【第11話】危機一髪


 耳のすぐ横を風が物凄い勢いで駆け抜けて心臓がキュウッとなった。

 真っ暗な視界の中、他人に聞かれてしまいそうなほどの速い鼓動と一緒に誰かの息遣いも聞こえていた。

 トク、トク、と十夜の鼓動とは別に規則正しく脈打つ鼓動の音を聞いていると妙な安心感が生まれてくる。

「こんなところで遊んでいたら危ないですよ」

 奇しくも十夜が女の子に言ったのと同じ言葉が降ってきた。

「う? うぅ…」

 みじろいた十夜をは腕の中から解放する。

 急に明るくなった視界で目が眩んだ十夜の足元は覚束ず、偶然にも距離を取ったことでその人の全貌が明らかになった。

 長身の男だ。

 表情は見えない。

 それは何故なのか。

 今日は雲一つない晴天でじんわり汗ばむそんな日に、黒の厚手の長袖パーカーとスラックス。ご丁寧にパーカーのフードを目深く被りサングラスまで付けていた。

 まるで人目と肌の露出を極端に避けているような印象を受けた。

 少なくとも授業でついさっきまで走っていた十夜にとって見ているこっちが暑くなってくるほどだった。

 明らかに普通ではない男に十夜は言葉が出なかった。

「やっぱり、お忘れですか?」

「え?」

 どうやら十夜を知っているようだった。十夜が何も返さないのをみて「いえ」とサングラス越しでも分かるくらい落胆の色が隠せなかった。

「すいません、知り合いと似ていたのでついそう言ってしまいました」

 何せこんな日にフードを被りサングラスまで掛けるという「怪しい」を具現化した人に知り合いもないはず―……。

「怪我もないようですので私はこれで」

 そそくさとその場から立ち去ろうとする背中を引き止めていた。

「緋天さんですよね。なんでそんな恰好してるんですか?」

 男の足が止まった。

「――覚えているんですか?」

「覚えてるも何も一週間前に会ったばっかりじゃないですか。そんな格好してたから気付くのが遅れましたけど、それにあんなお店忘れようにも忘れられないですって」

 お店での制服の印象が強すぎて、ラフな今の服装で分かる方が難しいだろう。



「あの、助けて下さったようで、あ、ありがとうございました」

「……いえ大したことではありませんよ。それにしてもは今授業中ですよね用もないのに公園の前でサボってるとさすがに先生に怒られますよ?」

「用ならありましたよ。ここにボールで遊んでた女の……子が……」 

 フラッシュバックした光景が浮かび十夜は公園の入り口の方を見た。

 そこには誰もいなかった。

 代わりに公園の入り口には潰れてひしゃげた赤いボールの残骸が地面に飛び散っていた。あたかもそれが血のように見えて、昼休みに食べたお弁当が胃の底から込み上げてくる感覚に思わず口元を押さえた。

「どうされました?」

 心配した緋天が十夜の肩に手を添えた。

「……用はあったんです緋天さん。あの、さっきまでここに誰か、誰かいましたよね。赤い服を着た女の子なんですけど 」

 緋天の腕に縋った。

「え?」

(お願い、いたって言って)

 一縷の望みを期待した。

 だけど――

「残念ですが十夜さんの言うような子供は見ていません、公園の中にも、どこにも。ずっと十夜さん一人だけでした」

 聞いているだけで背筋に冷たいものが伝う。

 

 もう抑えることなんて到底出来なかった。今までピンと張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。

「…う、ぅうう…ひ、っく……」

 俯いた十夜の目からポタポタと涙が落ちていった。


 ⁂


 緋天は縋ってきた十夜を好きなようにさせていた。ただ黙って十夜が落ち着くまでずっと傍にいた。

「…―い」

「ん?」

「怖いんです……緋天さん、ヒック、アタシ怖いんです。ずっと前から、こんなことばっかり、起こるんです」

 それは得たいの知れない純粋な恐怖。

 ずっと誰にも言えなかった。友達の真莉にも、幼馴染の亮平にも、家族でさえも。一人で抱え込み、追い詰められていたことを。誰にも言えずに。

 後から後から零れる涙を無理やり擦っていると、十夜の目線に合わせるようにして顔を覗き込んだ。

「…緋、天さん?」

「そんなに擦ると余計に赤くなりますよ」

 サングラスの奥、アッシュグレーの瞳が真っ直ぐ十夜に向けられていた。綺麗な顔を目の前にして思わず涙も引っ込んだ。

「実は貴女の事情はある人物から。ですがここでその話をするのは少々難しいようですね」

 緋天の視線の追うと学校側の歩道には女生徒の人だかりが出来ていた。それにいつの間にか公園に遊びに来ていた子連れの家族達がヒソヒソと噂話をしている。


 ――「え、変質者?」

 ――「危ない人かもよ」

 ――「警察に言った方が……」


 明らかに誤解を招いていた。

「はあ~…ろくに話も出来ませんね人目が多すぎる。なので十夜さん今から学校休んでください」

「えぇぇ!?」

「理由は適当にでっち上げて、いいですね。学校を早退出来たらに来て下さいそれですぐに分かります」

 唐突過ぎる話についていけなかった。

 公園にいる母親の一人が携帯を取り出したのを見て緋天が十夜の手を取って強引に何かを押し付けた。

「あ、待って。そういえばどうして私の名前知ってるんですか」

 名乗ったつもりはなかったのにどうして自分の名前を知ることが出来たのか。

「なん…!!」

 ふにっと柔らかいものが押し当てられた。

「それも来てくれればお答えします」

 唇に押し当てられた人差し指が離れ十夜が固まっている隙に緋天は足早にその場を去っていった。



 緋天の姿が交差点を曲がって見えなくなる。

 まるで金縛りにあったように硬直していた体が解れていく。

「い、今のは、夢??」

 唇に残った感触に思わず目が泳いだ。恥かしさを紛らわすように強引に握らされた掌の中を覗き込んだ。

「ハンカチ?」

 少しクシャついてしまっているけど染みのない真っ白いハンカチだった。広げてみると一輪の向日葵ひまわりが刺繍されてあった。

 十夜はその真っ白いハンカチを腫れた瞼に押し当て――覚悟を決めた。


 ⁂


「なになに? 夏目さんさっきの人誰?」

「恋人? 男の人だったよね?」

「それに抱き合ってた!」

「嘘、何それ素敵!」

 待ってました、と言わんばかりに我先にと事情を聞こうする女子生徒達にあっという間に取り囲まれてしまった。

 英雄の凱旋のように口々と興味と歓喜の黄色い声で歩道は溢れていた。真相を聞こうともみくちゃにされそうになるのを必死で避けながら目当ての人物を探していた。

「お前達何してる!」

 中々帰ってこない生徒達を心配して体育教師が駆けてくるが、火の付いた女子生徒はそんなことお構いなしで歩道を渋滞させていた。

 十夜は質問してくる女子達を何とか誤魔化しては躱し、ようやく人集りの中に目当ての人物を見つけた。

「真莉!」

 後続のさらに後ろにいた真莉は今着いたのか息を切らせていた。状況も分からずこの人だかりのせいで立ち往生しているようだった。近くの生徒に事情を聞こうとしていた手を掴んだ。

「と、十夜…どうかしたの? 何この人だかり」

「真莉聞いて、アタシ……足の調子がよくないから今日は帰るね。それで悪いんだけどアタシのクラスの担任にもそう言ってくれると助かる」

 泣いて少し腫れた顔を見られたくなくて俯いていた。

「……うんわかったよ、お大事にね」

 真莉はそれ以上何も聞かずに頷いた。

 隣のクラスなのにわざわざ伝言を託すのもこの中で一番信用しているのが真莉だからだ。

(ごめん真莉……本当のこと言えなくて)

 ごめんお願いね、と心の底から謝って未だに興奮して走りに行かない生徒達の収拾を余儀なくされた体育教師の元へいった。

 この騒動に十夜が関わっていたと知った体育教師が十夜に訝しげな目を向けていたが【ある単語】を耳にした瞬間、腫物を見る様な目に変わった。

 それからすぐに早退の許可が下り、教室に戻って制服に着替えた十夜はバレない程度に演技しながら堂々と学校を抜け出した。




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