一九八八年のif

北川エイジ

1-2

 一九八八年八月の井の頭公園。武道館で行われたイベントの翌日に俺は旧友と待ち合わせをしていた。

 樹木に囲まれた小道に人通りはほとんどなく、離れた茂みの上に野良らしき灰色の猫が身を横たえてこちらを見つめている。やがて待ち受けていた男が姿を見せ、「おー」と俺に声をかけてくる。


 職場から抜け出てきたのであろう彼、竜也はワイシャツにネクタイ姿でジャケットを小脇に抱えている。


 それはぎこちない再会だった。


「待った?」


「いや」


「あれから一年以上経ってるよな。まず最初に謝っとく。わるかった」


「終わったことだ。気にしてないよ」


 俺と竜也とその恋人だった秀美の三人は高校時代の遊び仲間である。俺はふたりのおかげで楽しく濃い高校生活を送らせて貰った。ふたりは共に東京の大学に進学し、竜也は卒業後証券会社に就職、秀美はOLとなり同棲を始め、婚約寸前までいっていた。


 そんななかで突然の別れが訪れる。夜中にふたりは口喧嘩をし、その口論が発端となって秀美は車で外出したのだ。不幸なことに高速道路に向かう下道で彼女は大型トラックと軽自動車の衝突事故に巻き込まれ、帰らぬ人となった。玉突き事故の結果、秀美の車は電信柱に側面から激突し、関係者三人のうち彼女だけが亡くなった。癒えることのない痛ましい現実だ。


 俺にとって悲しい出来事がつづいてやってくる。葬式が済んでしばらく経ったときのことだ。竜也から福岡の実家にいる俺に電話がかかってきた。彼の暗い声は俺の胸を締めつけたのだが、話の内容は思いもよらないものだった。


「言いたかないんだが……秀美は福岡に帰りたがってた。お前はそれを知ってたか?」


「初めて聞いた」


 彼女からの電話はしょっちゅうかかってきていてその際の内容はわりと覚えている。しかしそんなことは聞いていない。俺としては丁寧な受け答えをしていたから断言していい。当時遊び人だった俺には秀美の電話にゆっくり付き合うだけの余裕があったのだ。


「お前ら頻繁に電話してただろ」


 会話の中身は概ね職場の愚痴である。愚痴をこぼす相手を秀美は欲していたのだ。


「ああ。でもそんな話はなかったよ」


 低く怒気をはらんだ声が耳に響いた。


「お前が焚きつけたんじゃないのか?」


 想像だにしてなかった言葉に俺は面食らって長いこと声が出なかった。ふつふつと怒りが沸いてきてようやく声が出た。


「本気で言ってるのならこの場で絶交だ。頭を冷やせ」


 返事はなく唐突に通話は切れた。いまのやつに何を言っても無駄で、何か言えばかえって面妖な事態になりかねない。こちらから連絡を入れるのはよそうと俺は決め、その日は酒を呑んですぐ寝た。


 それから交流の途絶えた一年が過ぎ、最近になって誤解が解けたようで竜也は先日電話をかけてきたのだ。


「すまなかった」


 彼は開口一番詫びた。秀美の親友だった女から真相を聞かされたのだそうだ。秀美の姉や両親が竜也をよく思っておらず結婚に難色を示していたと。秀美はそれで悩んでいたのだ。


 和解のなかで俺が近く武道館に行くことを伝えると竜也は会おうと言ってきた。場所と時間は合わせるからと。それで今日この日を迎えたのだった。


 樹木を通り抜ける風が俺たちに吹いていた。竜也の短く刈り上げた髪が小刻みに揺れて精悍さを増した彼の容姿を引き立てる。


「いま考えるとなんでお前を疑ったのかわからん」


「誰でも思い込みはあるさ」


 互いの近況をひと通り語り合ったあと竜也はワイシャツの袖をまくり上げながらやや目を伏せて言った。


「つくづく思うのはあいつが死ななかった世界がどうなっていたか、だよ。もしあいつが生きてたらまったく違う生活をしてるはずだからな」


 俺ははっとなって竜也の横顔を凝視する。秀美が生きている世界。そんなことは考えたこともなかった。考える余裕がなかった。その“もし”は辛すぎる仮定だった。それに──

 俺は竜也の横顔を見て、その声を聴いて、違和感を覚えていた。言葉とは裏腹に竜也は秀美の死を、彼女の不在を乗り越えていた。未来に視点を定め生きていく人間が当然やるべきこととして──-過去として決済していた。

 むろん非難はできない。彼には彼の人生があり、ひとりの社会人として背負うものを考えればそうあるべき姿である。しかし理屈で割り切れるものではない。


 俺と竜也との間に大きな穴があいていた。目に見えぬ空間に目に見えぬ穴がぽっかりと漂うように浮かんでいる。それは俺と竜也の距離だった。生活する場所の違いもそこにはあるのだろう。彼は東京で証券会社勤務。俺は実家のたばこ屋兼酒屋を引き継ぐべく仕事の手伝いを始めている。

 俺たちは違う時間軸に生き、違う水域で生活を営んでいる。なにより彼はもう次のステージへ足を踏み出している。一方俺はとどまったままだ。






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