怖を、わかばは全身を震わせて声を張り上げる。

「ふざけないでください! それじゃ何のために私たち――」

 遠くで再びタイプが鳴る。だんだんと近づいてくる。

「こ、声を出すな! まだ連中が――」


 突如、激しさを増す雨音に混じって、乾いたタイプ音と布袋が破裂するような音が続けざま三度ほど続いた。

 それと同時に影は黙し、あたりでが香る。状況も読めないままわかばは震えながら、陰を注視する。やがて陰から影が現れると、それはゆっくりとコンテナ脇へ倒れ込む。恐る恐る影に近寄ったとき、わかばは息を呑んだ。

 血の泡を吐きながら、ヘンリー・ウィンターマンが横たわっていた。

「に――逃がし屋ぁ――」


 悲痛な声をにじませながら、記者はまぶたを見開きわかばをハッキリ見ていた。

 これがS-O-W。煙に捲かれ、人が消える。

 脱出不能の暗黒都市。


「ヒナカか?」


 野太い声が雨の向こう側から聞こえる。恐怖に怯えながら、わかばはその場を後に走り出す。直後、再びタイプライターの連弾が続けざまに三度響いた。水音が何度かあてずっぽうな方向から聞こえたが、ふり向く余裕などなかった。

「オイ、コイツ、あの記者か? じゃあ走っていくのは誰だ?」

「構うことァねえよ――どうせコイツもヒナカのグルだ!」

 いくつかの声と足音が、ヘンリーの遺体まで近寄る。


 シカゴ・タイプライターが唸る。記事は追記と修正がなされ、記者の人生にはピリオドが打たれた。もう二度と、あのサイトを更新することは出来なくなる。


「あそこだ、あのチビ!」

「カラードめ! 俺たちの仕事だけじゃ飽きたらず――」

「畜生、諸共ぶっ殺してやるっ!」


 声は追ってくる。わかばは狂騒の現場からから無我夢中で走り去った。やがて四方八方から、足音とタイプ音が近寄ってくる。わかばは、できるだけ暗く狭い通り道を探した。四つ辻に差し掛かり、とにかく陰になる場所へ逃げ込んだ。


 助かったと思ったそのとき、上方から襟首を掴まれ、力任せに引き上げられる。

 もうだめだと頭を抱えて縮こまると、聞き慣れた声が耳元で破裂した。


「何ほっつき歩いてんだ!」

 目を開けると、わかばはコンテナの影に引きずり込まれていた。LARKはわかばの姿勢を正し、手にした自動小銃を小脇に挟むと、両手でわかばの襟をつかんだ。

「余計な手出しはすんなって言ったろ!」

 途端に涙がこぼれ出す。安堵からくる足の震えで、立つことすらもままならない。

「た、端末落として――LARKさんの、手助けがしたくて、あの、記者さんが――」

 鼓動が高鳴る。胸ははり裂けそうになる。

 どうしようもなくなって、わかばはLARKに泣きつき、双房の合間に顔を押し込めて必死に嗚咽を殺した。過呼吸が収まるまで、そうやって黙っていたかったが、タイプライターの連続音を聞きつけた瞬間に、LARKはわかばを引きはがして再び険しい態度に戻る。

「説明は後だ、とにかく今は――」

 LARKもまた、極限まで緊張していた。苦虫を噛みしめ、わかばの腕を千切れんばかりの怪力で影の道に誘導した。雨音の向こう側から、断続的に重たい水音が響く。他方から別の一段近寄ってくる。


 その先頭から、が聞こえて来た。

「下がって、こっちで対処しますっ! 宝船の皆さん! 言ったとおり可能な限りで発砲を避けつつ、ヘンリー・ウィンターマンと、【容疑者 比仲漁尾】の確保を!」


 LARKが睨みつける視線の先に、新居田晴三郎はいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る