白綴青路 平凡な女子高生ですが、異世界で嘘つきはじめます。

雨谷結子

溟海漂着編

一齣 烏導く神のまにまに

第壱話 物騙りのはじまりは

 それはなんの変哲もない、いつもの帰り道のはずだった。


 つづら折りのひと気のない細い下り坂を、軽やかとは言いがたい足取りで、わたしは一歩一歩下っていく。

 部活の外練のあいだ、コンクリートに溜まっていた茹だるような熱はもう引いていた。眼下に広がる住宅街のずっと向こうの水平線が茜色に染まって夜を手招いている。

 いつも高校から最寄り駅まで一緒に帰っている同じバド部の友人たちの姿はない。スマホを部室に忘れた振りをして、先に帰ってもらったのだ。

 べつにあの子たちが嫌いなわけじゃない。

 だけど、今日はちょっぴり一緒にいるのが息苦しかった。


 不意に、スマホのバイブが振動する。通知を見て、小さく息を吐いた。


「あーあ、もうどっか行きたい。わたしのことなんて、誰も知らないとこ」


 馬鹿げた願望だ。

 高校一年にもなって、こんな現実逃避が本当に叶うなんて思っていない。

 唇を噛むと、部活終わりに塗ったはずのリップクリームがもう剥げかけていて、ぴりっと痛む。

 立て続けにくる通知を無視して、わたしは電子書籍を開いた。


 陰気女子だと思われたくないので友達には内緒にしているが、わたしは実は本が好きだ。

 空想の世界に旅立つと、現実の嫌なことがまるで引き波のように遠ざかる。それは褒められたことではないかもしれないけれど、わたしにはすごく大事なことだった。


 ――そんな逃げ癖が災いしたのかもしれない。


 坂道を下り終えたところでカァ、という聞きなれた声がする。

 つられて顔を上げれば、案の定電線に一羽の烏がとまっていた。

 黒々とした、存外つぶらでかわいい瞳と目が合う。

 烏はわたしの目力に恐れをなしたのかなんなのか、ギャアとかなんとか言って、バサバサ羽ばたいた。

 電線が揺れて、黒い影が横切る。

 弾みで空からひらりひらりと緩く弧を描きながら、なにか黒い物体が落ちてきた。


「……なにこれ? 羽根?」


 茶色いローファーの三歩先に落ちたそれは、青ぐろく輝いていた。

 思わず拾おうとすると、ちょうど吹いてきた風に煽られて、道路脇の方へと吹き流される。


「待ってったら。このっ」


 躍起になって追いかけて、わたしはつんのめった。


「……いったぁ」


 手のひらと膝小僧がじんじん痛む。

 見れば、肩からずり落ちたラケットケースが足に絡みついていた。目当ての烏の羽根は、コンクリートの側溝の上に落ちている。

 そこからすぐ手の届く場所に、わたしは妙な物体を見つけた。


「……巻物?」


 ぱちぱちと目を瞬く。

 なんというか、現代日本ではなかなかお目にかかれない代物だ。

 博物館ならまだしも、こんなどこにでもあるような側溝の傍なんかに読み捨ての週刊誌みたいに落ちているものとは思えない。

 古いものだからか、それとも日光に晒されていたからか、だいぶ色褪せて見える。元の色は、おそらく澄み渡った青色をしていたはずだ。


「ちょっと見るくらい、いいよね」


 誰に言うとでもなく言い訳をして、巻物の紐をほどく。意を決して、えいっと巻物を広げてから、わたしはちょっとがっかりした。

 びっしりと万葉仮名とかそういう心躍る感じの文字がひしめいているものと思っていたが、なんのことはない。ただの白紙だ。


「なーんだ。つまんな――って、え!?」


 わたしは目を疑った。

 突如として、視界に眩いばかりの光が飛び込んでくる。

 もしかしなくても、巻物から放たれている光線のようだ。しかもちょっと熱い。いやちょっとどころではなかった。


「あっっっつ! 熱!? なにこれ火傷!! 火傷するんですけど、ってか死ぬんじゃない!?」


 巻物を振り払ったが、その熱も光の渦も収まる気配がない。

 指先だけでなく、身体全体が真白い光彩に包み込まれていく。皮膚どころか、身体のうちを巡る血液まで、燃えるように熱かった。


「だれか――!」


 周りを見渡してみても、人っ子ひとり歩いていない。

 熱のせいか、焦りのせいか、息まで苦しくなってきた。ひゅうひゅうと、まるで刑事ドラマに出てくる事切れる寸前の被害者みたいな息が生ぬるい大気を引っ掻く。

 ちょっと待って。これは本格的に死ぬ。なにこれ。呪いの巻物? ジャパニーズホラー?

 今度は四方八方から揉みくちゃにされるみたいに、すごい力が押し寄せた。

 やばい、これまじだ。圧死? 圧死する。圧死なんて言葉この十五年間ちょっとの人生で初めて使ったけど。

 わたしは必死になって藻掻いた。

 青嶋あおしまミチ享年十五歳。道端で謎の巻物とともに変死体で発見、なんてニュースの煽り文句が浮かぶ。


 べつにこの嫌なことだらけの人生に執着があるわけじゃない。だけどわたしだってまだ死にたいわけじゃなかった。

 小刻みに震える指先で、わたしはアスファルトに爪を立てた。爪の先っちょが割れる感触がしたけれど、そんなことに構っていられない。

 だけど抵抗空しく、わたしは巻物の方へと吸い寄せられていく。生理的な涙が溢れて、頬を伝う。

 巻物に足が触れたとき、ひと際強い光が溢れた。

 足先からぐにゃりと空間が捻じ曲がり、なにか途方もない、でたらめな力に引っ張り込まれる。

 しまいには、寄せては返す波の音が聴こえてきた。それから鱗粉っぽい光のつぶの幻覚まで。

 こぽこぽと息が泡になって、空に立ちのぼっていく。


 霞む視界の先。暮れゆく空に視えたのは、どこかに行ってしまったはずの、闇を塗りこめたような翼。

 すべてを見晴るかすかのような、深い淵の底じみたまなこ。

 わたしがこの生まれ育った日本で最期に見たのは、ゆったりと旋回する烏の、普通じゃありえない三本の脚だった。

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