父親

 なんの連絡もなしに父親が帰ってきたのはそれから少ししてのことだった。

 平日の夜。夕ご飯も食べ終わって七海と一緒にリビングのソファに座って流行りのドラマを見ている時にガチャリと玄関のロックが開く音がした。

 初めてのことに「なんだろう?」と奏は疑問を口にしたが、七海はすぐに思い当たったようで不愉快そうに目を細めた。

 トランクを片手に持ってリビング現れたのは、夜だというのに着崩すことなくカッチリとスーツを着た神経質そうな男性だった。

 ノンフレームの眼鏡に髪はオールバックに整えられている。

 中年と言って良い年だとは思ったが、精悍な様子はまだ若々しく見せている。威圧感を覚えたのはただ初対面だったというだけではないだろう。


「お父さん……」


 七海の言葉に奏もピクリと反応した。

 この人が七海の……いや、正確に言えば今の自分の父親なのかと思うと身体がさらに緊張した。言われれば目元が少し七海に似ているかもしれない。


「急に帰ってきてどうしたの? 帰ってくるなんて一言も聞いてないよ」

「本社で人事の穴が出来てな。任せられる人間がいないということで急に呼び戻されたんだ。メールをしたが、見ていないのか?」

「そういう大事なことは電話でしてよ。私だってスマホにベッタリしてるわけじゃないんだから。それで? いつまでいるの?」

「帰ってきたばかりだというのに次に聞くことがそれか。出来ることなら今すぐにでも出て行って欲しいとでも言いたげな口調だな」


 そう皮肉るように父親が言う。

 その会話だけで二人の間がとても良好と言えるものじゃないように思えた。

 そして、もしその原因があるのだとしたらそれはおそらく自分に違いない。


「だが、生憎代わりの人材が見つかるまで日本にいることになる」


 そこでようやく父親はちらりと七海の横にいる奏を見やった。

 が、すぐに視線を外す。

 そして、首元のネクタイを緩めながら、「何もないだろうな?」と言った。

 その言葉に七海がかみつく。


「電話でちゃんと説明したでしょう? 今は指数だって下回ってる。私と何も変わらない」

「下回っていたとしても一時的に、という可能性もあるんだろう?」


 その物言いに七海はさらに口調を尖らせた。


「何でそんなこと言うの? 血が繋がってないから? それとも単にお姉ちゃんのことが気に入らないってだけ?」


 もはや責めているといっても良い言葉の七海だったが、一方の父親は全く感情を昂らせている様子はなかった。

 熱くなる七海とは本気で話をするつもりはないとでも言うようにリビングダイニングから繋がっているキッチンに行くと、おもむろに冷蔵庫を開ける。


「別に血の繋がりも、気に入るも気に入らないもない。私が感情を表に出すのが苦手なのはお前も知っているだろう? それに、私はあくまでも社会的立場の父親として言っているんだ」

「今まで放っておいてよく言うよ。私たちはちゃんと二人で暮らせてる」

「そうだな。もう二人ともいい年だ。何もかも父親が必要ということもない」


 おざなりな言葉に「もうここにはいたくない」そうとでも言うかのように七海は奏の手を握ってリビングを出ていこうとする。

 それに、「ちょっと待て」と父親が思い出したように声をかけた。


「二人でちゃんと暮らせてるのはわかるが、それでも、やることはちゃんとやってるんだろうな?」

「どういう意味?」

「病院にはちゃんと行っているのか、ということだ。指数検査もあったはずだろう?」


 父親の視線は奏に向けられた。

 正面から見られ、息が詰まるような感覚がした。


「行ってるし、検査もちゃんと受けてる」


 言ったのは七海だった。


「それで指数が下回ってるからこうしてここにいるの。当たり前のこと聞かないで」

「なんでお前が答えるんだ? 私は奏に聞いているんだ」

「あのねぇ……っ!」


 父親の態度に七海はいよいよ本格的に喧嘩腰になった。


「お姉ちゃん、記憶がなくなっちゃったんだよ? 周りのことどころか、自分が誰なのかもわからないんだよ? もうちょっと言い方ってものがあるんじゃないの?」

「………………」


 しかし、それでも父親は冷厳な様子を崩さなかった。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを一口あおってから息を吐いた。


「まぁ、お前たちが特段問題を起こさない限り私は何も言わん。父親としての責務は果たすつもりでもいる。が、必要以上の尻拭いはしてやれん。七海、いくら奏のことが大切だからと言って自分の将来を台無しにするような真似だけはするなよ」


 一瞬にして七海が息んだのがわかった。

 普段は愛嬌のある顔が睨みつけるような鬼のような形相に変わっている。口を開きかけ、まだ何かを言おうとした彼女を奏が止めた。


「お姉ちゃん……」


 そう。たぶんこれが本来の『ボーダー超え』に対する人の対応なのだ。いや、むしろそう考えたら父親はまだ優しい方かもしれない。

 小さく微笑んでから、奏は「行こう?」と七海と共にリビングを後にした。

 奏の部屋に入ると、七海は何も言わずに奏の身体に腕をまわした。

 七海の方が奏より数センチ背が低い。そのまま首元に顔をうずめてぐりぐりと顔を押しつける。


「ありがとうね、七海」


 そっと七海の頭を抱きながら奏が言うと七海はふるふると首を振った。

 父親の態度により傷ついたのは自分より彼女の方かもしれない。

 少なくとも彼女はそれだけ自分のことを想ってくれている。そう思うと、奏はたまらない幸福に包まれているように感じられた。

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