あれから暫くしても、彼の読書家だったという元カノのことは良く分からなかった。彼が自分から語らなかったし、私も愛している人の持ち物を漁るような真似はしたくなかった。代わりに自分の元彼の話をすれば語ってくれることもあるかもしれないと思い、私はあの夜のような時を狙って、何度か自分の話をした。

彼は私の二番目の恋人だ。初めて男性と付き合ったのは17歳の頃で、相手は高校の同級生だった。周りのお膳立てに流されて付き合って、手を繋いで、お互いの家に行って、キスをして、後はお互いに最後までやる勇気が無くて、世間で言う清い交際を続けた。受験が忙しくなって別れたが、別れ話が出た時には、情けないことに分かれる原因を作ってくれた受験に心の底では感謝をしていた。向こうもほっとしていたようだった。その意味で、私達はただ、周りの期待に応えただけで、お互いに愛しているはおろか、好きだったのかも怪しかった。

子どもだった。でも結婚する前に、こんな交際を経験出来て良かった、と思う。こんな風に結婚して、それが不幸であることにも気づかずに一生を終える人も少なくないと思うから。


「だから、事実上は帆純が最初の恋人なんだよ」


彼にそう伝えたら、仰向けになったままでそう、と言った。私は彼の上に跨っていた。彼の上半身を舐めていた時の肌の感触が、まだ舌の上に残っていた。彼が遅く帰って来て疲れている時は、ダイニングテーブルを飛ばしてこんな形で話を振ることもある。すごく恥ずかしい。けど、オレンジ色の甘い味を飲み込みながら話すと、気負わずに話せる気もしていた。言葉に詰まる度に、彼の体を舐めて、キスをして、時には彼の手に身を任せながら、慎重に話す。私にとってはこういう話は明るい所で向き合って話す方が難しいのだ。気づまりで話せない。

言葉に詰まる度に彼の心臓の辺りを見つめた。彼が息をする度に引き締まったお腹の皮膚が規則的に上下しているのを見て、ちゃんと聞いてくれているんだから、と自分に言い聞かせた。私の中の彼の一部が、私と共鳴するようにゆっくりと動いているのを歯を食いしばりながら確認する。彼が気まぐれに動く度に彼の身体を太ももで締め付けて、時間差で波のように襲ってくる快感に唇を噛んで耐える。彼のお腹に手を添えて、両手を口で押えて、時間稼ぎをする。私をおもちゃにする彼に、どんな風に試されたとしても、何でもないふりをして話したい。

彼は時折身体を突き上げて、私をいじめる。私が我慢しているのを知っていて、その顔好き、とか、もっと声出していいよ、と甘い声であからさまに囁く。汗で湿った前髪の下の目は潤んでいるのに、口元は加虐の笑みを浮かべているのが、壊れそうなガラスを見ているようで、不安定で、切なくて、愛しい。こんなのは愚かだと思うけれども、自分の体がずたずたになっても、抱きしめたくなる。

私はあなたのものだよ。でも。あなたも私のもの、だよね?私に密着している彼が不意に漏らす吐息や、身体の疼きを感じながら、そう問いかけてみる。

じゃれ合いながらお互いの身体を味わうこの時間が、私は本当は、大好き。澄ました顔をしている昼間のあなたにも、今の声、聞かせてみたい。共犯だよ、私達って。

二人とも汗だくになって来て、そろそろ限界だと思ったタイミングでこの駆け引きの愛撫を終える。いつもは、終えるのは彼の方からだ。

でもあの時は彼の過去を聞き出したかったから、私の方から体を離した。


「帆純の付き合ってた人のことも、もっと聞きたい。…ずるいよ。私ばっかり」


年下の特権を行使して甘えた声を出すと、彼は昼間の顔に戻って微笑んだ。


「素直な子だったよ、今の綾みたいに」

「茶化さないでよ」

「茶化してないよ」

「じゃあ、どんな子だったか教えて」

「……そうだなあ」


彼は話してくれた。同じ大学で、1年ほど付き合って、就職で別れたということ。意外と短かった。彼の口ぶりではもっと長いと思っていたから、拍子抜けだった。予想していた通り、今まで付き合った中で一番好きな子で、彼の就職で別れて、別れてからは交流もなく、今はどこで何をしているか分からないということだった。

別れる時に東京に行くって言ってたかな。

そう彼は言った。



背筋が寒くなった。



ここは目黒だ。



「別れる時に東京に行くって言ってたってことは、近所にいるかもしれないってこと?」

「……そうかもしれない。でも分かんないよ。昔のことだから」

「……そりゃそうだけど」


さっきまで汗だく寸前だったのが嘘のように身体の火照りが一気に冷めていく。数分前まで身体の中にあった彼の余熱が、まだ私の中で輪郭を作っておもちゃみたいに動いている。私は俯いて、彼の身体の上で腰を浮かせて座り直した。冷気に変わった汗のせいで風邪を引きそうで、惨めな気分になる。彼の左腕が私のお尻に伸びた。肉の柔らかな感触を確かめるように、ゆっくりと。彼の手の熱がお尻から私の身体にもう一度移ってくる。建前の慰めの言葉をもう一度掛けられているようで、情けなくなった。

大丈夫だよ、と彼が言う。言いながら右手で私の手を握って、手遊びをするように指を絡める。一体何が大丈夫なんだろうか。そりゃ自分にとっては大丈夫だろう。でもそれをそのまま私に言うの?私の方は全然大丈夫じゃないし、そんな言葉を掛けられても嬉しくも何ともない。気休めにもならないよ。そこまで全部分かってるはずなのに、そんな言葉を掛ける。大人の優しさかもしれないけど、そんなのは一種の嘘つきだよ。現にその幸せってどこにも本当が無い。


「もっとその人のこと教えて」

「…なんで?」

「なんでも」

「…そんな怒んないでよ」

「怒ってない」

「僕には今の綾、すっごく怒ってるように見えるよ」


彼は私を宥めるように笑った。困った子だな、と苦笑するような、余裕に満ちた保護者の笑い。笑い終わると、私から両手を離して、軽く伸びをすると、そのまま頭の後ろに回した。彼の下半身の筋肉が動いた時に、未練がましく目をやったのを、見られただろうか。それが気がかりだった。

彼はサイドテーブルの上の時計にちらっと目をやった後に、もやもやした気持ちでお互い続けても気持ちよくないだろうから、もう止めよっか今日、とあっけらかんと言った。

抜け目がない。やっぱり見られていた。手の平でいいように踊らされている気がして、いじわる、と呟いた。こういう時に、普通の男の人なら黙っていれば済むのかもしれないが、優しいけれど合理的に物事を考えるこの人にだんまりは通用しない。私が答えなかったら、枕元のスマホを持って、ごめんね、という言葉とともにベッドルームから出て行くまでだ。


「……最後までしたい」

「じゃあ、協力して」

「やだ、それとこれとは別」

「…そんなに知りたいの?綾は?………頑張るなあ」


無理やりにでもさっきの体勢に戻ろうかな、と考えていた矢先、彼は頭の後ろに回していた手をおもむろに解くと、私の腰を両手で掴んで、後ろに押しやった。自分から入れてごらん、と言うように彼は微かに頷いた。ついさっきまで全身で味わっていた熱い感触が、脳内を駆け巡る。彼とこういうことをする時はいつもそうなのだが、私の瞼の裏側には常に、直前に見たものの残像が残っている。それは目を閉じている時は、瞼一杯の大画面で、ちょうど大画面のテレビで動画を見るような感じで再生されている。目を開けた時は、視界の隅に追いやられてはいるものの、半透明の幻覚のような感じで残っている。常に遅れて再生されるそれを目にした時に、私は記憶で興奮する。私にとってのこれは、彼に愛された幸せな記憶であり、一種の予知夢でもある。これから彼にされることを予知した予知夢。だからそれを目にした時、私は上手く身体が制御出来なくなる。

そのまままっすぐにゆっくり腰を下ろしたはずなのに、予想以上にスピードがついてしまって、私ははうっ、と声を漏らした。自分で出した喘ぎ声の大きさと甘さに驚いて、私は両手で口を押えた。

身体が勝手に媚びている。彼に対して駆け引きはおろか、取り繕うことなど、もう出来ない。現に「どうしたの、綾?」と彼は涼しい声で聞いてきた。何でもない、と声を絞り出すのが精一杯だった。

何でもなくないだろ、と言って、彼は私のお尻をぐっと引き寄せた。さっきよりも深い所まで入っていく。語尾が悲鳴に近い喘ぎ声が、部屋中に響き渡った。

さっきまで冷え切っていた身体が、もう沸騰しそうな位に熱い。 身体の中で全身の血が沸騰して、好き放題暴れているみたいだ。私が吐く息は、白い湯気になっていた。動きたくないのに、腰が一人でに運動を始めていく。熱さのせいで頭が痺れて、思考がぼんやりしていく。もう難しいことは考えられない。熱いのは自分だけじゃなくて、この部屋も暑いかもしれない、と思い始めた。現に腰から太ももにかけて汗が水のように流れているし、太ももは汗でぬるついて滑ってしまいそうで、シーツには汗じみが出来始めていた。暑い、この部屋、もうやだ、暑い。暑くてたまらない。「綾さ、また、一人で気持ちよくなっちゃったんだろ」という彼の問いかけには、もう荒い息を漏らすばかりで、答えることが出来なかった。彼は答えなくていい、と言わんばかりに、彼の胸板に両手を置いて前傾姿勢になった私の胸を掬い上げるように揉んだ。自分の下半身に擦り付けるようにくねる動きを補助するかのように、私の腰を強く抱き寄せた。

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