天咲奏という少女

「勉強でわからないところがあるの」


 七海はよくそう言って奏の自室を訪ねていった。

 奏たちが引っ越してきてから七海は自分の部屋というものを一層意識し、整えるようにしていた。元より散らかすタイプではなく、どちらかと言えば整理整頓は得意な方であったが、それでも子供っぽく見られるような部分は極力なくすようにしたと思う。

 奏のために用意された、父親と二人暮らしの時にはちょっとした物置き部屋として使っていた七海の隣の部屋は、奏がその部屋を使うようになった瞬間から非常に洗練されたものに変わったように思えたのだ。

 両親が意図的にそうしたのか、オフホワイトのカーテンやベッド、学習机は七海が使っている物と同じ物が用意されたが、他の家具などのインテリアは奏の要望に合わせられたらしい。モノトーンを中心にしているのだが単調ではなく、タイルカーペットやちょっとしたクッションのチョイスは奏の人物そのものを表しているかのように清楚で優雅だった。人によっては「女の子の部屋らしくない」と表現したかもしれないが、七海にとってはそれはどんなファッション誌に載っているインテリアコーディネートよりも魅力的に見えた。

 そのせいか、姉の部屋にいると自分も一つ頭の抜けた瀟洒な存在になれたように思えたのだ。そして、勉強道具を持ってきた七海を奏は常に優しく中へと迎えてくれた。本当は自分一人でも解けるし、姉の時間を使わせることに罪悪感がなかったわけじゃない。そして、もしかしたら奏はそんな七海の考えさえ見通していたかもしれない。それでも嫌な顔一つせずに応えてくれる姉が七海はたまらなく好きだった。

 そして、その日もそんな夜だった。

 英語の長文問題で、七海の学年から言えば一つは上のランクの問題だった。

 中学校に入った七海はいよいよ父親に勉学の面で期待をかけられるようになった。邪推をするなら、音楽に秀でている奏に対して自分の娘がそれに勝るとも劣らない面が欲しかったということもあっただろう。

 学校の実力テストや模試では常に上位であることを求められ、目指すように言われた高校は地方でも名のある難関の進学校だった。しかし、幸いだったのは七海にその要求に応えられるだけの頭があったことだ。頭でっかちの父親に似たのか、中学に進学しても七海は勉学で躓くことはなかった。


「The king called all the young people in the country to the palace. He said, "I will

choose the next king from you." The people there were surprised. He said, "I am going

to give a seed to everyone of you today.」


 綺麗な発音で参考書の文章を読む奏の姿を七海はぼぅっと呆けて見ていた。

 整った顔立ち。長い睫毛。七海のようなネコ目ではなく静かな印象をたたえる目は物憂げにも見え、七海の視線を捉えて放さない。

 短絡的なことを言ってしまえば七海が最初に奏のことを好いたのはその外見だった。一学年上ということを鑑みても、七海は学校のどこを探しても奏のような人を見つけることは出来なかった。奏と比べると一つ二つ上の先輩の女子でさえみんな年端もいかない女の子に思えたし、男子に至っては動物園の檻の中で騒ぐうるさい猿にしか思えなかった。

 奏だけが特別だった。彼女だけが一段と大人びた素敵な女性に思えてならなかった。

 もちろん、会っていく内にそれが外見だけでないことはすぐにわかった。大人びた振る舞いの要所要所からは知的な姿が見え隠れした。例え一言しゃべるだけでも彼女からは格別な風韻が感じ取れた。

 こんな人がいるとは今まで七海は想像すらしたことがなかった。

 彼女がそこにいるだけで、その視線が自分に向けられるだけで七海の心は跳ね、言葉を交わせばどうしようもない幸福がお腹の底からふつふつと湧き上がってくる。男が惚れる男という言葉が世間にはあるらしいが、それを言うなら女が惚れる女、というものもあっても良いんじゃないか、なんて全く関係のないことが頭に思い浮かぶ。

 ……好きな人とかいるのだろうか?

 一緒に暮らしていて、奏に恋人らしい人がいないことは知っている。それでも心の内に秘めて想っている人はいるかもしれない。

 そう思うと七海の心はどうしようもなく波立った。

 自分とは違ったタイプであるが奏も十分他人から褒められる容姿だろう。好きな人がいて、もし告白などしたらすぐにその人と親しい関係になって自分なんか弾かれてしまうんじゃないか?

 根拠のまったくない不安だったが、一度考えてしまうとその不安はぬぐい切れず、すぐ背後に迫ってきているようにすら思えてしまう。


「七海?」


 ふいの声にハッと我に返る。と、視線が真正面からぶつかった。

 そらすことが出来ない。心臓が早鐘のように打ち、耳の奥でごうごうと風のうねりのようなものが聞こえる気がした。


「どうかした?」

「あ、え、えっと――」


 何か言わなくちゃいけない。でも、何を? 勉強の質問をしようにも奏の読んでくれた英文なんてこれっぽっちも頭に入っていなかった。


「お、お姉ちゃんは好きな人とか、いる?」


 それはあまりにも唐突な質問だっただろう。

 七海自身、何変なこと言ってるんだ、と内心焦った。

 取ってつけたように、「今日、学校でそういう話になって、その……私には好きな人とかいなくて……」と取り繕ったが、どうしてもしどろもどろになる。勘の良い奏には何もかも見透かされてしまうんじゃないかと別の意味で鼓動が早打つ。

 しかし、奏はそんな妹の質問に少しだけ考えるような仕草をすると、部屋の中央に置かれた背の低い机から離れてベッドの方に座りなおした。七海は座ったままそんな姉にを目で追った。


「好きな人ね……私も好きな人はいないわ」

「そうなの?」

「と言うより、今まで誰かを好きになったことってないの」

「好きになったことがないって、一回も?」

「うん。男の子はもちろんだけど、友達に対しても好きっていう感情を覚えたことがなくて」


 そう言う奏は不思議と微笑んでいた。いや、微笑んでいるという言葉に収めて良いものなのかどうかわからない。それは七海が生まれて初めて見る表情だった。浮世離れしたと言って良い表情は今まで七海が出会ってきたどんな表情とも違って見えた。

 基本的に人間とは群れを作って生きる生き物だ。七海や奏の年頃には一匹狼を気取る子もいるけれど、奏は明らかにそういった「ハリボテ」とは違っていた。たったこの瞬間から誰も存在しない無人島に飛ばされたとしても彼女はその表情を崩さなかったに違いない。


「友達に対しても好きっていう感情を覚えたことがないって……でも、友達はいるんだよね?」

「少しだけだけどね。私は七海みたいに人付き合いが得意じゃないから、かな。あまり人と付き合う必要がないって言うか……そういうの、こういう言い方をしたら申し訳ないんだけれど煩わしく思ってしまうの」

「煩わしい?」

「そう。正直、今の友達も相手がそういう扱いをしてくれるから友達をやってるっていう感じ」


 奏がふいと視線を外す。それは窓に引かれたカーテンを通り過ぎ、まるでその向こうに浮かんでいるだろう月や星星を見やっているかのように見えた。


「お姉ちゃんは、それで寂しくないの?」


 自分では覚えたことのない感覚に七海はそう問うた。少なくとも七海は、奏といる時はもちろんだったが、友人たちと一緒にいる時にも大きな意味があると思っていた。友達がいるから学校に行く。友達がいるから町に遊びに行く。友達がいるからおしゃべりする。それが七海にとっては当然だった。

 だが、


「私には音楽があれば良いかな? 音楽さえあれば私は満たされるから」


 奏はそう言ってゆっくりと目を瞑った。

 姉の言葉が嘘やハッタリじゃないことはよくわかった。彼女は本当にそう思っている。そう思っているからこその美しさがそこにはあった。

 呼吸が出来ない。

 苦しくなる。

 でもそんな気持ちがなんなのかその時の七海にはわからなかった。ただ、そんな姉が何よりも美しい存在に思えたのは間違いない事実だった。

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