M.-3; 表現

    †  †


 激しい微睡みの乱流が押し寄せて、意識は闇の深い奥底に落ちていく。

 それでも手に握った温みが、あたしの意識をはっとさせた。


「――メイちゃん?」

「……ただいま」


 エミは意識を失いかけたあたしの隣で、あたしの左手をぎゅっと握りながら泣きそうな顔をしていた。

 あたしは自分の濡れた頬を拭って、それからエミの目尻を拭った。


 大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて、そしてエミにも言い聞かせた。


「ありがとう、傍にいてくれて」


 エミは嗚咽を喉の奥に飲み込みながら、小さくこくんと頷いた。


    †  †


 あたしが女医さんに全てを思い出したことを話すと、女医さんは弱々しく頷いて、そしてあたしを抱き締めた。


「生きたい、って思ってくれて、ありがとう」


 あたしを強く抱き締めるその胸の中で、あたしもその身体をきつく抱き締めた。

 何度だって、この抱き締めるという行為を作り上げた功労者に、感謝を贈りたい。


 その日の午後、弁護士さんがあたしを訪ねてきた。遺産相続なんかについて話し合うとのことだった。

 本当はもっと早く来るつもりだったと謝られたけれど、あたしの精神状態を鑑みて女医さんが遅らせてくれていたそうだ。

 翌日には一応、事件性が本当に無いかの確認に警察の人も来ると言っていた。


 そしてあたしは、いつもなら読書に耽ったり、最近だとアイデアノートを開いていた午後の時間に、スマートフォンを起動して動画を見ることにした。

 お披露目会単独ステージで披露するはずだったその楽曲の振り付け動画だ。したイヤホンを両耳に嵌め、何度も食い入るように見続けた。


 女医さんに確認すると、やはり激しい運動はまだ控えたほうがいい、と言われた。

 それでもあたしは、何としてもその曲を完璧に踊る姿を、エミとそしてヱミに見せたかった。

 退院の日は、来週に迫っていた。


    †  †


「そういうことだから、勝手にいきなりいなくならないでよ」


 あたしがそれを宣言すると、ヱミは昨晩のように困ったような儚い表情をした。

 その表情をされるとあたしは途端に不安になってしまう。でも、あたしは見せると決めたんだ。

 エミ、そしてヱミがいなくなってしまうと言うなら。それより早く、見せるんだと息巻いた。


「そっか……そうだよね」

「何が」

「ううん。君は、そうなんだなぁ、って」


 何を言ってるのか分からないけれど、でも納得してくれたならそれでいい。

 あたしはベッドボードに凭れながら、隣であたしに肩を寄せるヱミと一緒に、何度もその振り付け動画を見続けた。


「ねぇ」

「……集中しなよ」

「あのさ、……いつでもいいから、ずっとずっと先でもいいからさ。いつか――あんたが抱えてるものも、聞かせてよ」


 ヱミはあたしに凭れながら、やるせない顔であたしを見上げた。

 だからあたしは、思わずその額に小さくキスをした。

 むず痒くて、それはそれは泣きそうなキスだった。



「――またね」



    †  †


 ダンスは魔法だ。歌も。

 笑えないあたしでも、喜びを表現できる。

 正直、退院までに笑える自信がなかった。全てを思い出した今でさえ、この顔の皮膚の裏で表情筋は強ばって仏頂面を決め込んでいる。

 ただ、笑えないだけ。驚いたり、恥ずかしがったり、嫌がったり、泣いたり、は出来る。ただ、笑えないだけだ。でもそれはどうしても笑えない。

 笑おうとすると泣いてしまうのは変わらなかった。

 本当なら、笑ってあげたかった。もう大丈夫だよと伝えるのに、笑顔がこれ以上ない最適解だ、でも出来ないのだからしょうがない。


 あたしはまだアイドルだ。だから、代わりが踊りだっていい。


 女医さんを説得して、ようやく“激しすぎなければ”という条件付きでOKをもらったあたしは、体力を取り戻すためのウォーキング――あの百合の丘まで――を朝ご飯の前に、そして昼ご飯の後は振り付け動画を見ながら踊り狂った。

 休み休みでも、身体の動かし方をすっかり忘れてしまったあたしはすぐにへとへとになってしまい、10分と動いていないと言うのに膝が笑ってしょうがなかった。

 あたしが笑えないっていうのに、膝は意地悪だ。


 女医さんの言いつけを守るのは、もしまたあたしの心臓の孔が開いてしまったら踊りどころじゃなくなるからで、それでは元も子もないからだ。

 休んで身体の熱を拭い払って、それが完全に消え去ってから、また動いた。

 休んでいる間も、振り付け動画を見ることを欠かさなかった。


 次の日、女医さんにお願いしてブルートゥースで接続する無線式のイヤホンを買ってきてもらった。

 有線のイヤホンだとスマートフォンをポケットに入れざるを得ず、それだと激しい振りの時にポケットからスマートフォンが落ちてしまい、その拍子にイヤホンが抜けて大惨事になる。だから無線式のイヤホンは踊るあたしにとって必需品だった。

 あたしの口座にはこれでもかというくらいの生活費が殆ど手付かずで残っていたから、代金はそれを一階のATMで下ろして支払った。


 その楽曲は二期生の自己紹介のような、ポップでありながら激しく、時にコンテンポラリーダンスのような身体表現を伴う、傍目に見て難しい楽曲だった。

 その振り入れをしながら他のダンスに取り組んだり、ボーカルレッスンをしたりと、慌ただしかったあの頃が今考えると恐ろしかった。

 あの頃うまく踊れなかったあたしを叱咤激励してくれたメンバーのあの子は今ここにはいない。

 懐かしい気持ちとともに、不意に悔しさと寂しさに襲われる。それでも、一人でやるしかない。


 どうしても同じところで間違えてしまうあたしは、環境を変えたくて、病室を出てあの百合の丘へと向かった。

 歩いている間、取り留めの無い思考が現れては消え、やがて頭の中が空っぽになった。

 そうしてテッポウユリの咲き誇るその広場に到着すると、その草葉を踏んで誰かがそこにいた。

 あの男の子、じゃなくて女の子だ。彼女はそこで、空を突いたり蹴ったりしながら、立ち位置を変え、また再び空を突いたり蹴ったりしていた。

 その動きはシャドーボクシングのそれじゃなく、空手か何かの型だろうと思う。

 そしてあたしはしばらく、その動きを噛み千切るように見入った。


 呼吸、足捌き、重心の位置。

 突き、前蹴り、廻し受け。

 そのどれも、ひとつひとつが洗練されていて、そして美しかった。


「ぁ」

「ぁ」


 あたしに気付いた彼女は動きをやめ、照れ臭そうに額の汗を拭った。

 柵を踏み越えて広場に歩むと、彼女は「元気そうだな」と小さく呟いた。


「来週、退院するの」

「……おう」

「ありがとね、色々と」

「別にいいよ」

「今の何?」

「空手の、抜塞大パッサイダイって型」

「……かっこいいね」

「……お、おう」

「ねぇ、……ちょっと、お話していい?」


 キャップを目深に被った男の子みたいな女の子は、咲き誇るテッポウユリに囲まれてあたしの横に腰を落ち着ける。

 決してあたしの方を見ようとせず、そわそわした女の子にあたしは切り出す。


「あたしのこと、もしかして知ってた?」

「……何を?」

「あたしが、アイドルだってこと」


 それを訊ねると、女の子は溜息を吐いたあとで「知ってた」と呟いた。


「四次のオーディションで動画配信したろ?あの時からずっとしてる」

「え、本当に?」

「マジだよ。だってすげーもん。一期生のモノマネとか全然似てねーのに顔芸めっちゃ面白いし、ダンスすごいのに歌微妙だし、――誰よりも一番一生懸命で、誰よりも一番笑顔が綺麗だった」


 風が吹いて、語る彼女の横顔を見つめる目に長い黒髪がかかる。


「だから……お披露目前にいきなり休んで、ずっと心配してた。そんで、待ってる」

「……ありがとう」


 ちらちらと見る女の子の視線で、あたしはダンスのために入院着の長袖を捲くり上げていたことを思い出し、でも袖を戻しはしなかった。


「幻滅した?」

「何で」

「推しが、リスカとかやってるから」

「……ショックは、ショックだよ」

「うん、だよね。でもさ、あたしには必要なことだったんだ、って思う」

「……そか」


 それから訥々とつとつと、どうしてかあたしは自分のことを話してしまった。

 自殺しようとしたこと、それに失敗して入院したこと、家族のこと、そして、笑えないということ。

 きっとあたしは、こんな自分だけど、それでも認めてくれる人を欲していた。

 隣に座るこの子がそうしてくれなくても、それはそれで仕方が無いと思ったけど。

 でも、目を丸くさせながらただただ聞いていた彼女は、あたしが話し終える頃にはあたしのために泣いてくれていた。


「ごめんね」


 首を横に振って、彼女はあたしの言葉を否定する。


「取り敢えず、秘密にしとく。話してくれて、ありがとう」

「推し変する?」

「しない。……アイドル、続けるんだろ?」

「……そのつもり、かなぁ。分かんない。でも、許されるんだったら、続けたい」


 だって折角掴み取ったんだ、と言いかけて、どうしてだかやめた。


「許されるよ」

「え?」

「オレは待ってるからさ」

「――うん、ありがとう」


    †  †


 右。左。ぐるぐる、ぱん。

 頭の中で振り付けを何度も反芻はんすうする。踊れない時間帯――主にご飯時――はそれを続けた。

 理想イメージを描いて、それを身体に刻み付けるようにして何度も反復した。

 あたしの動きはそれとはかけ離れていたけれど、一日一日をそうやって過ごすうちに、どうにかそれに手が届くところまでは来ていると思った。


 そしてあたしは、遂にその日を迎える。

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