1-⑧


 目覚めは最悪だった。菜々子ななこの――しかも仲違いしたときの光景を、夢で掘り返してしまったからだ。

 たった一瞬とはいえ記憶を開放してしまったせいで、菜々子の夢を見たのだろう。押し入れのなかに雑にモノを詰めても、次に押し入れを開けたときになだれ出てしまうように。

 私は目をこすりながら、カーテンの隙間から外を見る。まだ暗い。スズメの鳴き声も車の通る音も、なにも聞こえなかった。手探りで目覚まし時計を確認すると、朝の五時過ぎだった。十二月の夜明けはまだ遠い。

 のろのろと布団から這い出て、上体を起こす。明け方の冷気にさらされ、一瞬にして眠気が吹き飛んだ。

 あわてて横になり、布団を頭までかぶる。視界を闇に閉じこめてみたけれど、眠気は戻ってこなかった。呼吸をゆっくりにしても、羊を数えても、頭は冴えてゆく一方だ。

 ――もし、あのとき菜々子から逃げずに、恋心を理解しようとしていたら?

 九匹目の羊と十匹目の羊の合間から、思考があふれてきた。なにも考えずに眠ってしまいたいのに、脳は答えを導き出そうとする。

 私が菜々子の変化にちゃんと向き合っていたら、ささやかな衝突で済んだのかもしれない。高校に入ってからも、親密な関係でいられたのかもしれない。私という理解者がいれば、菜々子は失恋しても海になんて行かなかったのかもしれない。

 だとしたら――菜々子は死なずに済んだのかもしれない。

「……そんなの、わからない」

 無意味な妄想を断ち切るために、私はささやいた。菜々子との会話でよく口にしていた台詞だと、少し遅れて気づく。

「私は菜々子じゃないし、ましてや神さまでもないんだから」

 何度となく繰り返してきた言葉。それは、今日まで菜々子に抱き続けてきた想いでもあった。

 ――ほんとうに?

 間髪入れずに疑問が湧き上がってくる。

 ――理解したいと思っているくせに。恋を。菜々子を。だからこそ、あの日、あの瞬間の夢を見たのだ。

 制御不能な本音が頭のなかで炸裂して、私は飛び起きた。寒さも忘れて、頭を激しく左右に振る。

「そんなことない!」

 声を荒げた直後、右の頬に衝撃が弾けた。

 水っぽい破裂音が、狭い室内に響く。

「え……?」

 あっけにとられながらも、右手を見下ろした。

 自分自身を叩いた痛みが、てのひらにじんわりとわだかまっていた。



 結局、二度寝はできなかった。

 私はいつもより一時間以上早く家を出て、学校の近くの海――芝崎海岸へと足を運んだ。学校の図書室で自習しようと思ったら、まだ校門が開いていなかったのだ。

 時刻は午前七時二〇分、天気は快晴。風はほとんどない。制服の上にダッフルコートにマフラーという服装でも、寒いとは思わなかった。

 磯へ降りる階段をのぞきこむと、岩礁まで歩いて渡れるほど潮が引いていた。波は穏やかで、海水の透明度も高い。

 肺いっぱいに空気を吸いこんでみる。潮のにおいはごく淡かった。海中も冬枯れしているのか、磯臭さの発生源となる漂流物が少ないようだ。

 深呼吸を終えて、県道をはさんで二〇〇メートルほど先に屋上だけ見える校舎に向かって、堤防沿いを歩き出す。

 右手側には消波ブロックが重ねられた護岸、左手側にはリゾートマンション。季節はずれの別荘地は、まったく人気ひとけがない。

 歩調をゆるめ、沖を眺める。低い山々の向こう側から姿を現したばかりの太陽に照らされ、灰色の水面が巨大な銀皿のように輝いていた。

 静かで、穏やかで、明るくて――死のイメージからはほど遠い海だった。いくら嵐で水面が荒れ狂っていたとしても、自分自身が死にたいという衝動に駆られたとしても、この海を前にして死にたいという気持ちになれるのだろうか。

『菜々子は失恋が原因で自殺したんじゃないかと思うの』

 伶子れいこさんの一言が耳の奥によみがえった。端的な言葉は音もなく私の心臓に深々と突き刺さり、一晩経っても抜ける気配がなかった。

 菜々子の夢を見たせいで、ますます伶子さんの台詞が頭から離れなくなってしまったのかもしれない。あるいは、伶子さんの台詞に動揺して菜々子の夢を見た可能性もある。

「自殺、ね」

 昨日からずっと頭のなかを回り続けている単語を、ゆるい海風に乗せて流してみた。声に出したところで、なにひとつ気分は晴れなかった。

 伶子さんはなにを感じながら、菜々子からの留守電メッセージを聴いたのだろうか。

 なにがきっかけで、菜々子の自殺を疑うようになったのだろうか。

 なにを思って、私に推測を打ち明けたのだろうか――いや、これに関してはなんとなくわかる。菜々子からのメッセージを聴いた人間は、警察のひとを除いたら私しかいないからだ。私が話し相手として適切なのかは、いろんな意味で疑問が残るけれど。

 伶子さんの言葉を持て余しながら、だれもいない道を歩き続ける。

 失恋して自ら命を絶つ。それ自体が、私には信じがたいことだった。滝壺に残る伝説とか、古い恋愛小説とか、フィクションではよく耳にするから、昔から広く好まれているエピソードではあるのだろうけれど。でも、実際に現実でも起こり得る話なのか、それともフィクションだからこそ成立する話なのか、さっぱりわからなかった。


県道の手前に差しかかり、校門が見えてきたころ、私は足を止めた。もう一度芝崎の海を見やって、気まぐれで堤防に上る。

 道路より少し高い位置から望む海は、いっそう白くまばゆく感じた。きれいだな、と単純な感想がわいてくる。でも、私はもっと光に満ちた海を知っていた。

 中三のとき、この場所から菜々子と夕日を見た。空と海と太陽しか存在しない、黄金色の光に支配された世界に菜々子は魅了され、成績的には挑戦校レベルの高校を受験したのだ。そんな背景を慮ると、菜々子がこの海を死に場所に選んでもおかしくはないのかもしれない。ならば、菜々子の死因はやっぱり自殺で――。

「わからない」

 あえて声を発して、思考を振り払う。考えたところで意味なんてない。どうして菜々子がここにいたのかなんて、もう、だれにもわからないのだから。

 決して手にすることのできない真実を求め続ける。私には、そんな不毛な未来を選ぶ勇気はない。どうせ、喧嘩をしてもしなくても、菜々子とは決別する運命だったのだろう。菜々子は恋をして、私とはまったく異質な生きものになってしまった。

 一方で、私は恋を知らない。どんなものなのかさえわからない。そもそも、恋なんてものが実在するのかさえ疑わしかった。みんな〝それ〟があると思いこんでいるだけで、実は勘違いなのかもしれない。

 私にとっての恋は、逃げ水ですらなかった。その幻影でさえ、見ることができないのだから。

 べつに、菜々子のことを理解しようとしなかったわけではない。ただ、理解できなかっただけで――。

 ――嘘だ。

 沖のほうから突風がぶつかってきた。私の細くてやわらかな髪がかき乱され、顔にへばりつく。髪をかき分けながら、きらめく海面を凝視した。

 ――知りたい。

 胸の奥のさらに深淵で、なにかがうごめく。不快ではない。けれど、じっとしていられないような、そわそわとした疼きがせり上がってくる。

 くちびるを噛んで、両手を握りしめた。正体不明のじれったさをなんとか飲み下そうとする。それでも感情のさざめきはやむことがなく、私はあきらめて拳を開いた。

 途端、前触れもなくひらめく。

 ――だったら、実際に恋をしてみればいいだけのこと。


 私は海を背にして堤防に腰かけ、リュックからスマホを引っぱり出す。ケースの縁からぶら下げたぬいぐるみポーチが、海風を受けて遺骸のように揺れた。

 ――菜々子を理解するために、恋をしてみる。

 我ながら名案だけれど、実行するには〝恋愛ごっこ〟に付き合ってくれる相手が必須だ。私に好意があって、良識があって、なおかつ個人的なわがままにも付き合ってくれそうな人間といえば――いる。顔を合わせるたびに「好き」と言ってきて、なおかつ気のいい男子が。

 私はアドレス帳を開いて、青井あおいの連絡先を探した。

 ひさしぶりに――具体的には二年ぶりに使う宛先だった。一年生のころ、同じクラスだったときに交換して、それっきりになっていた。

 何度か青井から連絡はきたけれど、どれもこれも他愛のない雑談だった。返信が面倒で「それ、直接話して」と伝えて以来、メッセージは届かなくなった。

「私の頼み、受けてくれるかな……」

 青井はいまだに私のことが好きだと言い張っている。でも、どこまで本気なのだろうか。相手が私に対して抱いている感情が、恋なのかさえわからない。

 私は青井からの好意をずっと受け流してきた。それなのに、今さら相手の恋心につけこもうだなんて。決してほめられたものではないだろう。さすがの青井でも「虫がよすぎる」と怒るかもしれない。

 うっすらとしたばつの悪さを覚えながら、青井宛てのメッセージを作成してゆく。

『今から一色海岸の芝崎側の磯までこれる? 駐車場の下あたり』

 短くて無愛想な文面を、躊躇しながらも送信した。

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