決意

 職員室についてノックを三つ。

「失礼します」とお決まりの文句を言ってドアを開け、自分を呼んだ竹田の姿があるかを探す。竹田は入ってきた生徒が七海だとわかると、鷹揚に手を上げて自分のデスクの方へと呼んだ。


「おう、放課後にわざわざ悪いな」

「何のご用でしょうか?」


 正確な年は知らないが、竹田はもう生徒の対処に苦慮することもほとんどなくなっているくらいには経験を積んだ男性教師で、七海たちのクラス担任だった。浅黒い肌に筆で描いたような眉。がっしりとした体格で竹を割ったような性格をしているから体育教師かなにかと間違えそうだが、受け持っているのは社会科である。

 その顔や態度相応、叱る時はきっちり叱るのだが、後を引くことはなく、生徒によって態度を変えるようなこともないから生徒の間での評判は悪くない。


「今日はな、天咲にこれを渡したかったんだ」


 彼は自分の足元に置いていた紙袋をごそごそと漁ると書類の束を取り出して七海に差し出した。


「これは……?」

「今の天咲に役立つんじゃないかと思ってな、集めたんだよ」


 受け取り、ペラペラと束を軽くめくってみる。

 高校を卒業していない人が専門学校や大学へ入学するための高等学校卒業程度認定試験の手続きと、それに必要となる書類について。それから、この近辺にある大学の入学パンフレットがいくつか。小冊子のように分厚いのは何だと思ったら『特定犯罪者予備群からの社会復帰について』なんて文言が書かれている。

 七海は一通り確認してから改めて顔を上げて竹田を見やった。なんでこんなものを? というのが表情に出ていたのかもしれない。竹田が言葉を続けた。


「ついこの間、天咲のお父さまから連絡をもらったんだ」

「父からですか?」

「ああ。事情のあるお姉さんがいるとは聞いていたが、特定犯罪指数がボーダーから回復したんだろう?」


 それを聞いて七海は思い切り眉をひそめそうになったのを辛うじて堪えた。

 七海がこの学校に入る際に家族構成は聞かれたし、一年の時からの担任なのだから事情だってある程度知っているのはわかっていたが、今ここでその話題が出てくるとは思わなかった。

 父がどういう意図を持って連絡したのは七海には大体想像がついた。おおかた自分の進路に響くようなことがないかを心配して、配慮するように言ったに違いない。

 しかし、それに対して竹田は父の意図とは少し違った考えを持って行動したらしい。


「天咲は知らないのかもしれないが、特定犯罪指数がボーダーを超えた後、時間の経過と共に指数が下がった例は実は結構あってな。そう特別珍しいかと言われると案外そうでもないんだ」

「何がおっしゃりたいんですか?」


 まどろっこしい表現に七海は真正面から聞いた。


「そう言葉を尖らせるな。先生はな、もし良ければお姉さんの社会復帰の手伝いを出来ないかと思ったんだよ」


 その言葉にはなんの裏もない。この担任教師はお人好しなのだ。

 こちらの都合などこれっぽっちも気にせず、自分のやっていることが正しいと疑って信じていない。

 面倒なタイプだと七海は心の中で嘆息した。

 その目にあるのは薄っぺらい偽善なんかじゃない。本当に心の底から力になろうと考えているのだろう。だからこそ性質が悪い。


「特定犯罪指数がボーダーを超えた後、下がった例はある。が、だからと言ってそこから簡単に社会復帰が出来るというわけじゃない。実際、ボーダーから下がっても指数に関係なく施設で過ごすことを選択している人も多い。特定犯罪指数がボーダーを超えた時点で家族や社会との関わりを断たれているし、そういった因子……とでも言えば良いのか? そういったものを持っていると考えられるからだろうな。残念なことだが、またいつボーダーを超えるかもわからないという風に捉えられる。そういった相手に社会は結構冷淡なんだ。もちろん一人で社会復帰を目指すのは不可能と言って良い。だが、そういった人たちをバックアップしてくれている支援団体もきちんとある。もちろん単に高校を不登校だった生徒が高等学校卒業程度認定試験をクリアして進学するというのとはちょっとわけが違う。決して簡単な道じゃない。しかし、お姉さんはまだ若いし、人生を決めるには早すぎる。チャレンジしてみる価値はあると思うんだ」


 熱っぽく語る担任だったが、七海はとてもそれに同調する気にはなれなかった。

 逆に竹田は七海のそんな淡白な反応は予想していなかったらしく、「ふむ」と考えるような仕草をしてから、少し違う切り口で話を再開した。


「まぁ、進学うんぬんの細かいことは置いといてにしてもだ。天咲もお姉さんがこのままというのは良くないと思わないか? 今はほとんどの時間を家で過ごしているようだが、これからずっとそうやっていけるわけじゃない。天咲にも天咲の生活があるのは当然だし、それと同じようにお姉さんにはお姉さんの人生がある。せっかくボーダーから復帰出来たんだ。普通の……という言葉はあまり使いたくはないが、少なくとも一生隔離されたままのような人生から抜け出すチャンスとも言える。……こういったこと、お父さまなんかとは話さないのか?」


 あまりにも七海がこれといった好い返事を見せないからいよいよ不思議に思ったらしい。最後の問いかけには少しの驚きや戸惑いの色が交じっていた。


「父とは特にそういったことは話しません」


 そう答えると、まぁ、難しい年頃だもんな、とでも言いたげに頷く。


「元々父は私たちに関心が薄いんです。姉のこととなるとなおさらで」


 実際、出張から帰ってきてもほとんど干渉してこない。

 朝は早く夜は大抵遅い。家で夕食を取る時は七海のスマホに連絡があって、七海も一応は夕食を用意したが、一緒に食べたことは一度もなかった。休日は家にいると言ってもそれなりに広い一戸建てだ。七海も奏も部屋にこもっていることが多く、会話らしい会話をすることもほとんどない。「必要なことがあれば言うように」とは言われていたが、どこまで本気なのかもわからなかった。

 それに、少しは会社の人事も目処が立ったのか、今月の年末年始は上海へと短期出張に行くようなことを言っていた。これからはさらに関わる回数は減っていくだろう。


「でも、お父さまもきっと何か考えがあるはずだ」


 しかし、それでもなお竹田はそんなことを言ってくる。

 世の中の人間は基本的に善である。彼はそうとでも信じているんじゃないだろうかと七海は本気で思った。

 人間がどれだけ保身にはしる生き物で、自分のためなら他人なんて簡単に切り捨てることを七海の少なくとも二倍以上の人生を生きているはずなのにあまり実感していないらしい。周囲の人間関係に恵まれたのだろう、と七海は心の中で息を吐いた。


「どのくらい力になってやれるかわからないが、一度お父さまやお姉さんも交えて一緒に話をしてみないか?」


 とんでもないお節介の発言にいよいよ七海は頭が痛くなってきた。

 このままでいると本当にそんな三者面談ともなんとも言えない奇妙な場を設けられてしまいそうだ。ましてや父が中旬から上海に行くとでも言えば、「それなら急いだ方が良い」と今週末にでも面談の約束をさせられそうな勢いである。そんなのはどうあっても御免こうむりたい。


「わかりました。姉や父と少し話してみます」

「おう。大したことはしてやれないかもしれないが、困ったことがあれば相談には乗ってやれると思うからな。あまり一人で抱え込むんじゃないぞ」

「はい。ありがとうございます」


 この際一応理解した風を装って話を切り上げると、七海は頭を下げて職員室を後にした。

 職員室を出るとすぐ、この区域の掃除当番がほうきとちり取りでゴミを集めているところだった。傍らには四角口の大きな青いゴミ箱が置かれている。

 七海はたった今もらった書類一式をそのまま乱暴にゴミ箱に放り込んだ。突然のことに当番の生徒がぎょっとして七海を見たが、七海は「ゴミ。捨てといて」とだけ言って廊下を帰っていた。

 自分のクラスに戻ると、中にはまだ幾人かの生徒が残っていた。

 その中で比較的親しくしている友人が七海の顔を見やって、ナイスタイミング、とでもいうような表情を浮かべた。


「ナツミ、この後うちらカラオケ行くんだけどあんたもどう? アツシが知り合いのR校の男子誘ったみたいでさ、レベル高いから期待しとけって言うのよ」

「アツシの知り合いでレベル高いって、それ信頼出来るの?」

「さっき画像見せてもらったけど何人かはガチのイケメン。他もそれなりのレベルだったね」

「ふーん……ま、どちらにしろ私はパス。やることあんだよね」

「せっかくのチャンスにもったいない。ってか、最近付き合い悪くなーい?」


 それに合わせて別の友人も言葉を合わせてくる。


「ナツミさぁ、あんたがその気になりゃ彼氏の一人二人すぐに作れるだろうから余裕あんのはわかるけど、今月末に何があるかわかってんでしょ?」

「今月末? ……学期末テスト?」

「このがり勉バカ! クリスマスでしょ、ク・リ・ス・マ・ス! 女子高生ともあろう種族がクリスマスに一人やもめとかあまりにも寂しすぎない!?」

「そっかなぁ? えーと、確か性の六時間とかだっけ?」

「ナツミ、ロコツすぎー」

「でも、結局のところはそんなもんでしょ。それに、あんまりそういうことばっか考えてると動物園のサルと同じになっちゃうよ? たまにはキリストさまに祈りをささげてみるってのもありなんじゃない?」


 そう言って笑う七海に「ダメだ。ナツミはパッと見うちらの仲間っぽいけど、やっぱ頭のネジがどっか外れてる。県内模試一桁の思考回路は謎だわ」と友人はかぶりを振った。

 そのまま教室を後にし、昇降口を出たところでスマホから電話をかける。

 ツーコール、スリーコール。そこでツッと電子音がして相手に繋がった。


「もしもし、お姉ちゃん? ……うん、今学校終わったところ。ちょっとS駅の近くで用事済ませてから帰るから少しだけ遅くなるけど心配しないで。うん、うん、それじゃあ用事終わって駅についたらまた電話する。夕ご飯の買い出し、一緒にしよ?」


 別にお姉ちゃんに社会復帰など必要ないし、私も他の人間なんて必要ない。

 お姉ちゃんには私がいれば良い。

 私にはお姉ちゃんがいれば良い。

 私が一生分の愛を、一生をかけてお姉ちゃんに捧ぐ。

 それが七海の嘘偽りない気持ちだった。

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