M.-10; 星天
† †
ゲシュタルトの祈り、というのは、フレデリックさんというドイツの医師が提唱した、ゲシュタルト療法の時に使われるあの詩のことらしい。
ちなみに、ゲシュタルトというのが“形態”を意味するドイツ語で、例えば文字の羅列を見た時なんかに文字の一つ一つがまるで文字として認識出来なくなるとか、人がたくさんいるところで人の顔を顔として認識出来なくなるなどの症状をゲシュタルト崩壊、というらしい。
確かに他人のノートとか見せてもらった時にそこに文字が結構ぎっしり目に詰まってるとぼんやりすることがある気がする。あれもゲシュタルトが崩壊しているのか。
漸く席を確保できた図書室のパソコンの前で、あたしはデスクに肘を、そして頬杖をつきながら感嘆の声を静かに上げた。
インターネットはすごい。知りたい情報を、根気よく探せばちゃんと教えてくれる。
セラピーの本はゲシュタルトの祈りの詩を引用しただけで、それが何なのか、そもそもゲシュタルトとは何かの説明を一切してくれなかったので、あたしはインターネットを頼ったのだ。
でもゲシュタルトについてを調べるためにインターネットを使いたかったわけじゃない。
本来の目的は、エゴサーチだ。
あたしの名前を打って検索をかけることで、あたしが何をしていた人物なのか、どういう過去を持っているかを探せるんじゃないかと思ってインターネットを頼ったのだ。
正直、あたしはFacebookなんかはやっていないと思う。それどころか、実名を晒してSNSをやっていたりなどはしていないだろう。
それでも、例えば何かのコンクールとか、部活の大会での実績とかは実名で記載される筈だ。
あたしの名前は稀有じゃなく、苗字も名前もどちらかと言えばありふれている方だ。それでも同じ年代に何人もいるような名前でも無い。見つかれば、それはあたしの筈だ。
そして白地にいくつかの原色が配置されたロゴの下にある検索欄にあたしは自分の名前を打ち込み、エンターキーを押した。
結果から言うとそれは大成功で、あたしに
ただ、俄かにはそれを信じることが出来ない。
あたしは、どうやら
† †
公式ホームページを踏み、メンバー紹介のページを捲る。
10人の一期生の表示の下に、およそ一年前に加入した二期生の紹介が載っている。
その中に、微笑むあたしの顔があり、写真の下にはあたしの名前が連なっている。
ただ、あたしはどうやら休業中らしい。
何故、休業したのか。何時、休業したのか。
クリックしようとする指を、あたしの恐怖心が制止した。
たぶんこの恐怖心は、他人事のように
でも知りたい。あたしが何者なのかを知りたい。
葛藤は飛び交い、そしてあたしの指は震えて動かない。
結局知的欲求が恐怖心に負けたあたしは、マウスを動かしてサイトを閉じるとパソコンの席を立つことにした。
椅子を引いて立ち上がり、振り向くと――
「「ぅわっ!」」
異口同音で、互いに
というか、いつからそこにいたんだろうか。
「いたなら言ってよ!」
「ごめん、何か集中してたから……」
「もう……」
それからいつものテーブルに移動したあたしたちは、お勧めの本や最近読んだ本の話をした。
エミは毎日この図書室に来ているようで、あたしと出会う前は児童書や児童文学、それからゲームブックなんかをよく読んでいたらしい。
「ゲームブックって何?」
聞き覚えの無いあたしに、エミは子供向けの棚へと案内してくれる。
簡単なもの、面白いもの、特にお勧めのものの3冊を手に取ったエミは、喜々としてその紹介に言葉を弾ませた。
そのうちの1冊――初心者向けの簡単なやつを、あたしは今日借りる5冊に含めることにし、お昼ご飯に病室へと戻る。
「134
「珍しい本読んでるのね」
お昼ご飯を運んできてくれた女医さんが、あたしが読んでいた本を見てそう言った。
「エミに紹介してもらった」
「そう……。面白い?」
国民的RPGに手を出したことくらいはあるあたしにとって、そのゲームブックは解りやすく、そしてすごく熱中するわけではないものの、確かに面白いと言っていいものだった。
それを素直を言葉にすると、女医さんは何も言わずにこりと微笑んで、あたしにご飯を食べることを促した。
ゲームブックとは、RPGが本になったようなものだ。たぶんこの説明はおそらく時代の流れとしては逆なんだろうけど、取り敢えずそう言っておく。
本に登場する主人公は読者自身で、しかし勇者や旅人など、ある種の役割と目的を与えられる。あたしが手にした初心者向けの本はまんま現代日本のお子様で、はじめてのおつかいに行って母親から言いつけられた品物を買ってくる、という目的が与えられていた。
基本的に
あたしが読んだこのゲームブックはおそらく知育目的も強くて、その都度都度でお釣りがいくら残っているのかをメモしていなければ進めないような計算問題がいくつかあった。
そして無事お
「二人称の文学って珍しくない?」
とは、その日の夜にヱミに対して零した素直な感想だ。
「君が知らないだけで、世界にはいっぱいあると思うけど?」
とは、その感想に対するヱミの意地悪な返しだ。
月明かりが青白く照らす深夜前の病室で今夜も、白い少女とあたしは会話に花を咲かせる。
「そういうあんたは本読むの?」
「読まないよ。読める時間に表に出れないからね」
「ああ、そっか」
そうだった。このヱミが身体の支配権を握れるのは日の沈んでいる間だけなのだ。図書室も閉まっていれば、その殆どが消灯時間だ。
「でも、エミが読んだ本は全部頭に入ってるよ」
「どんな本?」
「朝話したじゃん。絵本と児童文学が中心。最近だと読んだのは、ジュール・ヴェルヌかな」
「渋っ」
それからヱミは、星の話をしてくれた。年頃の乙女が星の逸話や花言葉を知らないのは失格だという謎の理念を提唱してくれた後で、薄いカーテンを引いて窓を開けた。
窓枠に肘をついて凭れる彼女の隣に移動したあたしは、そこでその満天の星空をはじめて見上げた。
「ここさ、わりと山の上にあるから星が綺麗なんだよ」
ここが山の上だという事実も
雲ひとつ無い夜空に、月の光に抗うように星々が煌き、まるでざわついているようだ。
星に心があるかは判らないけれど、あたしにはその姿はまるで「僕もいるよ」「こっちも見てよ」と言っているように思えて目移りした。
「知ってる?あの星の輝きは、もしかしたら一億年前に死んだ星の光かもしれないんだよ」
そう呟いたヱミの横顔は綺麗で、思わず満天の星よりもその表情をあたしは見つめていた。
それからヱミは、星の話をしてくれた。それはもう膨大な物量で。
だって言うのにあたしは、星空よりもその横顔ばかりに見とれてしまった。
でも耳はその尖った淡い唇から溢れる言葉の連なりに
決して動かない北極星で知られるポラリスは実際には微々たる移動をしていて、遥か昔はカノープスという星が担っていたこと。
そのポラリスを尻尾に持つこぐま座と、北斗七星を尻尾に持つおおぐま座との間にあるギリシャ神話のカリストとアルカスの逸話のこと。
そのおおぐま座の尻尾の頂点からうしかい座のアークトゥルス、おとめ座のスピカを結ぶのが春の大曲線で、同じくアークトゥルスとスピカ、そしてしし座のデネボラを結んだのが春の大三角形であること。
あたしたちのいる地球、太陽系は、天の川銀河という銀河に属していて、毎秒毎に宇宙はどんどんと拡がっていること。
「よく知ってるね、てかよく覚えてるね」
「わたし、記憶力には自信があるから。好きなことはいつまでも覚えていたいじゃん?」
それから彼女は「もうこんな時間だね」と言って、
あたしは何故か無性に残念な気持ちになってしまい、少しだけ頬を膨らませてしまう。
「また、してあげるよ。星の話」
彼女が去り際にそう告げたのは、あたしの顔を見たからだろうか。
でもその直後、手を振った彼女の言葉に少々浮かれてしまったのは、彼女には内緒にしておこう。
彼女はその夜、「じゃあね」ではなく、「またね」と言ったのだ。
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