第8話 踏み込んでこないはずなのに

「行ってきます」




「おばさん、おじさん、いってきます。今日もお邪魔しました」




僕と楓は揃って挨拶をしながら家を出るところだった。


朝食はまるで味がしなかったため、食べた気はまるでしなかったが構わない。


お腹が満たされているならそれで良かったし、この家にいることのほうがよほど苦痛だ。




できることなら僕ひとりで登校したいところだったが、楓がいる以上はそれは叶わない願いである。


彼氏彼女の関係になるずっと前から、ふたりで学校に向かうのは当たり前のことだったから。




僕の気分が晴れることは、きっと再びこの家に戻ってくるまでないだろう。


その時には両親もまだ仕事で帰ってこないはずだから、しばらくは自分だけの時間を満喫できる。


それまで我慢すればいい。今もリビングから顔を覗かせて僕らを見送る母さんの顔が、どれほど醜いものに見えたとしてもだ。




「はいはい、いってらっしゃい。凪、楓ちゃんに迷惑かけちゃ駄目よー」




そして最後まで僕を不快にさせるような言葉を投げかけられたとしても。


僕が我慢すればそれでいいんだ。




僕は返事を返すことなく、玄関の扉を開け放った。














天気は快晴。朝窓から見た通りの景色が、今も僕らを迎えてくれた。


それはきっと万人に等しく与えられている天から恵みのようなものだろう。


雲一つない綺麗な青空を見ると、少しだけ気分がすっとする。




「凪君。あの、あまり気にしないでね?おばさんも、悪気があっていってるわけじゃないだろうから」




だから、邪魔をしないで欲しかった。


今はなにも考えることなく心を空にしたい気分だったのに、蒸し返されるのは勘弁してもらいたい。


確かに家を出て十分ほど無言の時間が続いてはいるから、機嫌が悪いと思われて気まずさを感じてもおかしくないのだけど。




彼氏と彼女。小さい頃からの幼馴染。


その近すぎる距離感が、時には煩わしいときがあった。




楓からすれば僕をフォローしたつもりでもあるのだろう。


なにも言わない僕も確かに悪いが、そっとしておいて欲しいときは誰だってある。


それを汲んで欲しいと思うのは…ワガママなんだろうな、きっと。




楓にはこの気持ちは、きっと分からない。


誰かに比較されたとしても、彼女は常に持ち上げられる側の人間だ。


なにも持たず、劣等感にまみれた僕とは、違うんだ。




「分かってるよ。大丈夫、気にしてないから」




実際はそんなことはなく、気にしているのは確かだった。


だけど、それを口にしたくなんてない。親に言われたことをいつまでも引きずって不貞腐れているなんて、ガキ臭いにも程がある。




要は僕は意地を張っていたのだ。


たとえそれが楓にわかってしまうほど態度に出てしまっていたとしても、触れないで欲しかった。


僕の中にあるちっぽけなプライドが、弱音を吐くことを許してくれなかったのだ。




散々カッコ悪い姿を見せた後なら尚更であり、それを自分の口から出して、認めるのがどうしても嫌だった。


それがどんなに醜く、救いがたいものだとしても、僕はそれを彼女に見せることをしたくない。




それが楓に伝わらなくても、虚勢にすぎなくて、傍から見たらなんの意味がなかろうとも。


僕は好きだという気持ちを抱いた彼女の前では、格好をつけたかったのだ。




僕はやっぱり自分勝手で、醜かった。






「そっか…」




だからこの話はここで終わり。これ以上話すことなんて僕にはない。


後は学校に着くまでこのままで、教室で別れてそれで一区切り。


後は時間がなんとかしてくれるだろう。楓の性格上、これ以上なにかを言ってくることはないことは分かっている。


だからそれまでの我慢だ。そう思っていたのだけど。




「……ねぇ、凪君。なにか悩みとかあったりしない?」




ここで楓が踏み込んできたのは意外だった。




「え…」




「もし考えこむようなことがあるなら教えて欲しいなって…ううん、どんなことでもいいの。私でもなにか力になれることがあるかもしれないし、なにより…」




楓が僕を見つめてきた。その瞳は真っ直ぐで、どこか憂いを帯びている。




「私は凪君の、彼女だから」




そしてどこか儚げだった。


登校までの道のりを半分過ぎた通学路にはまだ学生の姿はまばらだったが、この楓の姿を見ればきっと見惚れる男子は数多くいることだろう。




「…………」




献身的で奥ゆかしい楓。きっと男子が望む理想的な彼女だろう。


今の楓を見て、僕はしばし思考が停止していた。


それは楓に見とれていたというのも確かにあったが、同時に違和感を感じたからだ。




いつもの楓なら、ここまで踏み込んでくることはしない。


良くも悪くも彼女は優しい子だ。誰かを傷付けることを好まないし、空気を読める。


だから今の会話で僕の雰囲気を察して引いてくれるはずだった。




言いたくないのなら言いたくなるまで待つのが楓のスタンスであり、その分相手から相談されたときは本当に親身になって手助けをする。


それが白瀬楓が学園のアイドルとして祀られ、今のカーストトップの位置に君臨する理由だ。




彼女に関して悪い評判を聞かないということは、裏を返せば嫌われるような行動を決して取らないということに繋がっていく。




楓の場合は相手に踏み込むすぎることを良しとしない、受動的な性格であることが大きいと思っている。


だからこそ僕という彼氏の存在は排除するべき異分子として見られているのだが、それに関しては今はどうでもいいことだ。重要なのはそこじゃない。




問題は、これが本当に楓自身の考えから出された言葉なのかということだ。




僕には誰かに入れ知恵をされたように思えてならなかった。僕だけが気付ける、これまでの楓ならしてこないはずの行動。その違和感。


妙に胸騒ぎがして、心のなかがざわついた。




だとしたら、それは誰だ?彼女の取り巻きの誰かか?


いや、それは違うだろう。彼女たちが僕を嫌っていることは知っている。


早く楓と別れろとすら思っているはずだ。




僕との仲をわざわざ取り持とうとするはずがない。


誰だ?誰が楓に影響を与えたんだ?


ここまで考えて僕はあることに思い当たってしまう。




(嫉妬してるのか?僕は。その相手に)




それはまたもどうしようもない自己嫌悪の考え。自分自身の醜さについてだった。




いるかも分からない相手にまで、嫉妬と身勝手な感情をぶつけようとしていることに気付いて愕然とする。




あんなに楓と距離を置きたがっていたくせに、僕は楓が誰かに取られることに強烈な嫌悪感を抱いていたのだ。




それはひどく身勝手で、醜い独占欲。どこまでも自分本位。




僕は本当に、どうしようもない、身勝手なやつだった。

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