第2話

 道が東山の峠を迂回し、蹴上げから遠くに都が横たわっているのが一望に見渡せた。

 ついに帰ってきてしまった。業平はまたため息をつく。その心の中にたくさんのものを詰め込んでの帰洛だった。

 まずは内裏へ直行だ。勅使として出かけた以上、帝への復奏をしなければならない。

 帝は今日は清涼殿においでになる。業平はまず殿上の間で朝服を改め、東廂の中央の円座に座した。やがて目の前の御簾が上げられる。

 帝は昼御座ひのおましにすでに出御されていた。二畳だけ敷かれた畳の上だ。

 帝はご幼少で御即位あそばされたが、すでに十五の若者におなりだ。だが加冠はまだで、何もかぶってはおられない童形だった。その脇には業平の舅の兄で、舅の政敵でもある摂政太政大臣良房が、一段下がった板の間の円座の上に座していた。

 鋭い眼光を感じる。それだけで業平は身がすくむ思いだったので、形だけの奏上を行っておいた。

 ねぎらいの言葉は帝からではなく、太政大臣の方から表情ひとつ変えずに下された。これも形どおりだった。斎王は帝の姉君ではあるが、母が違うために帝はそう親近感は抱いておられないのだろう。

 宮中を退出した業平は、本来ならまっすぐ自邸へ戻るかあるいは右大臣家へ行って妻に会うべきところであるが、なぜか彼の車は別の方角へと向かっていた。大内裏の東の陽明門からそのまま近衛御門大路を東進し、烏丸小路を南へと折れる。するとすぐ東側に見えてくるのが、惟喬これたか親王の小野宮おののみや邸だった。

 すでに昼下がりだ。まずは家司を走らせておいてから、業平は朝服のままそこへ向かっている。

 着くとすぐに寝殿の南面みなみおもてに通され、二十一歳の親王は相好を崩して迎え出てくれた。やはり帝の御兄君ではあるが、すましたままの帝とは大違いだった。

 なにしろ母は紀家の業平の妻の叔母の静子で、業平とは縁続きである。つまり妻の従弟いとこであり、兄弟は多くても斎王の恬子とは二人きりの同腹の兄妹だった。かつては業平の妻のいる紀家の北の対に住んでいた惟喬親王だから業平とも初対面ではないが、二人だけで対座するのは初めてだった。

 恬子からくれぐれも兄を頼みますといわれた業平だけに、恬子を想うあまり真っ先にここを訪ねたのだ。

「妹は、いかがしておりましたか?」

 やはり気になるのは、そのことだろう。伊勢の勅使が帰洛の足で訪ねてきたというので、親王もその話を期待していたに違いない。

「息災でおりました」

「そうですか」

 嬉しそうに、親王は何度もうなずいていた。

「さ、さ、佐殿すけどの、中へ、中へ」

 端近に控えていた業平は、親王によって身舎に招きいれられた。女房の手で、素早く円座が敷かれる。それに業平は座した。

「斎王様とは親しくお話を頂戴し、宮様のこともよろしうにと私めに託しておいででした」

「おお、妹がそんなことを」

 遠い伊勢の地からも自分のことを気遣ってくれる妹に、親王は目を細めていた。その姿を見て、業平は一種の羨望を覚えた。

 業平には男兄弟は多くても、姉や妹は同腹異腹合わせても一人もいないのである。兄妹のようにして育った幼なじみの紀家の妻は、今では隙間風ひっきりなしだ。

 だからその妻の妹に実の妹に対するような情を持った。しかし義理の妹は所詮義理の妹で、御簾越しにしか対座もできない。

 ところが今目の前にいる親王とその妹との間には、同腹の実の兄妹でありながら御簾どころか都と伊勢という大きな距離的隔たりが立ちはだかっている。

「そうですか、息災でしたか」

 だが、親王は会いたいとは言えない。斎王が都へ戻ってその兄と再会できるのは、斎王自身の不祥事か身内の不幸が前提となるからだ。

「伊勢とは、どのような所ですか」

 せめて自分の妹のいる土地を知っておきたいと、親王は思ったのだろう。業平はそれに応えてかの地の清々しさ、神々しさなど、見て来たままを告げた。

 そこへ女房が、酒を運んできた。

「さ、ご一緒に。佐殿はお身内ですから」

 そう二十一歳の若者は言う。まだ日は高かったが、業平はその言葉に甘えることにした。業平自身酒は嫌いではないが、親王の飲みっぷりのよさには驚いた。やはり若い。その若さがまた、業平には羨ましかった。

「いいですなあ。お若いとは。宮様はご機嫌も麗しく」

 親王の杯を運ぶ手が止まった。その眉間には、しわが寄っている。

「私はここ数十年、機嫌が麗しかったことなどありませんよ」

 声までが低くなっていた。業平の血の気がさっと引いた。言ってはいけないことを言ってしまったのかと、その失言を悔いたりもした。

 伊勢の妹の話には嬉しそうだった親王だが、実は不遇の皇子みこだったのである。もちろんそれは知っていたから、業平は今日はあえてその話題には触れまいと思っていたはずである。それなのに、複雑多感な若者の心情を逆撫でしてしまうようなことを言ってしまった。

 しばらくはばつが悪かった。だが、ここで席を立って帰るわけにもいかない。仕方がないから業平は、黙って酒を飲んだ。親王もそうしている。やがて親王の方から、唸るように、低い声のまま話しはじめた。

「何も私は帝の位がほしかったわけじゃない」

 業平は黙って聞いていた。親王は先帝の第一皇子で、先帝の覚えもめでたく、まぎれもないもうけの君と噂されていた。それが先帝の即位と同時に立太子したのは、生まれたばかりの今の帝だった。兄を飛び越えてである。もし噂どおりにことが運んでいれば、目の前の若者は今は一天万乗の帝だったのだ。

「帝の位はいい。だが、やり方が汚い。今の太政大臣の」

 確かに今の帝の御母君は、太政大臣の娘の染殿そめどのきさき明子あきらけいこである。今上帝の立太子は、太政大臣良房の策略以外の何ものでもなかったろう。

 さらには今上帝どころか、先帝すら良房の力で立太子したという。そのことは世間では周知のことであったし、誰もが仕方がないことと割り切っていた。

 だが、この若者の心の中は違った。恐らく今まで誰にも話したことはないであろう心中の鬱憤を、はじめて業平にだけは語ろうとしている。もう十何年も前の出来事で、その頃は少年であったにもかかわらず、この若者の心にはそれがしっかりと刻みこまれ、深い傷となっていたのだ。

 飲み干した杯を、親王は思い切り床に叩きつけて割った。

「あのぞうは、何から何まで自分たちの利益のために働く! 朝廷おおやけのことも天下国家のことも、論外だ。思うのは自らの一族のことだけだからな!」

 心の底から絞り出されるような声だった。良房の実子は、皇太夫人の明子だけだ。そこで亡兄の子の兄妹を養子と養女にしている。跡取りのための養子と今上帝の加冠の暁の后がねとしての養女だ。すなわち国経と基経、そして業平が死ぬほど恋い焦がれて盗み出したあの高子姫である。

「やってられない!」

 また、親王は唸った。業平は大きく息を吸った。言葉を選ばねばならない。また変なことを言って、親王の感情を逆撫でしてもよくない。

「お気持ち、お察しします」

 恐々と、業平は言った。同情心は確かにあった。だがそれ以上に、このような本来なら青春を謳歌しているはずの若者が、不満と鬱憤の中で悶々としていることが憐れだった。

「そう思ってくださいますのも、佐殿が母のお身内だからこそ」

 幾分落ち着いた様子になったが、それでも親王は声を低くしたままで上半身を乗り出させていた。ここには自分とある意味では似ていて、しかし全く違う人生を歩んでいる人物がもう一人いると業平は感じた。

「お気持ちは分かりますが、しかし私にはなんと申し上げていいか……。私にして差し上げられることが思いつかないのが、心苦しうございます」

 それが業平の、正直な心だった。ところが、急に親王は薄ら笑いを浮かべた。

「何もございません。時折こちらにいらして、酒の相手でもしてくだされば十分です」

 それならお安い御用だ。それでこの若者の気持ちが少しでも晴れるならと、業平は思った。

「承りましてございます」

 つまりは親王は淋しいのだと、業平は痛感した。


 それ以来、業平は時折この屋敷を訪れるようになった。そのたびに深酒してしまう。親王はかなり強いからだ。だが、あんな憤りを見せたのは最初だけで、少なくとも業平と酒を酌み交わしている間は陽気だった。また業平にとっても、心地よいものがあった。

 この親王はあの斎王と母を同じくする血を分けた兄妹である。親王と対座していると、ほんの少しでも斎王との接点を持ち続けているような気になる業平だった。

 業平は自邸に戻っても、侍女たち以外に自分を迎えてくれる人はいない。

 紀家ではその土地屋敷を業平に伝領しようと舅の有常は考えているようで、業平にもそう洩らしたことがあったが、業平にとってあの妻との同居はごめんだった。

 もう一人の妻の直子はその父が右大臣とあっては彼女を業平の自邸に迎えるわけにもいかず、また右大臣邸の屋敷の業平への伝領もあり得ないだろう。その右大臣家の妻も、臨月を迎えた。

 暮れになって、右大臣邸において直子は無事男児を出産した。業平にとっては次男である。

 そして年が明けた。この年は元旦から積雪を見る大雪だった。

 その雪の中、帝の加冠の儀が執り行われた。業平も五位の殿上人として、それに参列していた。この日、業平にとっては年下の義兄に当たる右近衛中将常行は、すこぶる上機嫌だった。帝の加冠の添伏に選ばれたのは太政大臣サイドの高子ではなく、右大臣良相の実の娘――すなわち業平の妻の直子や常行の実の妹である多美子だったのだ。

 右大臣家がついに太政大臣家を出し抜いたことになる。

 帝の御元服によって仮の摂政としての役目は終わった太政大臣良房の爪弾きの音が聞こえてきそうな雰囲気ではあったが、惟喬親王にとっては愉快なことであった。恨みの人がくやしんでいるからである。

 続いて帝の御祖母の皇太后順子したごうこは太皇大后に、御母君の染殿の后明子あきらけいこは皇太夫人から皇大后になった。

 これで多美子が中宮に冊立されれば、兄弟の政争は弟の良相に軍配が上がることになる。だが、良房にもまだ高子たかいこという持ち札がある。まだまだ予断を許さぬ状況だった。

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