第十八話 対峙

 チャイムが鳴る。

 ペンを固く握りしめたまま問題用紙と答案に目を走らせていた陽一は、大きく息を吐きながらそれを置き、椅子の背もたれに深く身を預けた。

「終わったー……」

 答案を後ろから前の席へと送りながら、絞り出すような声で呟く。彼の手を離れた答案用紙には空欄が散見された。元々得意とは言い難い世界史とはいえ、少々口惜しい気持ちが残る。流石に赤点まではないと思いたいが。

 中間テストも今のでラストだ。試験監督の先生が教室を出ていくと、途端にクラスメイトたちが騒ぎ出す。多くは試験が終わった解放感を、一部は手応えに対する嘆きを口にしていた。

「どうだった、陽一」

 そんな中、学が陽一の席に近づいてきてそう尋ねる。思えば、最近は花園と一緒にいる時間が増えたせいか、あまり彼と話す機会もなかったな、と、陽一の脳裏を感慨が過る。

 陽一は軽く肩を竦め、

「今回はいまいちだな。ちょっと早めにと思って一、二年の復習始めたんだが、思ったより忘れててさ。ついそっちに気ぃ取られちまって」

「ほう?」

 苦笑とともに言い訳がましい台詞を口にした陽一に対し、学は面白がるような声を上げて、腕を組みながら眉を持ち上げた。彼の不可解な反応に胡乱そうな目を向ける陽一を見下ろし、学はそのままの口調で言う。

「復習か。それは星奈くんの勉強を見るついでだったんじゃないか?」

「……まぁ、そうでもあるけど」

 予想外に図星を突かれ、半ば唖然と認めた陽一に、学はもう一度楽しげに鼻を鳴らして、

「まあいいんじゃないか? 実際、定期テストの点数より入試の方が大事だからな。俺などはつい目先の点数で見栄を張りたくなって、テスト対策に注力してしまったが」

「お前の場合、そう言いながらしれっと両立するからすげぇよな」

「買いかぶりだ」

 陽一が苦笑気味に返すと、学も苦笑して首を振った。

 そうやって二人が話しているところに、将也も近づいてきた。二人が目をやると、彼はさりげなく周囲を見回してから、陽一のすぐ隣に立つ。

 どことなくそわそわしたような、或いは周りを警戒でもしているような仕草に、陽一と学は思わず首を傾げた。

「どうした香坂、そんなに聞かれたらヤバい出来だったのか?」

 冗談めかして声をかけてはみたものの、そうじゃないことは何となく感じて取れた。台詞とは裏腹に緊張感の滲む表情で待ち受ける彼に気づいたか、将也も陽一に目を移して、声を潜めて語りかける。

「陽一、ちょっと聞け」

「何だ?」

 真剣な声で切り出した将也に、陽一も短く答える。傍らの学も、ただならぬ雰囲気に眉を顰め、口を閉ざしていた。

 が――

「あの――」

「おぉーい席着けぇ~。ホームルーム始めるぞぉ」

 何か言いかけた将也の台詞を遮って、担任の藤壺先生が教室に入ってきた。反射的に口を噤んだ将也に、陽一と学の生暖かい目が向けられる。

 居た堪れない表情を浮かべた陽一は、軽く将也の腹を小突いて言った。

「一旦席戻っとけ。後で聞いてやるから」

「……まぁ、しゃあねぇな」

 渋々ながらも頷いて答え、将也はそそくさと自分の席に戻っていった。学も訝る様子は見せながらも、陽一から離れていく。

 彼らだけでなく、まばらに散って駄弁っていた生徒たちが、のろのろと席に着く。全員の着席を確認した藤壺先生は、いつも通りの間延びした声でホームルームを開始した。

 とはいっても、大して重要な連絡事項があるわけでもなく、数分でホームルームも終わる。肩透かしを食らわされたもどかしさを堪えながら、陽一の目は将也の方へ向かう。彼もまた、一分一秒すら待ちきれないのか、苛立たしげに貧乏ゆすりを繰り返している。

「――んじゃあ、これで終わり。気をつけて帰れよぉ」

 その一言とともに、気の早い何人かは早速立ち上がった。将也もその一人だ。ところが、藤壺先生はやおら彼に目を向けて、

「あと香坂、ちょっとこれ運ぶの手伝え」

「っはぁぁ!? お、俺っすか?」

「日直だろぉ。職員室までな」

 目を剥いて叫ぶ将也だが、藤壺先生は意に介す様子もない。試験監督が終わってからここへ直行したのだろう、答案の束をぽんぽんと叩いて示すと、当人はそれ以外の手荷物を持ってさっさと教室を出て行ってしまった。

 いっそ哀れなくらいに動揺した顔で見つめてくる将也に対し、陽一は苦笑とともに手を振った。

「行ってこい。待っててやるから」

 そう言ってやると、将也は口惜しそうに顔を歪めたあと、答案用紙を抱えて教室を飛び出していった。彼を見送った陽一は、頬杖をついたままぽつりと、

「しっかし……アイツがあんなにも拘る話ってのは何なんだろうな」

 ほとんど聞こえない程度の小さな声で、一人呟いた。

 腑に落ちない表情で佇む陽一をよそに、クラスメイトたちは次々と教室を去っていく。見渡してみたが、いつの間にか学の姿も見当たらなくなっていた。机に鞄が置いてあるあたり、トイレにでも行ったのかもしれない。もしくは、花園の様子でも見に行ったか。

 と、椅子に掛けたままの陽一の元に近づいてくる足音があった。目をやり、ほんのわずかに困惑するように彼の額に皺が寄る。

「春日くんっ、お疲れ様。テストどうだった?」

 軽い足取りと、弾む声で鬼頭が話しかけてきた。いつもよりテンションが高く見えるのは、テスト明けの解放感のせいだろうか。

「まぁ、ぼちぼち」

 肩を揺らして曖昧に答える陽一の顔を覗き込みながら、鬼頭は何かを見透かすような細い目で、

「聞いたよ~、春日くん、結構成績いいんだってね」

「帰宅部だったしな。けど今回はそうもいかねぇよ、あんま身が入らなかったから」

 鬼頭の言葉に、自嘲の笑みで手を振る陽一だったが、彼女は敢えてその言葉を無視するようにそっぽを向き、わざとらしく顎に指を当てた。やはりどこか芝居がかった調子で眉根を寄せ、言う。

「いやー、実は幾つか教えてもらいたいとこあったんだけどねー。でもやっぱり、去年の恩返しもまだ済んでないしさ。なんかちょっと気が引けちゃって」

「まだ言ってんのかよそれ」

 呆れの混じる苦笑でぼやきながら、陽一はさりげなく周りを見渡した。既にクラスメイトのほとんどは出払っているが、一部は教室の隅から二人の方を注目していた。

 散発的に感じる視線、そこに込められた興味の質に、そこはかとない居心地の悪さを感じて、陽一は小さく鼻を鳴らす。そして、鬼頭に視線を戻しがてら、

「遠慮すんなって。教えられることなら教えるよ。前にも言ったけど、俺はそんな一方的にお礼されるようなことした覚えはないし。むしろお菓子とかのお礼もしたかったしさ」

 そう告げる。

 彼としては何の含みもない、ただ思ったことを口にしただけの言葉だったが、何故か鬼頭は不意を突かれたように一瞬固まった。訝る陽一の表情に気づいたか、彼女は慌てて首を振り、表情を改めて陽一に向き直る。

 さっきまでより、少しばかり険しい表情だ。緊張しているようでもある。ますます怪訝がる陽一だったが、鬼頭はそんな彼の目をキッと睨みつけ、重々しく口を開いた。

「じゃ、じゃあ、遠慮しなくていいっていうなら、一つ聞きたいんだけど……あぁいや、でも……」

「?」

 その言葉の途中で、何かに気移りしたように声を萎ませる。陽一が疑問符を浮かべる中、鬼頭はすぐに気を取り直した様子で、

「――先にっ、ちょっと誤解があるみたいだから解いておきたいんだけど」

「誤解? 何が?」

 おうむ返しに陽一が問いを返す。台詞の内容もそうだが、妙に意気込んだように見える、下手をすれば喧嘩腰とさえ言えるような鬼頭の雰囲気が気掛かりだった。

 そんな陽一の視界の隅に、ふと人影が過ったような気がした。それをはっきりと目で追うより早く、鬼頭が腰を曲げて陽一に顔を寄せてきた。驚き、つい身を引いてしまう。

 気圧される彼に気づいているのか、いないのか。鬼頭はなお変わらぬ勢いで語りかけた。

「あのね、私のしたことに感謝してくれるのが嫌なわけじゃないんだけどね。そのお礼に勉強を見てもらうのはちょっと違うっていうか……別のお礼が欲しいってわけでもなくてね? その、要はお礼としてではなくて……!」

 上手く言葉にできないもどかしさを発散するためか、時折手を無闇に振りながら熱弁する鬼頭ではあったが、肝心の内容は今一つ要領を得ない。陽一は眉根を寄せたまま、言葉が切れたタイミングを見計らって一言、

「あー、つまり?」

 決して強くはない一声だったが、鬼頭を閉口させるには十分だった。真横に引き結んだ唇の奥で、言葉を選ぶようにもごもごと何かを呟いているのが、微かに漏れ聞こえた。

 それ以上は催促せず、陽一は待つ。そんな折、鬼頭の背後に将也の姿が見えた。ようやく頼まれていた仕事が終わったらしい。

 彼はいたく驚いた顔で陽一の方を見ていた。陽一が自分に気づいたことを察すると、声は出さないまま、突如として妙なジェスチャーを始めた。意味は全く読み取れないものの、やはり彼が焦った様子であることは分かる。

(何してんだアイツ……つーか何だアレ?)

 困惑の眼差しをあらぬ方向へと向ける陽一の目の前で、鬼頭の方はようやく思索を終えたらしい。俯きがちだった彼女が顔を上げたのを察して、陽一も注意をそちらに戻した。

 鬼頭は、何か覚悟を固めたような、武人を思わせる険しい表情で陽一を睨んでいた。緊張は薄れるどころか度合いを増し、気のせいか顔全体が紅潮しているようにさえ見える。結んだ唇が戦慄わななくのを見咎めて、陽一はさらなる混乱を味わう羽目になった。

「――春日くん」

「お、おう……」

 再び鬼頭が口を開く。零れた声はある種異様な威圧感を孕んで響き、陽一の両肩に圧し掛かる。どもりながら相槌を打った彼の目に、鬼頭の双眸がぴたりと重なった。

 彼女は大きく息を吸い、一度瞬きをする。そして、斧のような鋭さと重さの共存した眼光を陽一に容赦なく浴びせながら、


「だから、その……付き合っ、てくれない……?」

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