再会

 夕方で日が落ちかけていると言っても四月にもなれば多少暖かい空気が混ざってくる。七海は高校の制服のまま財布やスマホ、スクールバッグをひっつかんで転がるように家を飛び出した。

 相手から聞いた病院は聞いたことがないものだった。

 スマホで調べてみると、その病院は指定入院医療機関というものになっており、自宅からはだいぶ離れた場所にあった。世話焼きなスマホが併せて電車やバスなどの公共交通機関を使っての移動手段を示してくれたが、慣れていない上に今は一分一秒が惜しい。

 七海は駆け足で自宅から五分ほどの最寄り駅まで行くとタクシー乗り場に停まっていた一台のタクシーに手を挙げ、ドアが開かれるのとほとんど同時に乗り込んだ。

 肩で呼吸しながら駆け込んできた七海の姿に運転手は呆気にとられたようだった。怪訝な表情を五十を過ぎたくらいに見える男が浮かべる。だが、そんなものを気にしていられるほどの余裕もない。


「ここまで、お願いします」


 行き先を聞かれるより先に病院の名前を走り書きしたメモを差し出す。彼はまだこの急に転がり込んできた女子高生の姿をいぶかしんでいたけれど、紙に書かれている場所が病院だとわかると納得がいったようだった。

 僅かに目を細めて帽子の位置を直す。


「聞いたことのない病院だねぇ……」言いながら慣れた仕草で運転手はカーナビをいじった。一昔前なら地図を開いて場所を探し、そこから運転手が自分の持っている知識と経験でルートを考えなければいけなかっただろう。それが今は優秀な機械が迷うことなく目的地を探しだし、現在地からの最短ルートを表示してくれる。


「あー、だいぶ北の方だな」


 運転手がちらりと七海を見やる。


「ここからだと結構距離があるけど、大丈夫?」

「お金なら大丈夫です。あります」


 七海は早口に言った。ただの女子高生にしか見えない以上あまり大金を持っているようには見えなかったのだろう。しかし、スクールバッグの中にこの先二週間ほどで使う予定だった生活費全てを入れた封筒を放り込んで来ていた。

 運転手は七海の言葉に頷くと、それ以上は何も言わずシフトレバーをいじってゆっくりと車を発進させた。

 道中の車内は静かだった。

 行き先が病院であり、七海の様子からしても呑気に世間話をするような場面じゃないのは運転手もよくわかったに違いない。

 七海はただ窓の外を流れていく景色に目をやっていた。

 タクシーは駅前のちょっとした商店街からすぐに外れて民家が建ち並ぶ道に入り、そこを少し行ってから国道に乗ったらしい。渋滞などはないようでスムーズにタクシーは道を走る。遠くには鈍色の雲が折り重なるような形でひと塊になっていた。しかし、そんな風景の一つも七海には見ているようで何も見えていなかった。

 電話の向こうの職員の声は落ち着いていた。いや、落ち着いていたというよりかは無機質だったと言った方がいい。

 わざと感情を消しているんじゃない。彼にとって天咲奏という存在は一人の人間ではなく一つの物体でしかないのだろう。

 特定犯罪指数がボーダーにひっかかった人間がどのような生活を送るのか?

 社会復帰のための更生プログラムを受けることになるということは姉が護送車で連れて行かれるその日に職員と思しき人間から聞いていたものの、そのプログラムがどういったものなのかは何も知らされなかった。

 もちろんそれが気にならないわけもない。

 七海は過去に何度も書籍やネットで情報を手当たり次第に探したことがあった。ただ、紙の媒体ではロクな情報はなく、ネットの中には多少なりとも情報がまことしやかに飛び交っていたが、確実だと裏付けがされたものはひとつもなかった。

 人道的なものからとても許されないような非人道的なもの。秘密裏に人体実験に使われているだの、内臓を取り出されて裏で売買されているだの、信じるに値するとはとても思えないものもあれば、脳の一部に外科的手術を受けて――昔に行われていたロボトミーというやつが進化したようなやつだ――特定犯罪指数の低下を目指すというもの、もっとソフトで緩やかなもので言えば、専用の行動療法で犯罪指数を抑え込むという、比較的信じやすいものまであった。

 それでも、その全てにおいて言えることはその真偽を確かめる術はどこにもない。

 隔離されてから、姉からはもちろん、その関係者からも連絡らしいものは一度ももらわなかった。

 逆に、一年前に母親が急逝した時、通夜や葬式にも姉の姿はなかった。窓口になっている、先ほど連絡をもらった法務省矯正局特定犯罪対策課とやらにアメリカから一時的に帰ってきた父親が連絡を入れたようだったが、それが姉に伝えられたかどうかさえもわからない。ただ、先ほどの応対を見るにその情報だって適当にあしらわれたのだろうということは判断がついた。

 特定犯罪指数を超えた人間にこの社会は優しくないどころか常識的でもない。それは家族だって例外でなかった。

 父親が連絡をしたのだって、父親という存在が持つ一般的な役割からそうしただけで、実際姉に伝わるかどうかはどうでも良かったのだろう。七海の父親が奏のことで本当に一生懸命になった期間は決して長いものではなかったように七海は思う。

 一時間以上かかって辿りついた病院は思ったよりも大きなものだった。

 市街地からは少し離れた場所に建てられている。総合病院よりは小さいものの、そこだけ森を大きく切り開いて作られたようでそれなりのスペースをとっていた。

 施設自体はそう新しくないらしい。四角四面に図面を引いただけのような、長方形の建物を三つ四つくっつけた形をしていて、窓も少なくどこか病院と言うより古びれた役所のような印象を抱かせた。本来真白だっただろう壁も所々が汚れている。


「この辺で大丈夫かな?」


 そんな中で大きく開かれた正面入口のところでタクシーは停まり、運転手が料金メーターに触れた。一万円五千円を少し超えたくらいだったが、七海は封筒から迷いなく二万円を引き抜くと「おつりはいりません」と言って急いで車から降りた。

 ちらりと時計を見やる。時刻は十七時半。正面入り口の自動ドアには『本日の外来受付は終了しました』との札がかかっていたが、まだ閉ざされてはおらず、七海のことを感知して中へと入れてくれた。

 会計窓口がいくつも並んだ一階ホールにはまだ結構な数の人の姿があった。全員が特定犯罪指数のボーダーを超えているというわけじゃなく、普通の患者もいるのだろう。

 七海は軽く中を見渡すと目についた受付カウンターに駆け寄った。事務作業をしていた女性看護師が七海に気がつき、顔を上げて「何かお困りですか?」と聞いた。


「あの、少し前に天咲奏という患者がこちらに運ばれたと聞いて、その、面会したくて……私の姉なんです。三日くらい前に事故に遭ったと今日聞いたばかりで……意識がないと……」

「大丈夫ですよ」


 頭はまだ冷静を十分には取り戻せていない。早口にまくしたてた七海の表情は錯乱に近いものがあった。それなりに年を召した看護師の声には七海を落ち着かせようという意思がはっきりと見て取れた。表情も一層穏やかなものになっている。


「生憎アマサキさんという患者さんを私は担当しておりませんが、この数日運ばれてきた若い患者さんで命に関わるような方はいらっしゃなかったはずです」

「そうなんですか?」


 それを聞いてようやく七海も呼吸が出来た気がした。電話をもらってここに来るまでずっと顔を水中に押しつけられているかのような息苦しさがあった。

 意識がない。万が一のことが考えられる。

 その言葉ばかりが頭の中をぐるぐると回っていて思考を引っ掻き回していた。

 それが、今の彼女の言葉で顔面を覆っていた水の膜がなくなったように感じられた。その様子が外から見てもわかったのだろう。看護師は小さくうなづいてから微笑んだ。


「ICUなどではなく、おそらく一般病棟に入院されているのではないかと思いますのでそちらに向かってください」


 看護師はカウンターの下から病院の見取り図を描いた紙を取り出すと七海に手渡した。


「面会時間の終わりまでまだ二時間近くありますから、詳しくは一般病棟の受付で説明してもらえると思います」と彼女は優しく言った。


 七海は大きく頭を下げてから教えられた一般病棟の方へと向かった。

 建物を繋ぐ渡り廊下に人の姿はなかったが、吹き抜けから建物に囲まれた中庭を見やるとちらほらと入院患者と思しき人や看護師の姿があった。建物自体は古く思えたけれど、決してみすぼらしいような印象は受けなかった。

 一般病棟に入るのに扉の類はなく、そのまま建物の中の廊下につながっている。暖かいクリーム色の壁に手すり。少し行って角を曲がるとちょっとした広間に出た。ソファが何脚か並べられ、一角に面会受付と書かれたナースステーションのような場所がある。

 建物の外観とは違ってまだ新しく思えるそこは、もしかしたら最近にリフォームがされたのかもしれない。受付に寄ると、ステーションの中の若い女性看護師が微笑んで応対の姿勢を見せてくれた。


「すみません。天咲奏がこちらに入院していると聞いたのですが……」

「天咲さんのご家族の方でしょうか?」

「妹です。今日知らせをもらったんです」

「ということは、面会は初めてですね。それでは、こちらにご記入をお願いします。あと、体温を測らせていただきたいのですが」

「体温を?」

「はい。申し訳ありませんが発熱の症状がある方の面会はお断りさせていただいておりますので」


 看護師の言葉に『ここは病院なのだからそのくらいは当たり前だろう』と考えつく。そんなことさえすぐにわからないほどまだ七海の頭は冷静さを欠いているらしい。

 かざすだけで簡単に熱を測れる体温計を向けられ、七海は前髪をのけて額をのぞかせた。慣れた手つきで看護師が体温計をかざし、「三十六度五分。大丈夫ですね」という言葉に七海は一つ大きく深呼吸をした。彼女の胸につけられたネームプレートには『加瀬』という名前が書かれていた。

 それから面会者名簿の記入箇所に必要事項を書いていく。

 患者名、面会者の名前、患者との関係に入室時間。すべてを書いて看護師――加瀬に確認してもらうと、彼女は「はい、問題ありません」と一枚のネームケースを差し出した。中に入っている紙には『面会カード』という文字と区分のためと思われる『N-0052』という英数字が書かれている。


「面会の際は首からその面会カードをかけていてください。天咲奏さんの病室は五階の五〇八号室です。右手に見えますエレベーターをお使いください。面会時間は二十時までとなっていますので、気をつけてくださいね」


 はい、という返事を返すと七海の心には先ほどまでとは違う、どこかはやるような気持ちが芽生えているのに気づいた。

 落ち着け、と自分に心の中で言い聞かせてからエレベーターのボタンを押す。三基並んでいる内の一基が一階にいて、すぐに開いた扉に乗り込む。

 五階。五〇八号室。

 ゆっくりと上昇するエレベーターに僅かに圧を覚える。

 奏の特定犯罪指数がボーダーを超え、別々になって連絡すら取れなくなってから二年という時間が過ぎている。十代という年代においての二年はただの時間の経過以上のものがあるだろう。それがこのエレベーターに乗っている僅かの時間で埋められるわけもない。

 エレベーターから降りて五〇八号室を探す。部屋は個室のようだったが、プライバシーの関係からか七海が思っていたような患者名が書かれたプレートはどの扉にも書かれていなかった。それでも、五〇八という、ただの数字であるはずの文字を見た時には頭がぐらぐらと揺れているような気がした。

 感情がまとまらない。

 ノックをすることすら忘れてドアノブに手をかけ、横開きの扉を開く。


「………………」


 部屋はそう広くは思えなかったが、行き届いた清潔さがあり、窮屈に感じることもなかった。奥の壁に大きく窓が取られ、優しいはちみつ色のチェストと来客用と思しき備えつけの椅子が二脚。ベッドはその手前にあり、丸椅子も一つだけ用意されていた。

 事故――それも高所から転落したということだから、ベッドに横たわる姉の体には痛々しく包帯があちらこちらに巻かれ、下手をしたら色々なコードによって機械とつながれているのではないかと思ったがそうではなかった。頭部に包帯が軽く巻かれていたものの、それを除けば姉はただ眠っているようにしか見えなかった。

 ゆっくりと歩いてベッドの傍に寄る。ドクンドクンと胸に収まった心臓が低く鳴る。

 二年ぶりの再会。

 濡れ羽色の髪は別れた時より幾分も伸びている。顔つきも少し成長していたかもしれない。

 それでも、通った鼻梁に小さく整った口元……その顔はこの二年間、たったの一日も忘れたことのない姉の顔と寸分の違和感もなく自然と混ざり合い、七海の心に小さな火が灯ったかのような安堵をもたらした。


「お姉ちゃん……」


 ゆっくりと奏の頬に触れ、七海の口からこぼれた言葉。それは、病室の壁に吸い込まれるように静かに消えていった。

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