第三節 警告をあなたに

 その日は、ひどく穏やかな日だった。その日の学園生活も滞りなく送ったヴァダースは、友人と別れ帰路についていた。その時、視界である光景を捉えることになる。ちょうど、屋敷からそう離れていない場所の森の前に、一人の男性が立っているのだ。その森の奥には魔物もいるから危険だと、マエストンから伝えられていたヴァダース。お節介かもしれないと考えたが、男性の身なりが質素であったために思わず声をかけた。


「あ、あの!」


 ヴァダースに声をかけられた男性が、反応して振り返る。緋色の髪に深く暗い赤い瞳を持つその人物に、最初はびくりと体を震わせたヴァダースだが、意を決して言葉を続けた。


「その森に装備なしのまま入るのは、危険ですよ。森の奥には怖い魔物も潜んでいますので……」

「ほう……。そうだったのか、忠告どうもありがとう」


 彼の言葉を聞き入れたのか、男性はにこりと笑ってから返事を返した。そのままゆっくりと男性はヴァダースに近付く。ヴァダースは男性を見上げ、いえいえと微笑み返す。


「この付近に住む方、ではないですよね?」

「ああ、私は旅をしている医者だ。医師のいない村や町に赴いては、診療を行って稼ぎを得ているのさ」

「お医者様なんですね!何も武器とかをお持ちでなかったので、どんな方だろうと思ってしまいました。申し訳ありませんでした」

「ははは、随分としっかりとした教養を持っているじゃないか。さすが、名家と呼ばれるダクター家のご子息だ」


 見知らぬ男性が自分のことを知っていることに、ヴァダースは驚愕する。どうして知っているのかと問いかければ、天才ヴァイオリニスト少年として有名じゃないかと返される。ヴァダース自身は、まさか自分の名前が知れ渡っているだなんて思いもしていなかった。


「風の噂で聞いたよ。今度、ご家族でチャリティーコンサートを開かれるそうじゃないか。私も一度、キミの演奏を生で聞いてみたいと思っていたのだよ」

「本当ですか?」

「もちろん。私も音楽は好きでね、よく演奏を聴いたりするのだよ。そんな中、音楽好きでは知らない人はいない、あのダクター家が家族揃ってコンサートを開くだなんて、滅多にない機会だからね。これは聞かないわけにはいかないと、近くの宿を予約したのさ」

「僕たちのコンサートのために……わざわざ、ありがとうございます!」


 丁寧に一礼するヴァダースに、そういえばと男性はある話を聞かせた。その話とは噂なのだが、内容が恐ろしいものだった。


 その内容は、呪いのオオカミと言われている魔物についてだった。その魔物に傷を負わされたものは、その人生の一生を呪われてしまうのだとか。黒い体毛に、赤と紫が入り混じった瞳を持つその魔物と遭遇したら、すかさず逃げなさい、と。


「もしかして、あの森に……?」

「いいや、その可能性は低いとは思う。私がこの話を聞いたのは、こことは別大陸でのことだったからね。ただ、確実に安全とは言えない」


 だから男性は、まさかいないだろうかと心配して、この森に入ろうかとしていたのだと白状した。しかし頭に手をやり、装備なしで飛び込むのは無謀だったと苦笑した。そして不安そうに男性を見上げていたヴァダースを安心させるよう、こう言葉を続けた。


「大丈夫だ。そんなもしもなんて、きっとありっこないだろうよ」

「そう、ですよね……」

「ああ。それに今はミズガルーズ国家防衛軍の軍人たちが、この街の守護の任務にあたってくれているのだろう?彼らに任せておけば、問題はない」

「はい……元気づけてくださり、ありがとうございます」

「なに、不安にさせてしまった謝罪のつもりさ。それでは、私はこれで。思ったより長話をしてしまったからな、キミももう帰らねばならんのだろう?」

「そうでした!それでは失礼します!コンサート、楽しみにしていてくださいね」


 それだけ告げて、ヴァダースは急ぎ屋敷へと走る。帰りが遅いことでマエストンに心配されてしまったが、素直に謝罪して学園帰りのカリキュラムに取り組むのであった。


 そして男からの忠告を忘れたころの、ある日。その日は何か、言いようのない胸騒ぎに襲われていた。いつもと変わらい日常のはずなのに、何かが起きてしまうかもしれない。そんな漠然とした予感が、ヴァダースの胸にともっては離れなかった。虫の知らせ、とでも言えばいいのだろうか。

 そんな小さな変化に気付いたのは、母親であるドルチェだった。今日はコンサートのために、彼女とセッションの練習に取り組んでいたものの、彼の横顔にどこか憂いを感じたのであろう。レッスンを途中で中断し、彼女はアニマートもつれて家族三人で気晴らしに出かけようと提案した。アニマートも、朝からどこか元気のなかったヴァダースを気にかけていたのだろう。彼女の提案に乗った。

 急な予定であったため遠出はできなかったが、近くにある公園に散歩に行くことになった。マエストンが用意した馬車に乗って目的地に向かう途中、ヴァダースは両親に感謝しつつも、迷惑をかけてしまったと謝罪をする。そんな彼に対して、両親は申し訳なさそうに眉を下げ気にしないでと告げた。


「いいのですよヴァダース。わたくしたちは、いつも貴方に寂しい思いをさせているのです。ですから今は、楽しく過ごしましょう?貴方の笑顔が、わたくしたちにとっての力なのですから」

「お母様……」

「そうだな。仕事仕事の私たちだが、いつもお前のことを考え、愛している。そんな大切な一人息子を悲しませるのは、アニマート・ダクターの名に恥じる。思う存分、甘えてよいのだぞ」

「お父様……!」


 涙ぐみそうになるのをぐっとこらえ、ヴァダースは両親に笑顔を見せた。それから彼らは、これから向かう公園についての話題に移る。その公園は貴族ご用達の、丁寧に整備された公園だということ。美しい花たちも咲き乱れ、風に乗って届く花々の香りで、癒されるということ。そして公園の敷地内にあるイートインもできるお店では、手作りジェラートが販売されているとのこと。


「バラのジェラートなどもあるそうですよ。ふふ、一度食べてみたいなと思っていたのです」

「そうか、謀ったなドルチェ。きみはそのジェラートが本命なのだろう?」

「とんでもございませんわあなた。わたくしはヴァダースの笑顔が見たくて、お出かけを提案したのです。そういうあなただって、ジェラートが気になっているのでしょう?喉が鳴った音、わたくしが気付いてないとでもお思いですか?」

「おっと、やはりバレてしまっていたか」

「お父様、お母様、僕もジェラートが食べてみたいのでぜひ行きましょう!」

「ええ。何でも好きなものを頼んでね、ヴァダース」


 楽しく会話が弾む中、馬車は無事に公園に到着する。三人を下したマエストンは馬車に残ると告げてきたので、ヴァダースがそんな彼にお土産としてジェラートを買ってくると約束した。マエストンは大丈夫だとやんわり断ってきたが、味を勉強して屋敷でも作ってみてほしいとヴァダースから言われてしまえば、受け取らざるを得ず。楽しみにしていると笑いかけてくれた彼と離れ、一家は公園へと足を踏み入れた。


 その頃にはもう、ヴァダースは朝のうちに感じていた胸騒ぎのことを、すっかり忘れているのであった。


 公園内に入ると噂通り、風に乗ってきているであろう花たちの甘い香りが鼻腔を擽る。しかしそれは決してくどくはなく、ほんのりと上品に香る程度。遠くを見ればバラ園があり、手前には美しい噴水が彼らを歓迎する。

 まずは周囲を散策していくヴァダースたち。そしてふと、ドルチェがある花の前で歩を止めた。白い花弁が美しい花だ。ヴァダースは初めて見るその花に、思わず視線がくぎ付けになる。ドルチェはそんなヴァダースに近付き、ある話をする。


「懐かしいですわ。ヴァダース、この花の名はカランコエといいます。白い花弁が美しいでしょう?」

「カランコエ、ですか?初めて聞きました!可愛らしく綺麗な花ですね……!」

「ふふ、そうでしょう?この花はね、旦那様がわたくしにプロポーズしたときに送ってくださった花なんですよ」

「そうだったんですか!?」


 目をキラキラと輝かせるヴァダースに、ドルチェも楽しそうに微笑む。その花を贈ってくれたアニマートの粋な計らいに彼女は惚れ込み、結婚を約束したのだという。なぜ粋な計らいかというと、その花の花言葉に理由があるのだと。


「カランコエの花言葉は、幸福を告げる、たくさんの小さな思い出、あなたを守る、おおらかな心。そんな沢山の素敵な花言葉を持つ花を贈ってくださるこの殿方は、なんと心の美しい方なのかと感銘を受けたのですよ」

「そうだったのですね……素敵です、お父様」

「もうやめないか、恥ずかしいぞ」

「何を恥ずかしがるのです?あなたがとても素敵なのは、この子にとっても誇りだと思いますよ?」


 彼女のその言葉に、どこかむず痒いような表情をしたアニマートが苦笑する。そんな両親を見たヴァダースは、改めてこの二人が自分の両親であることをうれしく感じる。この二人に恥じない生き方をしようと、心の中で決意する。


「それよりも、早くしないとジェラートがなくなってしまうかもしれないぞ?」


 まるで逃げるように話題を切り替えたアニマートの言葉に、笑顔で返事を返すドルチェとヴァダース。そして、目的のジェラート店へと足を運ぶのであった。

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