第35話 記憶

 リタはぼんやりとした意識の中で、にぶく鳴り響く鐘のを聞いていた。

 この鐘のを聞くと、いつも何故だか懐かしさがこみ上げてきて不思議な感覚におちいるのだ。

(何処で聞いたんだろう? 誰かと一緒だった気がするな……誰だっけ?)

 リタは今にも意識を飛ばしてしまいそうなまどろみの中で、ぼんやりと昔の記憶を思い出していた。

 そこは何も見えない真っ暗な世界で、温かい水に包まれてふわふわと漂っていた気がする……。

 何も考えず、何も話すことなく、ただそこに浮かんでいる感覚がとても心地良かった。

――リタ

 名前を呼ばれて私は嬉しくて、でもまだ声が出せなかったから何とか伝えようと全身を使って返事をした。

 そしたらその人が喜んでくれたのが分かったから、私はそれが嬉しくて、それから何度も何度も言葉の代わりに動き回ったのを覚えている。

 ああ、その時だ。

 この鐘のを聞いたのは。

――リタ

 優しい穏やかな声と、重く響く鐘のは徐々にはっきりと、大きくなっていく。

 もっと呼んで欲しい。

――リタ、目覚めなさい

 耳元ではっきりと聞こえたその声は、リタをまどろみの中から一気に引き上げた。

――お母さん!

 リタははっと目を覚ました。

 先ほどまでの心地のいい夢とは打って変わって、目覚めた瞬間、頭はズキズキと割れるように脈打ち、耐え切れずうめき声を上げた。

 全身から冷や汗が吹き出し、歯を食いしばって痛みに耐えるが体の震えが止まらなかった。

 その時、そっと額に誰かの大きな手が触れたのを感じた。

 その手はひんやりと冷たくてリタは思わず目を閉じた。

 不要な熱や痛みを吸収してくれているようで、とても心地が良かった。

 次第に体の震えは止まり、呼吸が落ち着きだすと意識がはっきりとしてきた。

(誰だろう……)

 ゆっくりと目を開けてその手のぬしを認識した瞬間、リタは顔を歪めて泣き出した。

 喉がつかえて上手く声が発せない。

 でもどうしても早く言葉にしたかった。

 今思っていることをちゃんと言葉で伝えたかった。

「っ……おか……っえり……」

「ああ、ただいま」

 ジョナはリタの額に手を置きながら、穏やかな笑顔をリタに向けた。



 ジョナたちが母なる森に到着したのは結界が完成してから少し経った頃だった。

 日が沈み母なる森の夜は闇に包まれていた。

 本来であればこの暗闇を進むことは不可能だが、夜目の利く有翼馬に加え、“視える”目を持つ天使の子孫たちにはあまり関係ないようだった。

 広大な森を抜け、葬られた崖ガル・デルガが姿を現すと、ヴェリエルは首をしならせて崖を見上げた。

「想像以上に圧巻だな……」

 他の天使の子孫たちも葬られた崖ガル・デルガを見上げて、驚いているようだった。

「これ、どうやって登るんだ?」

 ヴェリエルは垂直にたたずむ目の前の崖を指さして、怪訝けげんそうにジョナに訊ねた。

「中に登れる通路が作られているから安心してくれ、さすがにダイモーンでもこれは登らない」

 ジョナはふっと笑うとゆっくり馬を進め、細い亀裂の入った岩壁の前で馬を止めた。

 ジョナが何やら呟き始めると細い亀裂からは青白い光がこぼれ、徐々に大きく太くなっていく。

 青白い光がすーっと消えていくと目の前にあった亀裂は馬が通れるほどの大きさに広がっていた。

「これが、魔術か……」

 ヴェリエルは目を丸くしながら小さく呟いた。

「さあ、入ってくれ。今夜着くことは伝達蝶で知らせてあるから、食事の用意が出来ているはずだ。案内する。馬は中に世話係が居るからそいつに渡してくれ」

 そう言うとジョナは亀裂の中に吸い込まれるようにして消えていった。

 ログやルーノ、ヴェリエルたちもそれに続いて、続々と葬られた崖ガル・デルガに消えていったのだった。


 ジョナたちを広間で待っていたのは、ダイモーン一族を背に、組んだ両手を額につけて深々と頭を下げている長老の姿だった。

 ジョナたちの姿が見えるとダイモーンたちはみな一斉に組んだ両手を額につけ、頭を下げた。

 それから、ヴェリエルや天使の子孫たちの紹介、そしてお互いのこれまでの経緯を説明し合った。

 この時ジョナには一刻も早く会いたい人物がいた。

 その人物は部屋の端でじっとジョナを見つめていた。

 どうやら彼も話があるようだ。

 今後の方針を確認しあい、詳しくは明日の早朝に会議が開かれる事になった。

 ジョナはヴェリエルたちを長老に任せ、足早に部屋の端で待っている彼の元へ向かった。

「シャミス、ライリーの事は長老から聞いた。リタは? それから、伝達蝶が破損していて上手く聞き取れなかったんだが、トーイにも何かあったのか?」

 出来るだけ落ち着いて話そうと心では思っていても、口はいう事を聞いてくれなかった。

 しかし、シャミスは矢継ぎ早に質問されても決して動じる事は無かった。

「伝達蝶にはトーイとライリーだけで飛行訓練を行う予定だって残したんだ。そっちは上手くいったよ。ライリーはトーイの飛行法を上手く真似て飛んだ。……でもごめん、リタを辛い目に合わせてしまった」

 シャミスは申し訳なさそうにうつむき、知識不足だったと呟いた。

「リタの状態は?」

「高熱が続いていて、目を覚まさないんだ。今は部屋で寝てるよ。ルアンナがずっと看病してくれていたんだ。今は代わりのダイモーンが看病してる」

 ジョナはシャミスの話を聞いて、一つ頷くと足早に広間を後にした。


 リタの部屋に入ると看病していたダイモーンは驚いたように顔を上げた。

「ジョナさん! お帰りなさいませ」

「今戻った。リタの状態は?」

「相変わらずです。熱が下がらず、目を覚まさないので治癒薬もまだ与えられてなくて……精神的なものからくるものですので、魔術ではどうにも出来なくて……」

「分かった。変わろう、君は広間に戻ってみんなと一緒に居るといい」

 そう言うとジョナは濡れた布をダイモーンから受け取った。

 部屋から足音が遠ざかっていったのを確認し、今まで看病していたダイモーンが座っていたであろう椅子に腰掛けて、大きく息を吐いた。

(無事で良かった、大きなことに巻き込まれなくて本当に良かった)

 安堵のため息をつき、呼吸が乱れた苦しそうなリタの顔をじっと見つめた。

(――リタ、目覚めてくれ)

 そう心の中で呟くと、驚いたことにリタの目がぱっと開いた。

 しかし、すぐにうめき声を上げ、体を震わし苦しみだした。

 ジョナは、その時ふいにリタとの思い出がよみがえった。

 突然知らない土地に連れてこられ、右も左も分からない状態で飛竜守りだと宣言され、それでも気丈に前を向こうと奮闘し、屈託なく笑うリタの笑顔が脳裏をかすめた。

 どうにかしてやりたかった。

 ジョナはそっとリタの額に手を置いた。

 すると不思議なことに、徐々にリタの顔から苦しみが抜けていくのが分かった。

 体の震えが止まり、呼吸が落ち着きだすとリタの瞼は再びゆっくりと開かれた。

 目が合った瞬間、子供のように泣き出したリタをみて、ジョナは何とも言えない愛しさが込み上げてくるのを感じた。

「っ……おか……っえり……」

 リタの精一杯のその一言がジョナには深く胸に突き刺さった。

 自分でも驚くほどに、心の中に温かい光のような、炎のような何かがともった気がした。

 ジョナはその感情に戸惑いつつ、穏やかに笑って見せた。

 そこからリタにようやく治癒薬を飲ませる事が出来、規則正しい穏やかな寝息を聞くまでジョナは傍を離れなかった。

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