第参話 ただいまを言うために

「神書。それに、天帝の神意が託されるという言い伝えだ。だから俺は、それに次の大王の名が記されていると思った」

「はええ」


 一気に巻物の価値が跳ね上がってしまった。わたしは神書もどきを自分からちょっと離しつつも指先で慎重に持ち抱える。

 うん、こんな厄介そうな代物は一刻も早く適切な人物の元に置き逃げしたい。わたしが一ミリでも関わったことは、三千世界からさっくりまるっとデリートする方向性でどうだろう。


「でも、偽物だよね? だって神意託されてないし。それか、神様ってばうっかりミスしちゃった? 神様なのに」


 篝は肩を竦める。みろくの娘とやらは、百年以上前に現れたきりということだから、篝もそんなことを聞かれたって知らないだろう。

 わたしとしては、神様のうっかりミス説じゃなくて、偽物説を推したい。完全に無関係なモブに徹したい。


「ん? でもなんかおかしくない? みろくの娘が百年現れてないってことは、 今の大王って百歳以上なの?」

「いや、そういうわけでもないんだ。みろくの娘が顕れる前に当代の大王が崩御した場合、次代の座は直系の男子に継がれる」


 なるほど。

 ってことは、これが偽物だったとしても本物だと思い込むような人が出てきたら、すごく厄介なことになるんじゃないだろうか。今の大王の手の者とかにつけ狙われるパターンだよ、絶対。


「ミチはそれをどうする気?」


 はじめて、篝の声に影が落ちたような、そんな気がした。折よく日が翳って、篝の端正な顔がうす暗い斜影のなかにすっぽりと包み込まれて見えなくなる。

 篝は、ホームレスと言っていたし、男たちに暴力を振るわれていた。たぶん、この八嶌ではかなり苦労しているタイプの人だと思う。

 だから神書が手に入ったら、もしかしたら篝の世界はがらっと変わるのかもしれない。次の大王の側近になれちゃったりするのかも。

 わたしは目を伏せて、できるだけ篝の顔を見ないようにする。彼の目は見えなかったけど、なんとなく彼がわたしに望んでいることが分かってしまったような気がした。


「どうって……わたしには関係ないから、いるならあげるよ」

「あげるって」


 篝はそれきり絶句してしまった。

 だけど、わたしにはこの神書もどきの価値が分からないし、この国の住民でもなんでもない。仮にこれが本物の神書なのであれば、わたしが持っているのってなんかおかしいと思う。

 だっていきなり日本にやってきた宇宙人に、お前の国の王様をこいつにしろ、とか言われてもなんかヤダ。何様? って思っちゃう。

 わたしはこの八嶌国にとって、宇宙人と同じだ。

 だったらせめて、この国の一住民である篝の手元にあった方がまだ健全なんじゃないだろうか。


 もっとも、理由はそれだけじゃない。篝がもしこの場で豹変して、この神書を奪おうとしてきたら結構立ち直れないレベルで凹んじゃうと思う。だから奪われるよりは自分から差し出した方がマシかなっていう後ろ向きに前向きな思惑も実はあった。


「わたしは帰れればそれでいいよ。篝いる?」

「……いや、俺もいらない」


 その返事に、わたしは拍子抜けした。


「……欲しそうにしてたのに」

「俺は、大義名分や次の大王が誰になるとかはどうだっていい。面倒だしな。目的は別にある」


 目的。わたしは生唾を飲み込んだ。

 たぶん、さっき言ってたやつだ。今の大王の連中を殺すとかどうとか。

 この国のことはよく知らない。だけど、大王って曲がりなりにも天帝から択ばれているらしいから、そんな存在やその周辺の人々に盾突いたりするのはとんでもなく危険なんじゃないだろうか。


「今の状況じゃ連中に近づくことすらできない。だから簒奪を狙ってる他の奴らが神書の存在で勢いづいて、帝都を攻め落としでもしてくれれば好都合だ」


 物騒な思惑を披露しつつも、篝の眸は澄み渡っている。

 たぶん篝には名誉欲とか金銭欲とか権力欲なんてものはまるでなくて、ただ純粋に大王だかその周りの人たちを殺したいのだろう。殺人欲求を抱いているひとに純粋って言葉を使うのが正しいかは置いておくとして。


「ねえミチ、俺と手を組まない?」

「……篝と?」

「俺の望みは今言ったとおりだ。そのために神書を利用したい。でも白紙の神書だけじゃ誰も焚きつけられてはくれない。だからみろくの娘がついてきてくれれば大助かりだ」


 まあわたしが本物のみろくの娘とやらなわけないんですけどね。ようはみろくの娘っぽい年頃の娘がくっついてたら箔がつくってことだろう。

 篝の主張は即物的で分かりやすかった。

 彼はそれから、一方ミチは、と言葉を続ける。


「元の国に帰る方法が知りたい。大王の居城にはいにしえの書物があるそうだ。だからもしかすると、ミチの帰る方法も見つかるかもしれない」


 たしかに、今までにもみろくの娘がこの国に顕れてきたというのなら、彼女たちが元の世界に帰った方法だって記録されている可能性はゼロじゃない。そしてみろくの娘が大王即位のキーマンだというのなら、みろくの娘の情報は大王周辺に転がっていると見るのが自然だろう。

 そして異邦人のわたしひとりじゃ、そんなところに逆立ちしても辿りつけないのは目に見えている。

 利害関係はたしかに一致していた。

 でも、篝が言っているのはつまり。


「これが本物の神書だって嘘ついて、みんなを騙すってことだよね?」

「真偽はさておき、白紙ではないように見せかける。ミチの言うとおり、周りの奴らを欺くっていうのは確かかな」


 いやいやいやいや。

 そんなさも簡単なことのように言わないでほしい。


「それって……バレたらやばくない?」

「まあね。だけど奴らが欲しがっているのは、あくまで大義名分だ。大王をヤッちまえばこっちのもんさ。大王を殺したがってる奴らはこの国にはごろごろいる」


 ……横槍を入れるようだけど、ヤッちまえばってナチュラルに物騒ですね、篝さん。あんまりナチュラルに殺人宣言をなさるから、正直わたし、どういうふうにそれを受け止めていいか分かんない。それともこの国の殺人の観念って日本とまったくちがっていたりするんだろうか。だからってわたしのなかの抵抗感に整理がつくわけじゃないけれど。

 それはさておき、薄々勘づいていたけれど、今の大王の治世はよほど酷いもののようだ。一応神様が選んだ大王の子孫なのに、そこまで反乱分子がいるなんて相当だろう。

 神様が万能じゃないのはどこの世界も一緒らしい。どうせなら聖人君子みたいな家系を選んでくれればいいのに。それか大王が亡くなるたびに択び直すとか。融通の利かない神様だ。


「ミチはただ、帰る方法を見つけてくれた者に神書を渡すと言えばいい。不安なら俺が預かる。それで誰かに神書を渡す段になったら、俺が適当な人間の名前をそこに書いたってかまわない。ミチが嫌なことはなにもしないでいい」


 それはめちゃくちゃ福利厚生が手厚い。

 たまたまわたしが神書もどきを持ってる異界人だったってだけなのに、ここまでしてもらえるのはなにか裏を勘繰りたくもなる。

 だけど、篝の言葉に嘘はやっぱりない気がする。元々根がやさしいっていうのもあるだろうけど、それ以前に大王周辺に凄まじい恨みがあるのだろう。だからその恨みを晴らすためなら、篝はなんだってするのだ。

 ひとりぼっちでこの右も左も分からない異界を渡り歩いて、元の世界に帰る方法を探すよりは、きっと篝の執念にタダ乗りするほうがずっと効率がいい気がする。

 人を騙すなんて正直胃が痛い。

 でも異世界に転移したところで不思議なミラクルパワーが宿ったわけでもないし、わたしが持っているのは、自分の身体とこの神書もどきだけだ。それならそれを利用するしかないんじゃない?


 べつに元の日本での生活に狂おしいくらいの未練があるわけじゃない。あそこがわたしの帰る場所だっていう確信もない。わたしはもう、八嶌にくるよりずっと前に、ただいまって笑顔で言える場所を喪っている。

 きっかけは両親の不和だ。今は、離婚協議中。わたしはお父さんともお母さんとも仲は悪くない。というか今となってはあまりに察しが悪くて自分に辟易とするけど、離婚するって聞くまでは、わたしはそれなりに仲のいい家族だって信じてた。

 だけど今じゃ、お父さんはめったに家に帰ってこないわ、外に愛人作ってるわアルコール依存症になるわで酷い有様だし、お母さんはしょっちゅうお父さんの愚痴を言っていて、わたしの学校の話なんか聞いてくれなくなった。

 そんな感じで、しばらく前から、異土の乞食の気分だった。だから若い身空で感傷なんぞに浸っちゃって、文豪の詩なんか漁っちゃったのだ。

 帰ったところで、わたしの帰りたい場所がもう永遠になくなっちゃったことは身に染みて分かっている。幼い頃、安心しきって微睡んでいられた揺り籠はもうどこを探しても見つからない。

 だけど、わたしの十五年間全部があの場所にある。ここじゃない。それにこんな目に遭ったなら、一度死んだ気になって、もっとちゃんとお父さんやお母さんと関係を作りなおせるかもしれない。そんな根拠のない自信だってむくむく湧いてきた。


 だからわたしは帰る。帰るために、この人の手を取る。


「組むよ」


 自分から話を振ったくせに、わたしのささめき声に篝はきょとんとした顔をした。


「篝と組む」


 篝の硬い肉刺と傷だらけの手を取って、わたしは言葉を重ねる。

 まるで幻でないことを確かめるように、篝の指がわたしに絡んだ。


 この人の優しさを疑うわけじゃないけれど、この人を信じていいのかはまだ分からない。正直、得体が知れなくて怖いところもある。

 だけど。


「わたしたち、共犯者だね」


 ほの明るい室内に、秘めごとめいて、わたしの声が響いた。

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