二章 少年は絶対零度の花を掴む

少年は久々の学校へ登校する

「いってきまーす!」

「気をつけてねー」

「うん!」


 靴を履き、鞄を抱えると家を出た。

 仰ぎ見ると空は澄み渡っており気持ちが良い。五月ということもあり、徐々に春が終わりを迎え始め向かいの家に咲き誇っていた桜の木は深緑に染まっていた。


 この土日の間はほとんどをあちらの世界、ミュートロギアで過ごしていたため学校に行くのがとても久しぶりに感じる。

 こちらの世界での時間では土日のたった二日間だが、僕にとっては実は一月ぶりに近い。


 いつもより早く家を出たこともあり、空いている電車に乗って学校へと向かうことが出来た。校門の前では体育教師の鈴木先生が挨拶運動を生徒会の人たちと一緒に行っていた。


「おはようございます」

「おはようかざ……風間か?」

「え? そうですけど……」

「そうだよな。すまない、前に見た時よりも少し顔が大人びて見えて一瞬別人かと思ってしまった。今日はいつもより早い登校だな、一時間目は外で五十m《メートル》走のタイムを計るからそのつもりでな」


 軽く挨拶を交わすと、僕は一階の自分の教室へと向かった。

 教室にはまだ生徒が少なく閑散としている。


 僕は自分の荷物をロッカーに入れると、いつものように席に座って本を取り出した。

 何度も何度も読み返して、大切にしている僕の本。

 大好きな英雄ヒーローのことを網羅したヒーロー大全だ。


 栞を挟んでいたページに指を掛けたところで、静かに教室後方のドアが開かれた。入ってきたのは早川さんだった。

 クラスに既にいたクラスメイト達は教室に入ってきた早川さんに軽く挨拶をしていた。早川さんもそれに笑顔で答えながら僕の隣の席についた。


「おはよう風間君」

「え、あ、おはよう早川さん」


 ぼーっと見つめていたら突然早川さんに話しかけられどぎまぎしながらも挨拶を返す。いたたまれない気持ちになった僕は、視線を机の活字に落としたが、どうも右隣の早川さんからの視線を感じた。


「ねえ風間君……だよね?」

「え? ど、どうして? 僕は風間塵だけど……。さっき校門で鈴木先生にも同じことを言われたよ」

「何て言うか、雰囲気っていうのかな? それが先週の風間君と違って、一瞬別の人かなって思っちゃったの。気分を悪くしたならごめんなさい……」


 しゅん、と申し訳なさそうな表情で謝る早川さんを前に、あたふたとしながら僕は首をぶんぶんと横に勢いよく振った。


「全然そんなことないよ! 気にしないで!」

「……そう? それなら良かった」


 いつもは凛とした表情の早川さんの表情が和らいで、笑みを零した。思わずどきりとしてしまう。

 もし、僕に大切な……大好きな人がいなければ思わず惚れてしまっていたかもしれない。


 軽く早川さんと話していると、いつの間にか教室の中に生徒が増えており教室の中は徐々に活気づき始めていた。それ故に僕なんかと早川さんが話しているのは目立ったのか、多くの視線を感じた。


 人気者の早川さんと皆に笑われている僕。そんな対象的で不釣り合いな二人が話していれば皆はあまり良く思わないだろう。


 そう思い、僕は会話を切り上げるとヒーロー大全に視線を落とした。

 僕が笑われているのはよく知っているし、自分でも何故笑われているのかは理解している。中学生にもなって英雄ヒーローに憧れているなんて恥ずかしい、そう皆が思っているからだ。


 でも、そんな中でも早川さんだけは違った。僕と対等に話してくれて、決して僕のことを馬鹿にしなかった。それどころか揶揄からかわれる僕のことを庇ってくれた。

 そんな優しい彼女が僕なんかと話しているせいで嫌な思いをするのは絶対に嫌だ。


「あ……」


 小さな声でまだ何かを言おうとしている早川さんの言葉が聞こえないふりをした。

 罪悪感で胸の中はいっぱいだった。早川さんに嫌われてしまうかもしれないけど、それでもこうするのが正解なんだ。


 そうしている間にもクラスメイトは続々と教室の中に増えていき、気づけば早川さんは女子に囲まれ、その輪に混ざって会話していた。

 時間は刻々と過ぎていき、もうすぐホームルームの時間かという時に教室の背後の扉から入ってきた東郷君が欠伸をしながらやってきた。


 気怠そうに歩きながら、ふとした瞬間に僕と一瞬目が合った。

 その瞬間、東郷君は僅かに目を開き、その場で止まった。訝しそうに僕のことを凝視しながら一歩ずつこちらに歩み寄ってきた瞬間、教室の前方の扉が開いた。

 東郷君は足を止め、方向転換すると自分の席へと急いで向かった。


「これからホームルームを――」


 ♢♢♢


 いつもよりも長く感じるホームルームが終わるや否や僕は男子更衣室へと一人向かう。

 何故か今日は色々な人から視線を感じる。東郷君もホームルーム中ずっとこちらを見つめてきたし、他のクラスメイト達からもしばしば視線を感じていた。

 どうにも居心地の悪い僕は視線から逃げるようにして更衣室へと急いだ。


 事前に制服の下に体操服を着込んできたため、制服を脱ぐとそのまま校庭へと向かった。


 一番に校庭へ出ると、そこには既に鈴木先生の姿があった。


「お、風間早いな」

「はい、今日はまあ……。気合が入ったので」


 曖昧に苦笑いを浮かべると鈴木先生は笑顔で頷き返してくれた。


「そうか。それにしても風間、お前やっぱり体格が前よりもしっかりしたんじゃないか? 前はもっと線が細かっただろ」


 ちょっと触るぞ、と鈴木先生は僕の肩や背中などの筋肉や骨格を確かめるようになぞった。こそばゆく感じていると、鈴木先生は「ふむ……」と息を漏らした。


「何か運動でも始めたのか?」

「ええ、まあ……。えーっと、武術を少しですかね?」

「なるほどな。それなら納得できる。運動していて感心感心」


 そう言って笑っていると、後続のクラスメイト達が続々と昇降口から姿を現し始めた。

 すると、ピーッと甲高い笛の音が校庭に鳴り響いた。


「お前らー! 急げー! もう授業始めるぞ!」


 鈴木先生のその言葉に焦った生徒たちは一様に駆け足で向かってきた。

 背の順で並ぶ皆に合わせ、僕も列に加わった。


「いつも通りまずはラジオ体操、そのあとは校庭三週するぞ」


 鈴木先生の指示に一同が「はーい」と頷くとCDプレーヤーからラジオ体操の音楽が流れ始めた。

 身体をストレッチし、徐々に暖かくなってくるのを感じているとあっという間に終わりを迎えた。


 体操が終わると間もなく笛の音が鳴った。校庭を走る合図だ。

 各々が自分のペースで駆け出した。


 僕は運動が苦手で、いつも最後尾の方をゆっくりと走っていたが、今はどうなのだろう。ミュートロギアではアレクの下で色々と鍛えたし、このくらいの運動なら。


 走り出す皆から一拍空けて走り出した。

 走り始めると自分の身体が驚くほど軽いことに気が付いた。元々太っているわけではなかったが、あちらの世界で鍛えている間に細かった身体に筋肉がついたためだろうか。


 軽く走っていると前方に男子達から少し離れた女子の集団が現れた。それを横から追い抜かしていく。

 そのままのペースで走っているとあっという間に男子の後続に追いついた。

 これもまた追い抜くと、いつの間にか僕は先頭を走っていた運動部の男子達に追いついていた。


(すごい、前までは男子の後続をついていくので精一杯だったのに、簡単に先頭までこれちゃった……)


 自分でも驚きを隠せないでいると、すぐ後ろに僕がいることに気が付いた東郷君がぎょっと目を剥いた。

 何かを言うわけでもなく、そのまま前を向くと東郷君は足の回転を早め、さらに加速し始める。まるで追いつけるものなら追いついてみろと言わんばかりの東郷君に、僕は少し自分でも試してみたくなった。


(まだ体力は全然残ってる)


 先頭集団から一人飛びぬけた東郷君の後を追従する。僕がぴったりと後ろに付いてきていることに気が付く度に東郷君は速度を上げた。

 ただ、それでも僕は東郷君のスピードについていけた。しかし、僕が追い付く度に加速していた東郷君が二週目を超えた辺りから失速し始めた。


「はぁ……はぁ……!」


 その荒い息遣いはすぐ後ろを駆ける僕にも聞こえてくるほどであり、首筋は大粒の汗で濡れていた。

 最後ラストの一周、どんどん速度の落ちていく東郷君を追い抜かし、遂には僕がクラスの誰よりも早くウォーミングアップを終わらせてしまった。


 あれだけ走ったというのに、僕の身体は全く疲れていない。それどころか息一つ上がっていないのだ。

 自分の身体の成長に我ながら驚いていると、後ろから息を切らした東郷君がやってきた。その後に続くように続々と走り終わったクラスメイト達から痛い程視線を感じたが、そんなことが気にならないほど晴れやかだった。

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