熱情

 映画を見た上に、近くのファミレスで夕食をとったせいで二人が帰路に着いたのはいつもよりずいぶんと遅い時間だった。

 夜の色が次第に濃くなりつつある繁華街はいつもよりざわついているように見えた。週末だからということも関係しているのかもしれない。

 道を挟むように建ったビルではネオンが瞬き、そこらかしこから雑談の波が次から次へと押し寄せてくる。道端には早くも酔っぱらって座りこんでしまっている人も見受けられた。

 こういった場に慣れていない奏は七海に手を取られる形で並ぶより僅かに後ろを歩いていた。慣れているのか、七海は上手く人波を避けて駅へと向かう。


「思ったより遅くなっちゃったね」

「でも、それだけの価値がある映画だったと私は思うな」

「お姉ちゃんにそう言ってもらえたなら私も誘った甲斐があるよ」

「七海、原作持ってるんでしょう? 良かったら今度貸してくれない?」

「もちろん。帰ったら探してみるね。映画もかなり良い味出してたけど、小説の方もすっごいおススメだから」


 そんなことを言っている最中だった。


「ねぇ、そこのお二人さん。これからうちら激盛りのオムライスにチャレンジしに行こうと思ってるんだけど、手伝ってくれない?」


 激盛りのオムライス?

 不思議な言葉に奏が頭にハテナマークを浮かべて振り返ると、そこにはこの繁華街の空気にすっかり馴染んだ三人の若い男がいた。

 年齢は二十歳ほどだろうか?

 さっきまで剛毅木訥としていたぶっさんの姿を見続けていたせいか、それぞれファッションにこだわっているらしい彼らの姿はどこか刺々しくとがっているような印象を抱かせた。


「お姉ちゃん、行こ」


 七海が木で鼻をくくったような声を出して、足を止めてしまった奏の手を握って歩き出そうとする。

 が、「ちょっとちょっと! もうちょっとこう、話を聞いてくれても良いじゃん」と一人の男がへらへらとした笑いを浮かべながら七海の前に出た。

 ナンパだ。

 その時になってようやく奏は気がつき、途端に緊張が全身を包んだ。

 自分より少し年上に見えるただの若い男たちが見たこともない凶暴な生き物に見えた。


「どいてもらえませんか? もう帰るところなんです」

「帰るって、まだこんな時間じゃん。ちょっとぐらい付き合ってよ」


 男がもう一人前に出てくる。

 七海が奏を守ろうとするかのように身体を動かすと、最後の一人は後ろへと回りこんだ。


「お姉ちゃんってことは姉妹なんだ? はー、タイプは違うけど姉妹揃って美人って絵になるね」

「そっちの黒髪の子、初対面じゃない気がするんだけど……もしかしてどっかで会ったことない?」

「おっまえ、いくらなんでもそんなふるくせぇ誘い方はねぇだろ?」男が笑う。


「もう行きますんで」


 奏の手を強く握って七海が男を避けて通り過ぎようとした時、


「んだよ、ちょっと可愛いからって調子乗りすぎだろ?」

「っ!」


 不意に男が足を出し、七海はそれに引っかかって思わず膝をついてしまう。


「七海っ!」

「あーごめんねー。転ばせるつもりまでなかったんだけど」

「大丈夫、七海?」

「悪い悪い、こいつ足癖悪くてさ。お詫びにメシかなんかおごらせてよ? あ、カラオケとかどう?」

「もうやめてください!」


 七海に寄り添う形で座った奏が震える声で言った。

 取り囲んでくるように動いた三人に思わず身体が委縮する。

 ドクドクとこめかみ当たりが激しく打っているような感覚に襲われる。

 一呼吸するごとに口の中の水分が取られ、カラカラになっていくのがわかった。

 それでも、七海を守らなきゃいけない。

 その思いで奏は精一杯彼らを睨みつけた。

 しかしそんなものは全く意に介さず、正面にいたニット帽をかぶった男がしゃがんで奏たちに視線を合わせてくる。


「おっかしぃなぁ……俺らそんな悪い人間に見える?」

「お前の顔がこええんだよ」

「んだょ、こんなチャーミングなイケメンそうそういないっしょ?」

「いやいや、自分で言うかっつーの」

「ね? マジでメシ食うだけで良いからさ、付き合ってよ? 男三人でメシ食っても面白くともなんともないってわかるっしょ?」


 すっかり縮こまってしまった奏の緊張を解こうとしたのか、もう一人の男が奏に手を伸ばし、


「――汚い手でお姉ちゃんに触るなっ!」

「っ!?」


 咄嗟のことだった。

 七海が膝をついた体勢から勢いに任せて男に体当たりをした。

 小柄な七海だが、いきなりということもあって男が体勢を崩して倒れ込んだ。


「こいつ――っ!」


 想像していなかった行動に逆上したのか、別の男が思わずといった様子で足を出し、七海が小さく蹴り飛ばされる。

 瞬間、七海のぐぐもった悲鳴が上がった。


「七海っ!!」


 奏の頭に一瞬にして血が昇る。

 気がついた時には持っていたバッグを両手で掴み男に殴りかかっていた。


「んだよっ!」


 固いものではないし、力もない。

 大した威力はなかったが、その行為に男の声にも怒気がはらむ。

 奏は七海を庇うように立つと再びカバンを振るうが、男はそれを払うと、奏の手首を強い力で掴んだ。

 男の力は思った以上に強い。

 奏の細い手首に男の指が食い込む。

 振りほどこうとしても腕力ではとても敵わない。

 腕はピクリとも動かせなくなっていた。


「あんま舐めた真似してるとマジで怒るぞ?」

「――っ!」


 七海だけでも逃げてっ!

 そう奏が叫ぼうとした瞬間、『ピィッ!!』と笛の音がして遠くから二人組の警官が走ってくるのが見えた。

 近くに交番があったのが幸いした。誰かが知らせたのか、もしかしたら交番から直に見えていたのかもしれない。

 男たちは舌打ちをすると、「行くぞ」と奏たちを一瞥してから繁華街の奥へと足早に消えて行った。

 自分の呼吸が荒い。

 男に掴まれていた手首がじんじんとする。

 だが、奏はすぐに我に返ると、振り返り、ようやく地面から上体を起こしかけていた七海を支えた。


「七海、大丈夫?」


 それに七海が小さく笑う。怪我をした様子はない。


「うん、大丈夫。お姉ちゃんこそ何もされてない?」

「私は大丈夫」


 無事で良かった、と奏の口から長く息がもれる。

 地面に座った七海の手を取って頬にあてる。

 心臓がまだバクバクと打っている。

 何か考えようにも頭はすっかりオーバーヒートしてしまったらしく、何も考えられなくなっていた。




 出来事としては、結局ただのナンパが少し荒れかけただけだ。

 警官たちは優しくしてくれたが、特別それ以上何かをするわけではなく、そのまま彼らが呼んでくれたタクシーに乗り込んだ。


「今度からあんまり遅くなる時はタクシー使った方がいいかもね」


 週末で道は混んでいた。

 頻繁に止まる車中で七海が言った。

 奏は七海を見やり、「そうだね」と手を握った。

 その時奏は不思議な感覚に襲われていた。

 もうすっかり頭も冷めても良いはずなのに先ほどの騒ぎで引き起こされた熱は引かず、どこか身体の中に熱源を持っているような気がしてならなかった。さっきの出来事を思うと身の毛もよだつほどにゾワリとするのに、それと同じくらい妙な興奮が顔をのぞかせた。

 そして、それは七海も同じだったらしい。


「ねぇ、お姉ちゃん」


 不意の声。

 奏が少し俯き加減にしていた顔を向けると、一息に唇を奪われた。

 こんなところで、と思ったのは一瞬だけだった。

 目を閉じると、七海がついばむように奏の唇を弄び始める。

 たぶん一緒に暮らしていた時には何回もキスをしていたのだろう。

 そう思ったが、記憶を失った今の奏にとってはこれが初めてのキスだ。

 小さく音を立て、チロリと出してきた七海の舌が奏の唇を舐める。

 キスのやり方なんて知りもしなかったが、それでも七海のキスに応じたかった。

 七海の舌を唇で優しく食む。

 目を閉じている分、感覚が唇周辺に集まっていくように感じられた。

 熱い舌が一つの生き物のように奏の唇をなぞる。

 恐る恐る、奏も口内で縮こまっていた舌を弛緩させていく。そして、まるでネコとネコとが鼻を軽くこつんと合わせて挨拶をするかのように舌先を七海のそれに合わせた。


「んっ……」


 声をもらしたのが自分なのか七海なのかさえわからなかった。

 けれど、その一瞬の触れあいで奏の中にあったたがが外れた。

 気がついた時にはすでに奏の舌は七海の舌を求めていた。

 家までどのくらいの時間がかかったかは覚えていないし、運転手がちらちらと好奇の目で見ていたかもしれない。

 でも、そんなことは全く気にならなかった。

 何度も何度も七海と唇を合わせ、舌を絡めた。

 フルートの時とは違ってキスのやり方は覚えていなかったのか、家に着いた時には口の周りはもちろん、着ていた服の襟元まで自分と七海の唾液でベタベタに汚れていた。

 車が家の前に着いて、ようやく七海が奏から顔を離した。気がつけば彼女の両手は奏の頭に回されていた。

 運転手が努めて――いや、こういった職業の人はこんなことは慣れっこで、別に努めてなんていないのかもしれない――冷静な口調で五桁に近い料金を告げる。

 奏は自身のポケットから財布を出すと、一万円札を抜き出して運転手に手渡した。


「お釣りは結構です」


 奏は手を七海の腰にやった。

 今までに培ってきた僅かな知識でのエスコートはそれしか知らなかった。けれど、七海は奏のそれに応えるように動いてくれた。

 車を降りる。ゆったりと走り去っていく車を目で少し追ってから、改めて七海の細い腰に手を回してキスをした。

 間近に七海の顔を見る。

 おかしな話だが、意識を取り戻して初めて七海の姿を見た時よりも客観的に彼女を見ることが出来ていたかもしれない。

 そこにいるのは長いキスですっかり上気し、情欲の色を顔に浮かべた一人の美しい少女だった。


「お父さん、もう帰ってるかな?」

「こんな早い時間に帰ってるわけないよ。夜も適当に済ませるってメールに書いてあったし、たぶん真夜中近くにならないと帰ってこないか、終電逃したらどっかのホテルにでも泊まるでしょ」


 いつの間にそんなやり取りをしたのだろうと思うが、今は関係ない。

 家の鍵を開けて中に入る。

 七海の言う通り父親の革靴はなく、奥のリビングは暗いままだった。

 お互い先を競うように靴を脱ぎ散らかし、廊下をいってすぐの階段を上がった。手前が七海の部屋で、奥に奏の部屋がある。

 奏は七海を引っ張るようにして自室に連れ込んだ。

 ドアを閉めて明かりとエアコンをつけると、七海の方がもう待ちきれないという風に奏を求めてきた。

 コートを脱ぎ、トップスとインナーを脱がせ合う。

 まだ暖まりきっていない空気が肌の表面を粟立てさせたが、すぐに気にならなくなった。

 七海が奏の首元に口を寄せて強く吸った。

 初めての感覚に奏の口から声がもれた。

 そのまま奏は七海に手を取られ、ベッドに押し倒された。

 七海と素肌を重ね合わせているだけで奏にとっては堪らない気持ち良さがあった。

 経験の有無など関係ないか、身体が昔の記憶をまさにその身で覚えているのだと思った。

 ベッドの上で思うだけキスを交わし合い、絡まってから七海がその長い指を陰部にゆっくりと入れてくる。背筋を電気が走るかのような感覚があった。


「痛くない?」


 優しい七海の声に奏は首を振った。

 痛かろうがこの際構わないと思った。それ以上に七海を感じていたかった。

 七海は奏の全身をくまなく舐め、いたるところにキスを降らせた。繊細に指を動かし、奏の身体の輪郭を覚えようとするかのように動いては、好い反応をした場所を重点的にせめた。

 だが、今の奏にとって快楽はさほど重要なものではなかった。

 ただ七海と交じっているという事実だけが天咲奏という名前の石板に刻まれていくかのようで、それがたまらなく嬉しかった。

 付き合っていたと七海に言われた時からほのかな感情は覚えていたが、この時になってようやく奏は目の前にいる天咲七海という少女に焦がれているのだと理解した。

 それは、心よりも先に身体が感情を覚えたかのような不思議な感覚だった。

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