第3話

 時には気分を変えて、業平は紀有常邸にも出向いてみた。業平が新たに右大臣家の婿になったことについて、舅の有常は表立っては何も言わなかった。二人の舅は、身分が違いすぎる。

 有常邸は普請の最中で、たくみが出入りして騒がしかった。空き家になっていた隣の業平の生家はずっと業平の母の伊都いと内親王に所有権があったが、最近になってその地券が有常に譲られたのである。有常が業平の舅であるよしみであろう。

 有常は二つの土地を合わせ、二分の一町に邸宅を増築し、今まで西ノ対しかなかった屋敷に東の対と北の対を設けることにしたという。

 決して裕福になったからではなく、必要に迫られてのことであった。近々、有常の妹で先帝の更衣だった静子しずけいこが、宮中より下がってくる。

 彼ら兄妹の父の紀名虎きのなとらは十二年前に亡くなっているから、三条町の更衣といわれた静子が下がる里は兄の所しかない。

 また、静子は二人の子の惟喬親王と恬子やすんずこ内親王も伴って来ることになっている。

 つまり、今後は親王家、内親王家となるわけだから、それなりの体裁を整えねばならない。

 この屋敷にはほかに、業平の妻の妹たちがいる。それぞれが一人前になって婿を取り、子供でも生まれたらどうしても手狭だ。有常のもう一人の妹の種子ううこは陸奥按察使だった藤家の富士麻呂の未亡人で、その忘れ形見とともに亡父の旧宅を守っている。

「いやはや、目が回るような毎日でね」

 それでも、有常は愛想がよかった。一日中槌音でかまびすしい西ノ対にいる妻の様子も、相変わらずだ。業平はそんなよそよそしい妻の顔ではなく、息子の顔を見に西ノ対にも渡った。しばらく見ない間に、息子はまた一段と成長していた。

「父上。新しい北の方を迎えられたそうですね」

 もうそのような生意気な口をきく。業平はその息子の母を気兼ねして焦ったが、妻は平然としていた。

「在原家のご子息が茶々丸だけではお家の一大事でしょうし、殿は若い女子おなごもほしいでしょう」

 業平が耳にした妻の言葉はそれだけだった。相変わらず気位が高く、庶民の女のような嫉妬などかけらも見せなかった。

「あの井戸も、壊されてしまうのだね」

 妻は答えもせずに、黙って目を伏せていた。


 やはりこの日も業平は、夕刻前にはこの屋敷をあとにした。そしてその反動で、その夜は西三条の右大臣邸の妻のもとに彼は行った。この日あらためて驚かせられたのは、こちらの妻の宮中の動向に対する博識ぶりだった。さすがは右大臣の娘である。誰が何をして、何がどうなったのかを実によく知っていた。

 そのわけは単に右大臣の娘だからということにとどまらず、彼女は紀家の妻とは違って深窓の令嬢ではなかったことにもよる。染殿の后、すなわち帝の生母の明子皇太后に仕えていたのだ。だから変な気位の高さもない。

 その妻によると、宮中は今や帝一代に一度の大嘗祭の準備でごった返しているという。神米を供する悠基ゆき国、主基すき国も卜定ぼくじょうされ、当日に向けて慌ただしく宮中は動いているということだ。

 本来ならそのようなことは、宮廷官人である業平の方がよく知っていなければならないことであったが、妻からはじめてそれを聞いた業平にとっては全く別世界ことのようでもあった。

 そんな宮中の動きとは関係なく、自分の日常は過ぎていく。そしてまた気が重くなる。大嘗祭ともなるとまたもや出仕せねばなるまい。どのような口実も許されないであろう。

 煩わしい、面倒臭いと気がめいる思いだ。

 彼は五位である。代替わりの殿上人の一新にもなんとか再選された。だが官職は地下じげの六位相当の右近衛将監である。そのような世俗のことはどうでもいいとは思うが、心の片隅にばつの悪さがないといえば嘘になった。

 紀家の方にも、宮中とは別の慌ただしい動きがあった。ようやく邸宅の増築も終え、有常の妹の更衣静子とその二人の子である親王と内親王が移ってきた。ところがその直後、当の恬子内親王が伊勢の斎宮に卜定された。ちょうど父である先帝の喪もあけた頃であった。


 大嘗祭の当日がきた。やはり業平は出仕を命じられた。命じたのは上司である右近衛少将の常行で、今や上司というだけでなく年はずっと若くても業平の義兄になってしまっている。逆らうことはできない。

 ただ面倒なだけの宮中警護なら、業平はどんな口実を作ってでも逃げ出したであろう。だが、一つだけある楽しみが、いやいやながらも彼の足を宮中に向けさせた。それは、大嘗祭の最後を飾る豊明とよあかり節会せちえだった。

 毎年その年の新米を神明に供し、また最初に天皇が食す儀式として新嘗祭が行われるが、大嘗祭とは帝の御即位後の最初の新嘗祭である。本当は昨年がそうだったが、先帝の諒闇(喪中)だったので今年に先送りされた。この大嘗祭を行ってから帝ははじめてスメラミコトとしての神霊を吹き込まれ、現人神あらひとがみとならせ給うのである。

 例年の新嘗祭は三日で済み、三日目が豊明とよあかり節会せちえだ。だが帝の一代に一度の大嘗祭となると豊明の節会の前に悠紀節会が一日、次に主基節会が一日あり、一連の行事が始まってから五日目が豊明の節会となる。

 しかし唯一の楽しみだからといって、業平は酒を飲んで浮かれているわけにはいかない。彼には緊張が強いられる。行事への参加は彼にとって、警護という任での勤務なのだ。

 豊明の節会は大極殿のある朝堂院の西隣の、豊楽殿で行われる。朝堂院を少し小振りにしたスペースだが、朱塗りの柱に緑の瓦屋根の堂々とした漢風建築だ。中央の豊楽殿は入母屋二層の大極殿と違って一層の寄せ棟造りで、そこに幼帝はお出ましになる。

 日も高くなりつつある昼前から、行事は始まった。まずは廷臣の叙位と宣命の朗読がある。それが終わってから饗宴となる。だからといって業平たち近衛府の役人の任が終わるわけではない。武装して整列し、宴を楽しむ人々を微動だにせぬ姿勢でよそ目に見ていなければならない。

 将監である業平は、一応は雑兵たちを指揮する役だ。だが、その心は空白だった。宴に興じている人びとは、自分にとっては別世界の人だと思っていた。だから傍観も相俟って、そのまま無表情の姿勢で立ち続けることができた。

 中央の舞台では吉野国栖奏、久米舞、古志舞、さらに悠紀主基両国の風俗舞が続く。どんなにきらびやかな珍しい衣装をつけていたとしても、男の舞などに業平は関心はなかった。将監という兵卒を指揮する役柄上、業平はかなり舞台に近いところに立っていたが、舞は視界に勝手に飛び込んでくるというだけで、意識して見てはいなかった。

 すると人々がざわめきだし、場内の空気が変わった。風俗舞が終わり、いよいよ圧巻の五節の舞だ。このために豊明の節会の存在意義はあるといっても過言ではない。

 舞姫が参入した。四人の舞姫は着飾って、舞台の中央へと進む。それを見て業平は、息を呑んだ。

 これがなければ、こんな任務はやっていられない。

 業平だけではないだろう。そこにいた誰もが胸をときめかせ、静まりかえって舞台を凝視していた。舞姫四人のうちの二人ないし三人は、公卿の娘である。侍女やはしためは別として、自分の肉親でもないやんごとなき身分の若い娘の顔を、白昼の明るさの中で直に堂々と見ることができるのは、彼らにとってこの時をおいてほかにはない。禁忌を冒しているような気分に誰もがなり、それだけに人々にエロティックな興奮を起こさせるのに十分だった。

 袖が振るわれる。扇が動く。ゆっくりとした旋律に乗ったゆっくりとした舞だ。男たちの視線は、舞台の上に釘付けとなっていた。

 その四人のうちの一人と、業平は目が合った。

 その時……

 はっきりとしたドキッという音とともに彼の胸は瞬時に破裂し、頭の先からつま先まで一気にしびれが走った。全身が硬直し、口だけがぽかんと開けられた状態だった。もはや彼の周りには誰一人として人間が存在しないかのようであり、自分と舞姫の中の一人だけがこの世界にいるすべてのように感じられた…………二十年も前に恋い焦がれた対象が今、舞台の上で待っている。あの春日野で見た少女がまぎれもなく今、目の前にいる。

 もっとも彼に冷静さは少しは残っていて、あの頃の春日野の女は今では中年になっているはずであり、目の前で舞っている舞姫ではあり得ないことは理性では分かっている。分かってはいても、今の彼の心は二十年前の春日野にあった。

 恍惚の中で、音楽は流れていった。

 舞が終わる。

 舞姫は行ってしまう。

 とどめたい。叫んで引き戻したい。しかし依然として彼の体は、硬直したままだった。

 解斎の和舞も終わって、帝も還御あらせられてから場はお開きとなった。

 業平はすぐにでも、舞姫の控えの場に忍んで行きたかった。だが、彼の任はまだ終わっていない。むしろそのように舞姫の控えの場に忍んで行こうとするような者から舞姫を警護するのが、近衛府の役人の役目である。彼はまだ職務に忠実すぎた。その日は、何事もなく帰宅した業平だった。

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