ボーダーラインのその先へ

猫之 ひたい

プロローグ

プロローグ

 打ちっぱなしのコンクリートの建物は見る者を威圧するかのような雰囲気を放っていた。

 四階建てで特に装飾もされていない。規則正しく並んだだけの四角の窓には武骨な鉄格子がはめられている。築年数もかなりのものだ。塗料はとうの昔に剥げ、場所によってはコンクリート自体が劣化して赤茶けては細かなヒビが入っていた。そんな建物が二棟並んでいる様はどこか時代遅れの刑務所か兵舎を思わせる。

 少女はその建物の内の一棟の横に付けられた非常階段の最上部に立っていた。

 さび付いた階段はもう何十年と使われていない。本来なら階段に通じる扉には鍵がかけられているのだが、ここである程度暮らした人間のほとんどは四階建ての内、三階部分の扉が壊れていることを知っていた。少女はたったさっきにその扉からこの階段に出て、一階分上って最上部へと来たのだった。

 強い風が少女の黒髪を揺らす。四月の風は暖かさを多分に含んでいたが、今の少女にはそのぬくもりは伝わらなかった。

 連れてこられたばかりの頃は、ここの生活にそこまで不満があったわけじゃない。

 確かにこの『施設』においては自由という言葉などなかったし、少女はここに来ることによって多くのモノを失った。

 毎月に決まって運ばれてくる同じ境遇の少女はほとんど全員が同じ顔をしている。

 絶望や悲嘆。

 憤怒に焦燥。

 そして、『罪もなく』閉じ込められることへの憎悪。

 そういうことから言ったら少女は変わり者だったかもしれない。

 多くのモノを奪われてもなお、少女が最も愛し、自分の生命同様に大切に思っている『音楽』に関しては完全には奪われなかったからだ。

 触れていられる時間は多いとはお世辞にも言えなかった。

 それでも、他の少女の多くが欲した『家族』や『友人』、『恋人』といったものに比べたら恵まれていただろう。更生プログラムにはきちんと専用の時間が設けられ、その時間に彼女は『音楽』に存分に触れることが出来ていた。

 だから、この閉ざされた箱庭でもやっていけると思った。

 実際、ここに運ばれてからの二年という月日を少女は無難にやってきた。それまで抱いていた夢や希望というものは失われても、その根源は失われなかった。

 だが、それもこの間までの話だった。


「………………」


 少女がゆっくりと非常階段の欄干に足をかける。夕食後の自由時間。辺りはもう暗くなり、小さな電灯の明かりしかないここでは、下を見ると黒いアスファルトが真暗な冥界へと通じているように思わせた。

 ぞくりとした感覚が彼女の背筋を襲う。

 生物が当たり前に持つ恐怖。死を恐れ、遠ざけようとする本能。

 それが欄干にかけた足をなんとか留めようとする。

 しかし、そんな本能的な恐怖よりも少女はこれからの生活の方がはるかに恐ろしかった。

 今年になって改定された少女の更生プログラムから、かけがえのなかった『音楽』がまっさらに消え去った。消されてしまったのだ。

 何度も何度も担当官に直訴し、どれほどそれが必要なものなのかを訴えたが、その訴えは認められなかった。担当官はまるで無機物を相手にするような表情で決まった言葉を口にした。


『その方が貴女のためになる』


 その答え以上のものは何も与えられなかった。根拠も何もないだろう、おそらくは実験的な意味合いが強いその改定は少女の心を完全に殺した。

 日に日に己の中から消えていく『音楽』の調べに少女は生きている意味を失った。

 大きく……そう、まるで最期の呼吸をするかのように少女は深呼吸をした。

 意味のなくなった世界。

 存在価値のない自分。

 そういったものから解放されるため、少女はその体を宙へと投げた。

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