第二十話 愛情の形

 陽一が女の子と話していた。とても親しそうだった。今まで陽一が他の女の子とあんな風に接しているところを、星奈は見たことがなかった。初めて見る陽一の姿だった。

 ホームルームが終わり、陽一の教室へ向かった星奈が見た光景は、そういうものだった。

 陽一だけじゃない。彼と話していた女子の、あの顔。態度。経験のない星奈でも気づく。気づいてしまう。あれは、あれは――

「っ……!」

 思ったときには、足が勝手に走り出していた。教室を離れ、廊下の隅まで走り、階段を駆け上がる。息が切れるほど必死で足を回転させて、辿り着いたのは屋上の扉の前だった。

 扉は常に施錠されていて、実際に屋上に上がることはできない。だから、こんな場所に来る人はまずいない。そこにいるのは星奈一人だった。

 床に膝と両手を付き、肩で息をする。動悸が激しく、とめどなく汗が流れ出た。ぼたぼたと、次から次へ床へと水滴が落ちていく。両眼が痛み、視界が滲んだ。

「よ……ぃちっ」

 やり場のない感情は、兄の名前を呼ぶ声となって口から零れた。それだけで喉が軋み、胸が抉られる気分になる。今まで懸命に遠ざけようとしていた現実が、容赦なく星奈の首を締め上げていた。

 遠い。寂しい。どれだけ縋っても、きつく抱きしめても、いつか陽一が離れていってしまうのではという不安が、今まさに的中しようとしていた。予想はしていても、終ぞ覚悟することができなかった痛みが、抵抗もままならない星奈の総身を苛んだ。

 這っているのか倒れているのか、呼吸ができているのか、自分が生きているのかさえ曖昧に感じながら、ただただ嗚咽を漏らしていた彼女の耳に、ふと誰かの足音が届いた。

 反応しようとしたが、咄嗟に身体が動かない。そんな彼女がどうにか目を動かすと、そこに見知った顔が映った。

「思いの外足が速いんだな、星奈くんは。おかげで一時は見失った。少し焦ったぞ」

「かまた……せんぱい?」

 ゆっくりと確かな足取りで階段を登りながら声をかけてきた学に、虚ろな表情の星奈が声を漏らす。

 星奈の有り様を目の当たりにしながら、学は何も言及しなかった。床に横たわって涙を流す彼女の隣に腰を下ろすと、敢えてそちらには目をやらないようにしつつ、

「うちのクラスの前で見かけたと思ったら、急に走り出すから驚いたぞ。何かあったか?」

 尋ねる言葉とは裏腹に、まるで何もかも見透かしたような口ぶりだ。彼の余裕を感じさせる佇まいは、疲弊した星奈の心にも、その気遣いをすんなりと染み渡らせた。

 わずかばかりではあるが気力を取り戻した星奈が、どうにか身体を起き上がらせた。床にぺたんと座り込んだまま、明後日の方向を見つめる学の後頭部に目を向けて、ゆっくりと口を動かす。

「……その……」

「うん」

「陽一が……女の子と」

「鬼頭か。うちのクラスメイトだな。確かに最近、陽一とよく話しているところは見かけた」

 途切れ途切れの言葉しか出てこない星奈とは対照的に、学は低く落ち着いた、歯切れのいい返事とともに頷く。彼が言うと、星奈は背筋を震わせ、眉を曲げた。ひどく消沈した声で、

「……付き合ったりするのかな、って思って……」

 今にも掠れて消えそうな小さな声だったが、学は聞き漏らしたわけではない。その上で、彼は敢えて無言を貫いた。何を言うわけでも、振り返るわけでもなく、ただ壁のような背中を星奈に見せたまま、じっと佇んでいた。

 実際、その方が星奈も落ち着いたようだ。彼女は物言わぬ学の背中に、続けざまに語りかけた。

「前は、陽一とずっと一緒にいられるって思ってた。けど、それは無理だって言われて、それが本当のことだってだんだん分かってきて……でも、認めたくなくて……」

 星奈の声は際限なくトーンダウンしていき、それでも彼女は救いを求めるように、必死で言葉を紡ぎ続けた。それを、やはり学は目を向けないまま聞いていた。

「いつか離れ離れになっちゃうって思ったら、すごく気持ち悪くて……ちょっとでも陽一の傍にいたくて、陽一に迷惑かけて、それなのに全然安心できなくて……変なの。私、自分がおかし過ぎて、もう何がなんだか分かんない……」

 彼に見えないことは分かっている。それでも、星奈の手が自然と学の方へ伸びた。伸ばしても届かず、それでも何かを求めるように手を下ろさないまま、彼女は震える声を投げかける。

「ねぇ、鎌田先輩……わたし……私どうしたらいいと思う?」

 弱音を吐くこと自体が珍しい星奈だが、家族以外にここまで縋るようなことを言ったのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。

 胸にわだかまる不安をそのまま吐露したその問いは、あまりにも曖昧に過ぎた。にも関わらず、聞き届けた学は、そこでようやく星奈の方へ振り返り、穏やかに笑んで見せた。万人に慕われると言っても過言ではない、彼の頼もしさを体現したような微笑だった。

 その彼が、ゆっくりと口を開く。

「そうだな。まずは誤解を解くべきだろう」

 問いが曖昧なら、その答えも曖昧だった。きょとんと瞬く星奈の目尻から、涙が一筋滑り落ちるが、新たに涙が湧き出てくる気配はない。

 意表を突かれて固まった星奈だが、学もはぐらかそうとしているわけではない。意味のある反応を得られるより早く、彼は再び声をかけた。

「何故、君と陽一が一緒にいることが、無理なことなんだ? 俺にはそれが分からん」

「えっ」

 あっけらかんと投げかけられた言葉に、またも星奈は虚を突かれて狼狽えた。見守るように温かで、しかし回答を放棄することは許そうとしない学の眼差しに不思議なプレッシャーを感じた星奈は、首を縮めながら口を動かす。

「だ、だって、もし陽一に彼女ができたりしたら、私にばっかり構っていられないだろうし……」

「確かにそうなればあり得ることだが、そうでない可能性だってあるだろう。むしろその可能性の方が高いと俺は思う。その場合は?」

「それは……」

 以前珠代に言われた言葉を繰り返す星奈だったが、間髪入れずに次の問いが返ってくる。口ごもりつつも答えようとした星奈だったが、

「あいつの進路希望も聞いたが、県内の大学だそうだな。一人暮らしも面倒がっていたし、何より、おいそれと星奈くんの元を離れたがるとは思えん」

 それに先んじて、学がさらに言葉を重ねた。しかも、何やら楽しげなトーンだ。言おうとしたことを先回りされたことより、彼の声音が気になって首を傾げる星奈に、学は今度は少し得意そうな笑みで告げた。

「陽一がわざわざ言ったとも思えんが……ゴールデンウィークの最終日、君が風邪を引いたのは、無論覚えているだろう。君自身のことだし」

「は、はい」

「あのとき、陽一に買い物を頼まれたんだ。君の傍をできる限り離れたくないから、という理由で」

 初めて知った事実に、目を丸くする星奈。彼女は信じ難いという風で、

「ほんとに鎌田先輩が……?」

「おかゆとスポーツドリンク、ヨーグルト、それにみかんの缶詰だったか。合っているだろう?」

「ほ……ほんとに、陽一が頼んだの?」

「生憎と、何も聞かずにあれだけの用意ができるほど察しは良くないぞ、俺は」

 問いを重ねられ、学は肩を竦めて嘯いた。片や星奈の方は、唖然とした様子で口を半開きにしたまま、言葉を失っていた。

 陽一と学が気安い間柄であるのは間違いない。それでも、学に買い物を頼んでまで、陽一が星奈の傍を離れまいとしてくれたというのは、大きな驚きだった。そうまでして、星奈を独りにすることを避けようとした陽一の心遣いが、むず痒く感じる一方、焦がれるほど嬉しかった。

「君にそう伝えた人間がどういう意図だったのかは知る由もないが――「兄妹だからといってずっと一緒にはいられない」というのは、解釈の仕方によっては正しいとも言える」

 舞い上がり気味だった星奈を引っ張り下ろすように、学が新たに言う。途端に意識がクリアに現実を捉え、星奈は無意識に表情を引き締めた。

 ただ、学の声には気遣うようなニュアンスがない。裏を返せば、彼が言おうとしていることは、特段星奈が気落ちするような内容ではないのだと分かった。現に、すぐさま彼は言葉を継ぐ。

「兄妹である、という理由だけで共に在り続けるのには、確かに限界があるだろう。だが、自分で自分の人生を形作れるようになったときに、君の選択を咎める権利は誰にもない。君の友人にも、ご両親にも、陽一にだって在りはしない」

 淀みない、それでいて穏やかな語り口は、乾いた砂が水を吸い込むように、自然と星奈の胸に沁み込んだ。今まで考えもしなかった指摘。なのに、不思議と腑に落ちる。そんな感覚に、星奈は呆然と立ち尽くしたまま耳を傾けた。

「恋人を作るのも作らないのも君の自由。一人で暮らすのも、誰かと一緒に生きていくのも君の自由。当然、誰と共に在りたいと願うかもだ。改めて自分自身の意志で陽一と一緒にいたいと決めたのなら、その想いを、気持ちを、誰が否定できる?」

 断じるような響きは、重たくも優しく、星奈の胸に降り注いだ。芽吹いていた不安が、列をなして枯れていく。

 それでも微かに残るしこりを気にするように、胸元に手を当てながら星奈が零す。

「……いいのかな、本当に」

 学がごくわずかに――星奈が気づかないほど微かに、その目を細めた。

 肯定するのは簡単だ。だが、彼がただ「いいとも」と言ったところで、どれほどの後押しになるか。勿論、単にそれだけのことを求めているのだろうとは思ったが、それでも彼は安易な選択を善しとしなかった。

 フッと小さく笑みを零し、学は言う。

「星奈くんは、陽一が好きなのだろう?」

「…………ふぇ?」

 星奈の目が点になった。

 奇妙な声を漏らして、彼女が硬直する。浮かべるべき表情がまるで分からず、陶器じみて無機質な顔のまま、身動ぎ一つできなくなった。

 その、完全に宙を泳いだ瞳を目で追いながら、学は星奈が意味のある言葉を取り戻すより先に続けた。

「大切な家族、ずっと一緒に暮らしてきた兄妹だ。愛情を持っていて当然だろう。無論、恋愛とは意味合いが違うだろうが」

 からかいの混じる声で彼は言う。星奈は未だに茫然とした表情を彼の方へ向けていた。

「それでも。家族愛や兄妹愛であろうとも、それが誰かと一緒に在りたいと思う理由として不足だとは思わん。恋愛感情だけが特別なわけがない。愛情に貴賤などない。俺はそう信じている」

 放心し切った星奈の両眼をひたと見据え、学はそう言い切った。言い終えた彼自身は、そこはかとなく満足げだ。

 彼の言葉を反芻しているのか、星奈は二度、三度と瞬きしつつも、長い間それ以外の反応を示さなかった。そんな彼女を、学も辛抱強く見つめ続ける。

 流れていく沈黙の時間。だが、やがてそれも終わりを迎える。まるで唐突に時間が動き出したかのように、星奈は大きく息を吐きながら、強張っていた肩を下ろした。

 彼女が言う。

「鎌田先輩……その、私……」

「ああ」

 緊張や不安ではなく、気が抜けた風の声で切れ切れに言葉を絞り出す彼女に、学は落ち着かせるように短く相槌を打って頷く。そんな彼を真っ直ぐに見つめて、星奈は少しぎこちなくはにかんで、囁いた。

「……鎌田先輩。ありがとう」

「ああ」

「私、陽一が好き」

「ああ……うん? うん……?」

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