M.-1; 空色
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「――もしもし、――あの、……森瀬です」
先の週末に退院したあたしは、自宅に戻って一階に住まう大家さんに自殺未遂なんかしてごめんなさいと頭を下げた。
事情をよく飲み込めていない大家さんは驚いてあたふたしていたけれど、あたしが言ったもう大丈夫ですという言葉に頷いて、抱き締めてくれた。
久しぶりに差した鍵穴は、相変わらず硬くて回すのにコツが必要だった。
締め切られた部屋の中は外気とは違う匂いがして、あたしはすぐにカーテンを引いて窓を開け放った。
コンクリートに囲まれた街並みは決して壮観じゃないけれど、別に悪くは無いかな、という気持ちになった。
そして部屋の中を軽く掃除し、清々しくなった部屋の中央に陣取ったあたしは、意を決してスマートフォンのアドレス帳を捲る。
通話ボタンを押し、コール音が4回鳴り、5回鳴り、6回鳴り――7回目で、その女性マネージャーさんは電話に出てくれた。
「あの、――はい。もう、大丈夫です」
近々話し合うことになった。事務所に出向く必要がある。
あたしはそこで、全てを曝け出して話すことを決めた。その結果、アイドルとして続けていくことが出来なくなってもいい。
でもあたしは、アイドルでいたかった。
もうアイドルは、憧れなんかじゃなくて。
一度放り出してしまった自分の居場所を、ちゃんと迎えに行こうと思った。
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「笑えなくてもいいよ、でも笑えないままなのはダメだ」
話し合いの場に同席したプロデューサーは、熱量を篭めて全てを明け話したあたしにそんなことを言った。
アイドルは、歌えなくてもいい。踊れなくてもいい。笑えなくてもいい。
世の中には、そんな人たちだって沢山いるのだからと。
そして、そんな人たちに、勇気を与えるのも、背中を押してあげるのもアイドルだからだと。
だから、今はそうであってもいい。でも、ずっとそのままではいけないんだと。
「君が変わろうとしている姿に衝き動かされて、勇気をもらう人たちがいるかもしれない。その人たちに対して、君が変わらないままじゃダメだ。変わろうとする経緯や経過が、人の心を衝き動かすけど、それでも結果が伴わないのは依存でしかない。君は、君の姿に勇気をもらう人たちのために、その人たちだけのために、この先ずっと、ずっと頑張れますか?」
「――はい。頑張ります」
週明けのダンスレッスンの場から、あたしの活動は再会することになった。
あたしのプライベートな話――リストカットに自殺未遂、そして家族のこと――をどう表に出すかは、改めて話し合いの場を設けてくれるらしい。そのことに決着がつくまでは、レッスンには参加しても絶対に公表しないことと、そしてあたし自身も口外しないことを互いに約束した。
勿論、すでに話してしまっている人・知ってしまっている人は除いて、だ。
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翌日、活動再開の報告とお礼に、あの病院を訪ねた。
ここだけフローリングの、木目が綺麗で滑らかなテーブルと椅子。児童書がやたら多い本棚に、それよりも多い医学書の数々。
棚に並んだゲームブックは、実はまだ5冊も読み終えていない。
受付の神経質そうなあのお姉さんは、心なしか少し晴れた顔つきだった。何か、いいことがあったのだろうか。そうだったらいいな、と心の中で呟いた。
中庭のベンチに座って、ごめんねとやって来た女医さんとお話をした。
あたしが前向きでいることに、女医さんは満面の笑みで「おめでとう」と言葉を掛けてくれた。
入院費の支払いについては、あたしの遺産相続が完全に終わって、手元にお金が入るまでは待っててくれるらしい。必ずお支払いしますと言ったあたしに、女医さんは「当たり前だから」と笑った。
「それで……エミちゃん、って子のことなんだけど」
結果から言うと、あの日聞いたことと同じだった。
エミ、もしくはヱミ、という、あの白い少女が入院していたという記録はやはり無かったそうだ。
それについてはあの日、相当に喚き散らしたので今は何も発さないままでいようと思っている。
女医さんは、“
あの子は、あたしだけに訪れた幻覚なんかじゃ決して無い。
そもそも、あの子は何だったのだろうという問いは、それ自体に意味はきっと無い。あの子が確かに存在していたんだという記憶があればそれだけでいい。
そして、きっともう会えないだろうけど、でもそれを証明することなど誰も出来ない。
会えたって、いいじゃないか。
一度交わって、離れて、もう一度交わったふたつだ。何度だって、交わっていいはずだ。
だってあたしたちは、もう何度も向かい合った。
感謝を伝え、また検査の日に来ますと告げて、あたしは頭をもう一度下げて中庭を出た。
一応退院はしたけれど、検査のためにあと数回は来ないといけないらしい。
でもそれは、別に億劫でも何でも無かった。
正面玄関で、待ち合わせていたアキと合流する。
あの男の子みたいな女の子だ。退院前に一度お見舞いに来てくれた彼女とは、連絡先を交換し合ってお互い苗字で呼び合う仲になった。
「んで、どうする?」
「うん。ちょっと、行きたいところがあって」
道中、アキは
律儀な奴だな、なんて毒吐いたけれど、あたしはこの友達のことを嫌いにはならないだろうと思った。
アキの自分語りは、実家が空手の道場だったところから始まった。
空手に明け暮れる日々を送った少女は、幼い頃に体格で勝っていた周囲の友人たちがやがて自分を追い抜き、そんな彼らに力で負けるようになったことが悔しかった。
それよりも、背丈が伸びるにつれて周囲から女の子として扱われるようになったことが、ひどく心苦しかった。
そうして段々と、自分という器の内側になみなみと
同じ性を持つ同級生に恋したこともあった。からかわれ、周囲の人間関係が嫌になり、非行に走ったこともあった。
「……もしかして、自分を殺したくなった?」
あたしのそんな問いに、アキは首を振って否定した。
アキが自分の身体と心を受け入れられたのは、空手に立ち返ることが出来たからだった。
空手がその根底に持つ、武力を持たない弱者のための抗戦手段、という理念がアキの心に突き刺さったそうだ。
女性という身で、男性のようには強くなれない身で、しかし強くなりたいと。
弱い者が強くなるための武術を磨きたい、そしてゆくゆくは教えたいと。
今アキが腐らずに奮い立っているのは、そんな理想と出逢えたからだった。
「恥ずっ」
「恥ずかしくないよ。いいじゃん」
アキは鼻頭をぽりぽりと掻き、そっぽを向く。あたしにはその姿が可笑しくて、もう少しで笑えるところだった。今、結構いい感じのところまで行けてたんじゃないかな。
「よく考えたらさ、」
「何だよ」
「例えばだよ?あたしとアキが付き合ったとするじゃん。女の子同士だからデートとか行きたい放題じゃない?」
「アイドルの思考じゃねぇな、それ」
「え、アキってあたしと付き合うの嫌?」
「いや、嫌ってことは、無いけど……」
「はぁ?本気にしてんなよ」
その後であたしは、勿論アキに叱られるんだけど。そういう風に弄るのはよくない、って。
アキだから言ったんだよ、と言ったら、アキはまた照れてそっぽを向き、それは大きな舌打ちをした。
あたしは、やりすぎには注意しようと深く思って謝った。
「着いたっ――」
4月が終わって、あたしは17歳になった。
あたしの名前と同じ英語名を持つ季節。その丘は、やっぱりテッポウユリが咲き誇っていた。
思えばここから始まったんだ。
アリスが白ウサギを追い掛けていなかったら、きっとあたしもあの白い少女を追い掛けはしなかったかもしれない。
でも、あたしはあの日、彼女を追い掛けた。そしてこの場所に辿り着いた。
今日と同じ、宵闇が迫る空の下を、ただ駆け抜けた。
それからの一か月にも満たない日々は、驚きの連続だった。
あの子は二人いたし、結果としてあたしも二人いた。
あたしがゲームブックを完成させるとは思えなかったし、あの子が意外と大人びているなんて思わなかった。
あの子の記憶力には感動したし、それ以前にその悪童めいた様々には心を揺り動かされっぱなしだった。
追いかけっこはまさか二回目があるなんて思わなかったし、
あんな風に、消えてしまうなんて。
そんな日々の締め括りが、あたしからの呪いのプレゼントだ。
酷いものだ。「寂しいなあ」なんて託されたら、手放しようが無いじゃないか。
でもそれは、あたしだけの愛しい呪いだ。
だからあたしは、振り返ったとしても立ち止まらず前に進んでいくことを誓おう。
あれだけ愛してくれたんだ。あれだけ、殺してしまった。
おかげで、もう弱い自分なんていないと胸を張って約束できる。
まだ笑えはしないから、代わりに無様な泣き顔で。
「アキ――ほら、」
彼女は手を
あたしはその空を、指差した。
その影を色濃くさせながら東に延びる紺碧を追い遣って。
ビルの輪郭に切り取られた西の
そんな極彩の夕焼けの真下、咲き誇るテッポウユリは
その中心に、消えそうに白く佇む少女はもういないけれど――。
「――すごいねえ!」
世界をもしも始めるなら、きっとこんな空色だ。
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殺<アイ>されたいコ と 愛<コロ>してくれコ
――――――――――――――overtured.
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