第6章 芥 川(あくたがわ)

第1話

 人の気配がした。それで業平はわれに返った。

 考えてみるとここは、西ノ対こそ空き家になっているが寝殿は今でもれっきとした太皇太后の御所なのである。

 しまったと思ったときは、庭から衛士が二人ばかり業平の方に向かって歩いてきていた。だが、咎めるような風ではなく、衛士の態度は慇懃だった。

大后おおきさき様のお召しにございます」

 業平は一瞬どうしようかと迷ったが、逆らえるような状況ではない。庭に下りて衛士とともに寝殿の方へ歩いていくと、さすがにそこは現役の御殿であるだけに庭にも手入れが行き届いていた。

 業平は庭先に畏まった。もはや彼は殿上人ではない。庭は煌々とした篝火に照らされていた。

 簀子すのこには家司けいしがいた。一度は下ろされていた格子も上げられ、御簾みすの向こうには明かりも灯されていた。

 だが、太皇太后順子したごうこらしき人影は見えず、御簾のすぐ内側には一人の女官がいた。

 その女官が御簾越しに、家司に何やらささやいた。家司は業平の方を向いた。

「在原右近衛将監殿とお見受けする」

「いかにも」

 家司はまた御簾の中の女官にささやき、女官は立って奥へ入っていった。その奥の几帳の向こうに、太皇太后はいるらしい。先帝の生母で、今の帝のご祖母に当たる人だ。

 しばらくしてまた御簾の中の女官のささやきを受けた家司は、業平に言った。

「簀子を許すとの仰せである」

 業平は立ち上がり、正面の階段きざはしから簀子へ昇って御簾の前に座った。夜なので御簾越しでも、中は丸見えだ。女官たちによって、端近に几帳が立てられた。そこへ奥から顔を隠した貴婦人が現れ、几帳の向こうに座った。明かりを背にしているので、姿こそ見えないが人影は分かる。

「将監殿、直答を許します」

 年配女の声が飛んできた。太皇太后の肉声だ。業平はひれ伏した。

「ありがたき仰せ……」

「そなたは我が弟良相の、右大臣家の婿ではありませんか。いわば義理の甥。人づてなどいりませぬ」

「は、して、何ゆえみどもを……」

「我が姪、染殿の高子たかいこと契られたそうな……」

「いえ、それは……」

 契ってはいない。だが、信じてはくれまい。一晩語り明かしただけだなどと言っても……。噂はここまで広がっていたのだ。

「あっ」

 思わず業平は声を上げた。今、確かに太皇太后は高子たかいこと言った。これが、あの姫の実名であるようだ。

「高子はここにはおりませぬよ。染殿の后が里に下がらせて、ひどく折檻して蔵に閉じ込めておるとか」

「そんな」

 自分のせいで、姫がそんな目に遭っている……業平は絶句した。姫は何ら悪いことはしていない。

「そのことを、せめてお知らせしようと思いましてね」

 太皇太后の真意は分からない。だが太皇太后は、あくまで右大臣側の人間ではある。同じ側の自分に、悪意はあるまいと業平は思う。

 それにしても、今の姫の境遇には胸が痛む。しかし、姫の居所は分かったし、それよりも何よりも、業平ははじめて高子という姫の実名を知ることができたのだ。


 その太皇太后は、春たけなわの頃に出家入道し、東五条邸は太皇太后の姪である皇太后明子あきらけいこに譲られた。業平より二つ年下の明子だが、その皇太后の従妹で今は義理の妹ともなっているあの姫――高子もともに東五条邸に移ってきた可能性もある。

 業平の想いは、ますますつのった。しかし今は、なぜか自制してしまう。自分のせいで、姫に迷惑をかけてしまったのだ。姫に対して済まないとも思うし、またこのような行為を続けていては自分も自滅してしまうのではないかという危惧もあった。

 もっとも、宮廷での官職など、彼にとってはどうでもいいことである。たとえ無位無官になったとて、それは一向に構わない。むしろその方が気が楽だ。

 ただ、彼は歌詠みである。歌以外のものに煩わされたくないというのが彼の信条であったはずなのに、今では恋に惑わされている。

 これではいけないと業平は思った。

 思うのは頭だ。理性だ。気がめいって、歌詠みとしての自分すらだめになってしまうのではと彼の理性は懸念する。やはり、無鉄砲な若者のようにはいかない。

 だが、感情がそれに反旗を翻す。姫が好きだ。どうしようもなく好きだ。恋をしている。このような感情さえなければ、平穏無事に平和な日々を暮らしているのにと思う。

 当たって砕ける玉砕の道も断たれた。今の状況は周りによって作られたもので、姫から拒絶されたわけではないから砕けたとはいえない。

 姫のことは忘れよ、あきらめよと理性は指示する。

 それに感情は抗う。

 自分ではどうしようもない。あとは神にすがるしかない。

 そこで業平は陰陽師おんみょうじに頼んで、鴨の河原で「恋せじ」というはらいまでしてもらった。こんな自分の心を止めてほしいと、神頼みしたのだ。だがそれがかえって姫を意識させ、姫への想いを再燃させることになってしまった。

 

  恋せじと 御手洗川みたらしがわに せしみそぎ

    神は受けずも なりにけるかな


 業平はそう嘆息する。神などあてにならない。少しも助けてくれない。こうなったら自分で考えるしかない、そして自分で行動を起こすしかないと業平の心は焦った。

 またもや実行力が再燃した。夜に東五条邸に行ってみた。

 ところがやはり西ノ対は無人だった。姫はここには移っていない。今でも太政大臣の染殿邸で、皇太后明子によって蔵に監禁されたままなのかもしれない。

 しかし、いくら何でもと業平は思う。姫を染殿邸の蔵に閉じ込めたまま、皇太后が自分だけこの五条邸に移ってきたとは考えにくい。もしやと業平は、西ノ対の北側にある蔵ばかり並んでいるあたりに行ってみた。

 案の定、明かりが漏れている蔵があった。声をかけてみようとも思ったが、もし蔵に姫がいたら、自分がこんな蔵に閉じ込められる原因になった男の来訪など快く思わないだろうと、業平は声をかけるのをやめた。しかし、黙って引き下がるのも後ろ髪を引かれる思いだった。

 そこで、懐から笛を出した。蔵はほとんど敷地の隅の、築地塀沿いに建っている。ありがたいことに、ちょうど塀の破れもその近くにある。業平は一度東洞院大路に出た。四条大路との四辻だ。邸内で人に見られるとまずい。今やこの屋敷は太皇太后順子のものではなく、舅右大臣の政敵の太政大臣良房の娘の皇太后明子のものなのだ。しかし、大路でなら何をしようと自由である。

 業平は大路で笛を吹いた。その音色は、築地の中の蔵にいる姫にも届いているはずだ。

 ひとしきり吹いては、その夜は帰った。

 そして次の夜も、その次の夜も、夜な夜な同じ場所に来て業平は笛を吹いた。

 一度きりなら、蔵の中の姫も酔狂なものが路上で笛を吹いているくらいにしか思わないであろう。しかしそれが度重なれば、笛を吹いているのが誰か分かってくれるはずだと業平は期待した。

 とにかく彼は、毎晩通った。そして、笛を吹き続けた。それが今、彼にできることのすべてだった。想いの限りを姫にぶつける手立ては、これ以外には思いつかなかった。

 夜更けまで笛を吹き、深夜に帰宅する。そのような毎日が、半月以上も続いた。


  いたづらに 行きては来ぬる ものゆゑに 

    見まくほしさに いざなはれつつ


 そんな歌も詠んだ。そのうち彼は、いつまでもこんなことをしていてはだめだと思った。

 だんだんと、そしてひしひしと、心の中である考えが芽生えて、計画という形に具体化していく。もはやそれを実行に移すしかなかった。その計画のことを思うときだけ、彼の心は安らいでいた。

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