【19 雨情】
「嫌です」
◇――――◇――――◇
そう答えた直後、空になったカップがわかばめがけて飛んできた。
「粋がるな!」
避けることも目をつぶることもできず、茶色い滴が顔面に掛かる。
次いで、容赦ない怒声がわかばに降り注ぐ。
「足手まといなんだよ! 来て早々のテメェにケツもたれても、こちとら危なっかしくてやってられねえんだよ! 素人相手に下手に出れば調子乗りやがって、こっちはプロなんだぞ! 意地張るだけのプライドに見合った特技でもあんのかよ!」
鼓膜が爆ぜるかと思うほどの蛮声で、わかばは散々否定された。気圧され、立ち退こうとして椅子から転げ落ちて、わかばはその場で尻もちをついた。
反論することも目を背けることもできず、抵抗の一つもないままのわかばに、彼女は罵声を浴びせながら近寄る。
「そう調子よくことが進むと思ったのか? 考えれば分かるだろ、お前遊ばれてんだよ、あの男に! 今すぐ事務所走って、取り戻すモン力ずくで取り戻して帰れ! いいか、この都市にゃお前のママやパパになってくれる奴なんかいないし、自己防衛の出来ない奴が犬の餌になった所で誰も気にしちゃくれねえんだ!」
わかばは襟を掴まれ、腕力だけで宙に持ち上げられる。
「逃げる度胸もないんだったら、アタシの前から今すぐ消え失せろ――」
漆黒の瞳に明確な怒りを浮かべて、彼女は吐き捨てた。
わかばは、ただ震え上がるだけだった。
ほどなく店外から警備員たちが現れ、やけに場慣れした店員たちとの連係プレーで彼女を取り押さえ、わかばから引き離す。だが、両腕を拘束されても彼女は叫び続けた。
「触るな
遠吠えは店の外に追い出されても続いた。喧騒を呆然と見届けるだけのわかばには目もくれず、清掃具一式そろえた店員たちが手早く調度を正し始める。若い店員の一人が床に散らばったナプキンの中身を半分ほど頂戴したあと、顔も見ずに残りをわかばに差し出した。
「俺たちは仕事を果たした、出てってくれ」
わかばは何の感情もなく言われ、ナプキンを受け取る気にはなれなかった。
半ば逃げ出すようにして、わかばは店を無手で飛び出した。白い目で一瞥するさらりまんたちも、店の前で警戒する警備員たちも無視して、ただまっすぐに。
◇――◇――◇
予報通り、駅の外は土砂降りだった。
わかばは走った。人目もはばからず、泣きじゃくりながら。
人に当たろうが怒鳴られようが、無理をした身体が悲鳴を上げようが。ただ見当もなく沸き立つ思いに任せ、走って逃げ出した。
ついに身体が限界を迎え、土砂降りの駅前広場で盛大にすっ転ぶ。鉄の味は鼻孔の奥から喉へと抜けて、身体の熱は雨水に溶けて排水溝へと流れてゆく。
あれだけ昂っていた体温が、心を置き去りにして急激に冷えてゆく。
よろよろと立ち上があたりを見渡す。広場はずいぶんと寒く、わかばは再び膝をついた。その場で頭を抱え、丸まって小さくなった。ポーズをとればとるほどに、本当の思いは心で描くよりも先だって現れる。やがてそれは涙となった。
二週間ぶりにわかばは、声を上げて泣き出した。
ここは厭だ。消えてしまいたい。
その思いが、常に心の奥底に、居座り続けてきた。けれども、そうまでして守りたかった自分が、現実の前にあっさりと否定された。それがどこにいても同じならば、きっと、ずっと、生きている限り自分は負け犬のままだ。
はらわたの底から震えだし、心ごと内蔵が凍てついてゆく。奥底で暴れ回る感情と感傷が胃とまぶたに集められて、嗚咽や涙となってあふれだす。
世界から拒絶された、そんな錯覚へ陥る。
自分の泣き声以外の音が近くできなくなったとき、気味の悪い心地よさに心が沈んでいくのが分かった。自力じゃ抜け出せない泥沼に、わかばは踏み入ってしまった。そのとき始めて自覚した。
意地を張り、心を閉ざして、何もかもから遠ざけていたのは自分の方だ。
現実から逃げてきたのは、世界を拒絶してきたのは自分の方だ。
ここに残っているものは、織部わかばの幽霊だ。
いても居なくても変わらない、空っぽの過去の集積だ。
世界はわかばを見ようともしない。その証左に、濡れて崩れてうずくまり、静かに泣きじゃくるわかばを誰も、気に留めようとはしない。
当然だろう。
拒絶すれば認識されもしない。認識されていなければ、存在もない。
そうやって自己の中に逃げるうちに、最悪の道が目の前に広がっていた。
――なんだ、結局
――叔父と何も変わらないじゃないか
意地を張り、心を閉ざして、何もかもから遠ざけていたのは自分の方だった。
◇――――◇――――◇
「オイ、ボンクラ」
突然、周囲が淡く朱に染まり、降りしきる雨が何かに遮られた。
わかばはゆっくりと面を上げた。
「忘れモンだぜ」
褐色肌、茶色の縮れ髪、漆黒の大きな瞳。
雨に濡れた顔は、どこか仕方なさそうな笑みを浮かべている。
「こんな開けたところで大声だして泣くかよフツー」
「ボンクラのアンタでも気付くはずだと思うが、あの店も駅員も、あの腹立たしいオカマ野郎の息がかかってる――アタシがすっぽかしたら、今度は奴らが連帯責任を負うって構図でな――それは追々アタシ自身に返ってくる」
わかばと同じ視線に腰を下ろし、大きく息を吐く。
「やられたよ、アタシの負けだ」
重そうな荷物を持っていた掌は、少し赤みを帯びている。
「本当、いけ好かない上司ですね――」
全くだ、と呟いて、赤い掌がわかばの冷たくなった手を握る。
嘘みたいに熱い。
悪いことしちまったな、と傘の持ち主は小さく呟く。わかばがもう一度黒い瞳を見つめると、至極真剣な眼差しと口調で再度念を押した。
「今回限りだ。こっちの荷物はナマの身体一つで済む。 聴いてる限りじゃ追手は多いが、少なくとも素人筋だ、やり方さえ間違えなければ大事にはならい」
それでも覚悟しろ、と告げて、さらに強く、痛くなるほど握りしめる。
「死体が出るようなレベルじゃないとはいえ、ここで民警まで引っ張り出したらどうなるかわかんねえ――万が一にもこんなことでしくじったら、逃がし屋の信用に泥を塗る。 できる限りで最善、かつ最速の手を選ぶ。 だが、その代わりお前も全力を尽くせ、ワキャバ」
握り交わした拳は熱く、そしてとても大きかった。
信じられると思った。
懸命に握りしめ、しゃっくり混じりでわかばは嘯く。
「クリーニング代、後で請求しますね」
立ち上がろうと力んだとき、土砂降りの広場で二人とも盛大にすっ転げた。
◇――――◇――――◇
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