目覚め

 病室にセミの鳴き声が届くようになってきている。外は盛夏を先取りしたかのように日差しが厳しく、ぎらつくような太陽の気配が色濃く出ていた。


「明日はちょっと会いに来るの遅くなっちゃうかもしれない」


 七海が初めてここを訪れてから二ヶ月が経ったが、奏は一向に目を覚ます気配はなかった。顔色は悪くないものの、ずっと寝たきりで点滴で栄養を補給しているせいか元から細身だった奏の身体はいっそう細くなっているように感じられた。

 そっと手を握ると、女性らしい柔らかさはあまりなく、骨に皮が張っただけのようなごつごつとした感触が目立った。それでも七海にとっては誰よりも愛おしい人の手だった。優しくさすりながら言葉を続ける。


「とーこがカラオケ行こうってうるさくてさ。覚えてるかな? 前に話した、高校になってから出来た友達なんだけど、六月頭にあった模試でまーまーの結果が出せて余裕出てきたみたい。それで、私も久しぶりに付き合おうかなって」


 とりとめもなく七海はそんなことを話す。もちろん言葉は返ってこない。聞こえてくるのは奏の静かな寝息と、穏やかなクラシック音楽だけだ。

 ここに奏が入院してから一度だけ例の法務省矯正局特定犯罪対策課の須田という人物と七海は会った。いかにも役人然といった感じで、ここに来たのも役所の仕事で必要があったかららしく、七海と会ったのも必要があったわけではなく、偶然にタイミングが合ったに過ぎなかった。


『別にご家族だからと言ってこちらに通っていただく必要はありません』


 七海がしょっちゅう病院に顔を出していると知った彼はさも当然といった様子でそう言った。家族としての義務感か世間体を気にして、とでも思ったのだろう。

 奏さんの身元引き受けは国になっているだのなんだのとご託を並べ、いかに七海がここに通う必要がないかを説明したが七海はその間中そいつの顔を引っ叩きたくなる気持ちを抑えるのでいっぱいだった。もっとも、彼は自分の言っていることが何一つ間違っておらず、七海にもその意図がきちんと伝わっていると信じて疑っていなかったようだが。

 もちろん、そんなことがあって以降も七海は放課後、余裕がある限り見舞いに行った。

 許可を取ってCDラジカセを持ち込み、隔離されてからも手つかずになっていた奏の部屋にあるCDを順番にかけていった。昔、何の番組だったかは覚えていないが、事故に遭って生死の境を彷徨っていた意識不明の教師が教え子たちの声が録音されたテープを聞いて意識を取り戻したという話があったのを思い出したのだ。別に奏は生死の境を彷徨っているわけじゃないけれど、それでも耳はちゃんと聞こえているんじゃないかと思うとそうせずにはおられなかった。

 休みの日など、自分の勉強道具を持ちこんで病室で一日を過ごすことも多かった。

 元々見舞いに来る人もいない。ベッドの横のチェストを机替わりにし、クラシック音楽をBGMにノートに向かう。

 七海は中学生の時から塾には通わず、インターネットを通してのネット塾を活用していた。病院は外観こそ古びていたものの中をリフォームした際にインターネット環境も整えられたらしく、家でも使っているタブレットを持ち込めば朝から晩まで病院に詰めていても何の問題もなかった。


「だから、明日は来れても六時くらいになっちゃうかも」


 奏の手は七海のものより幾分か白い。繊細な動きでフルートを操っていた細い指をそっと握り、自分の手を重ね合わせて頬に寄せる。ほんのりとした温もりに「お姉ちゃん……」と七海は息を吐いた。

 意識がなく、反応がなくてもこうして触れればそこには確かな温かさがある。それだけで奏が隔離されてしまってから色褪せてしまった世界が新しい絵の具で彩色されていくような気がした。

 これからどれだけこういった時間を過ごすのだろうか?

 半年?

 一年?

 二年?

 それとも、もっと?

 ……いや、何年、何十年だって構いはしない。

 少なくとも一度はもう二度と会えないかもしれないと思った相手なのだ。それが、今はこうして会うことが出来るのだ。これから進んでいけば七海にだって様々なことが起こる。安穏とした学生生活を送っている今のように足しげくは通えなくなるかもしれない。けれど、通うことを止めるつもりはなかった。

 盛夏になったら青々しい緑の匂いを伝えよう。

 秋になったらほのかに香る金木犀の話をしよう。

 冬になったら肌寒い中でも澄んだ空気のことを伝えよう。

 春が来たら彩る桜と新入生のことを話題にしよう。

 再び夏が巡ってきたら、今年とはちょっと違ってくるはずの夏のことを語ろう。

 と、『コンコンコン』とノックの音がした。頬に寄せていた手をそっとおろして言葉を返すと、ドアから一人の看護師が顔をのぞかせた。この一般病棟で最初に七海の応対をしてくれ、今ではすっかり顔なじみになった加瀬だった。


「お見舞いのついでに皆さんでどうぞってお菓子をいただいたから七海ちゃんもどうかな、って」

「良いんですか?」

「いつも通り、先生たちに内緒にしてくれるなら、って条件つきだけどね。勉強が一段落ついてないんなら後でいつもの部屋に来てくれても良いんだけど」

「いえ、ちょうど休憩中だったんで大丈夫です。ご馳走になります」


 ペカリと笑って七海がそう返事をする。


「ちょっと行ってくるね、お姉ちゃん」と声をかけて七海は、少し悩んだけれど結局ラジカセを止めないままに病室を出た。

 加瀬と共に看護師たちの休憩室になっているカンファレンスルームに向かうと、中には古河という加瀬よりも少し年上の看護師がすでにお茶の用意をしてくれていた。

 基本的に明るくて洒洒楽楽とした七海の周りには人の輪が出来やすい。それは学校でもそうだったし、こうして毎日のように顔を出す病院でも同じだった。

 容態が落ち着いている患者さんが多い上にキャパもそれほど混みあっていないこの一般病棟の空気は柔らかく、看護師の人たちも温和な人が多い。そんな中、年下の七海はどこか年の離れた妹、もう少し年配の方からすると姪のような可愛がられ方をして――もちろん病院の規則から言えば禁止されているのだが――時折こうして看護師の方からお茶の誘いがあったりする。


「それにしても、七海ちゃんは本当にお姉さん想いよね」


 話の途中、何の話題だったか、思い出したように古河が言った。差し入れの饅頭を菓子楊枝で切っていた七海は「はて、唐突になんだろうか?」という表情で彼女を見やった。


「ほとんど毎日来てるでしょう? お母さんを去年に亡くしてるっていうのは知ってるし、その代わりに、っていう気持ちがあるのかもしれないけれど、それでもこうも頻繁に来てくれる妹さんはなかなかいないわよ」

「うーん、あんまり母のことは関係ないですかね。こう見えて私、かなりのお姉ちゃん子だったんで」

「えー羨ましいなー」


 加瀬がお茶をすすってから言葉を続ける。


「うちも妹がいるけど、七海ちゃんくらいの年になる頃にはすっかり生意気になっちゃってさ。とても七海ちゃんみたいな年で懐いてはくれてなかったよ」

「妹さんと仲、悪いんですか?」

「別に今も仲が悪いってわけじゃないんだけどね。私がこっちで就職して家を出てからはあんまり会わなくなったけど、それまでは一緒にショッピング行ったりして……仲は普通、っていう感じかなぁ?」

「それじゃあ別に良いじゃない。私は一人っ子だから兄弟がいる人が羨ましいわよ」

「単純にそういうものでもないんですよ、古河さん」


 難しそうに加瀬が表情を変える。


「なんて言うか、子供の頃は何をするにしてもお姉ちゃんお姉ちゃんって後をついてきて可愛かったのが……中学の二年くらいからですかね? いわゆる思春期になるとこう、色々といっちょ前に言うようになって、反抗期みたいなものかもしれないですけど。大学受験が見えてくる頃にはそういうのは収まったんですけど、今までとはまた違った関係になった感じで」

「加瀬さん、妹さんとはいくつ離れてるんですか?」

「年は四つ差。今年で二十四かな。地元の大学出て、そのまま地元で就職してOLやってるの」

「じゃあ、私たちとは少し違うかもしれないです。私と姉は一つしか年違わないんで、あんまり姉妹っていう感覚が薄いのかも」

「そういうものなのかなぁ?」

「確かに四つ差と年子だと少し違うかもしれないわね」


 なんて雑談に花を咲かせる。

 医師の春日は奏が特定犯罪指数のボーダーを超えた人間だと知っていたが、看護師にその情報は伏せられているようだった。それが七海にとっても話しやすい理由の一つだったかもしれない。


「と言うか、ちょっと真面目な話するんだけど、こんなに毎日通ってて学校は大丈夫なの?」

「七海ちゃんの高校って確か有名な進学校だったわよね? 勉強の方、厳しいんじゃない?」

「ん……それなりですね」

「あんまりこういうこと言うと差し出がましいかもしれないけど、お姉さんはもちろんでも、勉強だって大事だからね? あんまりおろそかにしちゃダメよ?」

「心配していただいてありがとうございます。でも、こう見えて私、実は結構勉強出来るタイプなんで」

「えー、ホントかなぁ……?」

「あー、信じてませんね」


 と、そこでふと思い出して七海はスカートのポケットの中を探る。返却された模試の結果を適当に折りたたんでスカートにしまいこんだままだった。


「これ、この間の模試の結果です」


 差し出すと加瀬が受け取って、古河ものぞきこむように見やった。少ししてからビックリしたような声を上げる。


「学年で八番! ホントだ、七海ちゃん見かけによらず頭良いんだ……」

「見かけによらずって、なんかひどくないですか?」

「だってどう見ても優等生って感じじゃないでしょ? なんか学校でも参考書とかよりファッション雑誌めくってて、試験結果よりネイルの出来栄えを気にする、みたいな」

「まぁファッションに興味がないっていうわけじゃないですけど……それでも勉強をおろそかにしてるわけじゃありませんって。第一、その模試の結果、学年じゃなくて県ですよ。県の統一模試だったんで」

「へっ?」


 慌ててもう一度紙を見やって二人が「ホントだ……」と言葉を失う。


「県で、八番目? ってか偏差値七十二って……」

「前に七十九とかいったこともあります。その時は確か県で二番だったかな……運が良かったらそのくらいも出ることがあるみたいで。高校の間には一回くらい八十を取ってみたいなって思ってるんですけどね」

「うっそ……?」


 と看護師二人が言葉を失い、それぞれ「七海ちゃんって明るくて天然で、もうちょっとこう、おバカ系のキャラだと思ったのに……」や「なんかイメージと違う。こういうのって一部の何考えてるかわけわかんないような人間が取る数字じゃないの?」といったようなことを好きに言う。

 確かに七海は明るい色のボブヘアーに大きなネコ目と、いわゆる世間が持っているようながり勉の印象とは違っただろう。こればかりは父親の血を受け継いだとしか言えなかった。ただ、自頭の良さというのもあるかもしれないが、それに加えての努力もしっかりと結果となって跳ね返ってきてくれたからこその成績だった。

 一応の今の自分や奏の状況、つまるところ毎日のように病院に通い詰めていることを父親に電話で伝えている。そんな状態でも苦言を呈されないのはそういった面できっちりと結果を出しているからに違いない。

 そんな悪戯が思わぬ形で成功したような感覚は愉快で、七海は楽しい気分のまま病室に戻って扉を開けた。

 そして――


「お姉ちゃん、ただい、ま……?」


 そこで見たのは、ベッドの上で上半身を起こした奏の姿だった。

 七海の声に反応して窓の方を見やっていた奏がそっと顔を向ける。整った顔立ち。七海のネコ目とは違うが魅せるような目は少しも変わっていない。

 空気が静かに漂う。

 七海はどう言葉を発したら良いのかわからなかった。いや、言葉の紡ぎ方を忘れてしまったと言った方が正しかったかもしれない。

 少しの沈黙が漂い、二人の姉妹が互いに顔を見合わせているだけだったが、先に僅かに視線を揺らしたのは奏の方だった。そして、彼女は意を決したように口を開いた。


「あの……どちらさまでしょうか?」

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