M.-7; 抱擁
† †
階段を掛け下りると、白い影が中庭へと掛けていくのが見えた。
ひとつ息を吸って、ぶつからないよう周囲の人の動きに注意しながら渡り廊下へと走る。
途中何人かの人とぶつかったけれど、慌てて謝ってまたあの背中を追う。
彼女の足運びはあたしよりも俊敏で、誰にもぶつかることなく北館の正面玄関を駆け抜けた。
左に折れ、駐車場をひた走る。
たぶん、戻ったら怒られるんだろうな、と考えながら、それでも構わないと必死に白い背中を追った。
駐車場の階段からウォーキングコースへと出る。なだらかな斜面は野球場やテニスコートに面していて、おそらく麓の部分は運動公園か何かなんだろう、それなのに人気が少ないのはパラつく雨のせいだろう。
段々と傾斜は強まり、一歩一歩が辛くなってくる。
乳酸が溜った太腿を上げるのが億劫になり、それでも踵で体重を持ち上げるようにして前へと進んだ。
苦しい、辛い。
寂しい、会いたい。
呼吸をする喉が焼けたように痛かった。
上下する横隔膜が肋骨を振り回しているかのように腹痛が走った。
でも、それでも走ることをやめる理由にはならなかった。
会って、謝りたかった。嘘をついたこと、隠し事をしたこと。それでエミを、きっと傷つけてしまったことを、謝りたかった。
逃げる背中も辛そうだ。でもそれは、やがて右に折れた。
辿り着いた。
あの場所に。
雨を吸った麻紐の柵を踏み越えて、しゃくしゃくと濡れた草葉を踏み付けながらその広場を進む。
見渡す限りの白いテッポウユリが、雨に打たれて地面を向いていた。
その傍らで、全然隠れられていない頭が、白くにょきっと生えていた。
「エミ」
歩み寄って声をかけると、観念したように白い少女は立ち上がる。
目は伏せ、俯きがちであたしと視線を合わせようとしない。
「ごめん、……ごめんなさい」
あたしは頭を下げた。上気した息を切らしながら、ただ頭を下げて、謝罪を口にした。
「嘘吐いてごめんなさい。笑えないってこと、隠しててごめんなさい」
「……っ」
その息遣いに、あたしは顔を上げた。
エミは泣き声をしゃくり上げて、雨粒よりも大きな涙をぼろぼろと何粒も頬に顎に零していた。
「何でエミが泣くの?」
「だって……メイちゃんが笑えないのは、エミのせいだから」
「は?」
泣きじゃくるまま、エミはわけのわからないことを口走る。
「エミが、笑ってばっかりだから。エミが、メイちゃんの分の笑顔まで、取っちゃったんだ……」
一瞬思考が停止する。瞬きが増える。
うん?えっと、何だ?どういうことだ?
「えっと、エミ、もう一回言ってもらっていい?」
「え?……っ」
エミはしゃくり上げたままで、まんまさっきと同じことを告げる。
曰く、あたしが笑えないのは、エミが笑ってばかりだからだと。エミがあたしの分まで、笑ってしまうからだと。
「だから、怖くて、怖くなって――エミのせいだから、メイちゃんに会うのが、怖くなって――嫌われると思って、――メイちゃんと会ったら、また、笑っちゃうから、そしたらまた、メイちゃんが、――笑わなくなるって、思って――でも、」
自分の言い訳に咽びながら、それでもエミは「我慢できなかった」と言った。
「我慢、したの、すごく、我慢したっ――でも、無理で、――出来なくて、――っ、――会いたくなって――そしたら、――っ、メイちゃん、がっ、――いたからっ、――、追い掛けて――でも、――っ、怖くて、――、――怖く、って――」
「エミ」
雨を吸った入院着の下で、どくどくと彼女の鼓動があたしのと重なった。
耳元に聞こえる嗚咽は、彼女の慟哭を色濃く伝えてくれた。
眼鼻の先で見詰め合って、あたしは親指で最早雨とも判断がつかない彼女の涙を拭った。
嗚呼――抱き締める、という行為を開発した
「ありがとう」
再びあたしは、ごめんねと続けた。あたしを気遣ってくれたこと。あたしに会いたいと思ってくれたこと。
あたしも同じだったよ、怖かったのと。それを告げて、あたしも泣いていた。
あたしたちは抱き合いながら、それぞれが同じ泣き声を上げていた。
しゃくり上げ、鼻水を啜った。
そうしていると、エミは唐突に笑った。嗚咽の中に笑い声を交えて、あたしの目を見詰めた。
「――ははっ」
あたしは笑えなかったけれど、彼女に倣ってせめて“笑い声”だけでも上げようとした。
不器用なそれがちゃんと笑い声に聞こえたかどうかは判らない。でもエミは、あたしのそれを聞いて笑い声を返した。
「戻ったらきっと、怒られちゃうね」
「そうだね。すっごく、怒られるね」
息を整え合って、あたしたちは「帰ろう」と異口同音を発した。エミはまた笑っていた。あたしも、不器用な笑い声を上げた。
帰り道は手を繋いで帰った。そして駐車場から正面玄関までの道程の途中で、あたしはまた気を失ってしまった。
病室で目を覚ました時、当たり前に彼女はいなくて。
でも手に残る感触が、怒られているって言うのに全然気にならない心をあたしにくれていた。
† †
夢の中でまたあたしは殺された。今度は屋上から突き落とされた。
でも段々と、あたしを殺害する犯人の、その身に纏った影は晴れていくように思えた。
そしてあたしは、その正体を薄々気付いていた。
† †
塞がりかけていた心臓の孔が少しだけ拡がったらしい。
緊急手術を受けたあたしは、まる一日眠っていた。
せっかくあと数日で退院できたかもしれないのに、その時期は遥か彼方に伸びてしまった。
とは言っても、今月末にはどうやら退院できそうだ。あくまで、安静にし続けていれば。
申し訳ない表情のあたしに、女医さんは淡々とお叱りの言葉を連ねた。
死にたければ勝手に死ねばいい、と言い放った後で、女医さんはその言葉を撤回した。ごめん言い過ぎたと項垂れる女医さん、しかしその表情をさせたのはあたしなのだ。
だからあたしは、改めて深く「ごめんなさい」と頭を下げた。
三日が経ち、検査の結果を受けて晴れて外出許可が下りる。外出、と言っても病室から出ていい程度のものだ。
本当はすぐに会いに行きたかったけれど、あたしはじっくりとその時を待った。
そして、朝ご飯を食べ、女医さんから許可をもらい、図書室へと向かった。
ノートと筆記用具も忘れずに持った。最早アイデアでいっぱいになったノートはいつでも大作を書き上げられそうだった。
それでも、この
いつもより少しだけ早い、図書室の静寂。
晴れ上がった雲の無い空から降る陽の光りが中庭を明るく染め上げていく窓際。
いつものテーブルの、いつもの席。
「――おはよう」
「うん、おはよう」
あたしたちは、もう一度交わった。
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