第2話

 外で人の気配がした。咳き込む声もする。

 業平の目がぱっと開いた。さらにその咳声は男のものではなく、小さな女の子の声のようにも聞こえる。もしやと思って業平は、跳ね起きて格子を内側から上げた。

 ほんの少しだけ欠けたとはいえ、ほとんど満月に近い月が中天にあった。

 時刻はの刻に近いようだ。その月明かりの中に、人影が見えた。

 童女を前に立たせて、女がいた。女はゆっくりと、業平に近づいてくる。月の光に照らされ、はっきりと顔が分かった。その服装からすると斎王だ。顔を隠そうともしない。

 業平は身をすくめた。全身が凍りついて身動きができない。呆然とした表情のまま、かろうじて少し身を引いた。

「狐か……はたまたものか」

 業平が思わずつぶやいた時、またクスッという笑い声が聞こえた。まぎれもなくそれは、昼間に聞いた斎王の笑い声そのままだった。

「狐なんかじゃありませんよ」

 斎王はもはや斎王としての威厳は影をひそめ、一人の若い娘である恬子やすんずこ内親王に戻っていた。

 しばらくして業平はやっと我に返った。本物の斎王なら、いつまでも庭に立たせておくわけにもいかない。斎王であると同時に、先帝の皇女ひめみこの内親王で、今の帝の姉である。とにかく彼は恬子を中に入れた。

 戸が閉められた。童女は帰したので、中は二人きりだ。業平は灯火を灯した。

 なんと、このような身分の女性と御簾の隔てもなく、まるで妻か同母の姉妹のように直接、しかもこんなに近くで対座している。もう業平はこちこちに緊張していた。

「急に、しかもこんな時刻に申し訳ありません。でも、やはり直接お聞きしたかったのです。母は達者でおりますか?」

 思ったより斎王恬子は饒舌だった。

「はあ」

 むしろ業平のほうが身を固くし、緊張の余り無口になってしまった。恬子を上座に据え、業平自身は両手を床について畏まっていた。

 普段なら絶対にあり得ない状況だ。

 夢ではないかとも思う。いや、夢に違いないと業平は確信した。それほどまでにこの状況は、現実感が乏しかった。

「都も変わりましたでしょうね」

「相変わらずですが……」

「伯父君のお屋敷の梅は、今でも毎年咲きますか?」

 伯父とは紀有常のことで、その屋敷とは恬子もかつて暮らしていたあの紀家である。とにかく恬子の話の内容は、都のことばかりだった。

 目の前にいるのは斎王でも内親王でもなく、恬子という一人の女だと業平は感じはじめていた。神に仕える斎王とて人間だ。そして、女だ。しかもこの女は、人一倍都への執着が強いらしい。都への執着は断つべき立場なのにと訝しく思い、それが業平の顔に出てしまったらしい。

「都が恋しうては、いけませぬか?」

 恬子の方から、業平が問われてしまった。

「い、いえ」

「ですよね。私は出家して髪長(尼)になったわけではありませんから」

 確かにその通りだ。そもそも執着という概念自体が、斎宮の境遇と相反する仏道の考え方である。さらに、仏弟子の尼僧は自らの意志で現世への執着を断つが、斎王は自分の知らないところで勝手に卜定ぼくじょうされた。嫌だと言えるような状況ではない。

 やはり目の前にいるのは、一人の女だと業平がもう一度感じた時、ふと彼に魔がさした。恬子の香の香りが、業平の理性をくすぐる。そして、手を伸ばせば届く距離に恬子はいる。

 密室で男女が二人きりになっているのだ。その髪に触れ、肩を抱き、引き寄せれば、自分の胸に飛び込んでくるだろうか、それとも……。

 そんな業平の妄想を断ち切るように、恬子は屈託なく微笑んでいる。とてもその心の領域には入り込めそうもなかった。

 そのような業平の邪心の前では、やはり恬子は斎王であった。神聖なる禁忌が御簾はなくとも高い壁となって、こんなにも近くにいる二人の間に立ちはばかっている。それはあの皇大神宮で感じた威圧感と同種のものだった。

 業平の中に生じた魔性は、たちどころに消滅した。もっとも、斎王がこうして男と御簾も隔てずに対座していること自体が、十分に禁忌を犯している。

 どのくらい時がたったのか、その間業平は夢の中の世界を浮遊しているような感覚に襲われていた。すると突然、恬子の方から、

「人目につくと困りますので、このへんで」

 と、辞去する旨が伝えられた。

「それから、兄と懇意にして差し上げて下さいましね。兄もかわいそうな人ですから」

 恬子の最後の言葉はそれだった。恬子の兄――すなわち惟喬これたか親王である。先帝の第一皇子でありながら立太子できず、結局弟君である今の帝に皇太子の座を奪われた。もし惟喬親王が立太子していたら、今頃は帝になっている。業平の妻の叔母である静子も、今頃は国母だ。

「分かり申した」

 それだけ言って、業平は恬子を送り出した。


 あとは寂寞感だけが残った。まるで世間とは立場が違う。

 男を送り出した後に残った女はこんな感覚なのかと、男が体験し得ないことを業平は体験した。それにしても、結局今のは何だったのかと業平は思う。

 ――神のいさむる道ならなくに――そんな歌を自分で送っておいてである。

 恬子は斎王というだけでなく、妻の従姉妹いとこでもある。しかし、そのようなことは言い訳にはならない。恬子は紀家の妻の従姉妹であるが、もう一人の右大臣家の妻の従姉妹があの高子だ。

 しかし、高子の時は前後の見境もなくなるような情熱があった。あの時も決して若いとはいえない年齢になってはいたが、今よりかはまだ若かった。たった数年で、業平は若さゆえの情熱を失ってしまっていた。

 それでもまだ心が熱いのは事実だ。まるで初めて恋をした青年のように、胸がしめつけられている。

 しばらくは放心状態だった業平だったが、とにかく眠るしかない。業平は再び寝床に入った。だが、眠れるものではない。まるで今までの時間が、ほんの瞬間の夢だった気もする。いや、今でもまだ夢の続きの中にいるような状態だ。それなのに眠れないというのもおかしなことだった。

 とにかく不思議だった。

 結局、斎王は何をしにきたのかと思う。純粋に自分の歌に答えて、ほんの外交辞令で来たのか……それならあまりに短絡的な女だ。

 あるいは斎宮頭のように、都恋しさのあまりからか……業平は自分の年齢を考慮に入れ、それが妥当かもしれないと思った。自分は所詮彼女にとって、懐かしい都から来たおじさんにすぎなかったのかもしれない。

 しかし、男と女が深夜二人きりで同室していること自体が禁忌を犯しているのだし、何があってもおかしくない。いや、何かある方が自然だ。それなのに恬子は来た。

 だが、何もなかった。恬子は身内としての実の兄に対するような感覚で、業平を信頼しきってやって来たのだろうか……あるいは、本当の実の兄の惟喬親王のことを業平に託すのが真の来意だったのか……それなら、何もわざわざ禁忌を犯す必要はない。

 とにかく、ついさっきまでこの部屋に斎王がいた。それだけで胸が熱くなる。そして余計に寂しさがつのる。

 業平は大きくため息をついた。そしてとうとう一睡もできないまま格子の隙間から朝の光が差し込んできてしまった。

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