M.-13; 悪夢

    †  †


 彼女の名前はエミと言うことと、17歳になりたてだってこと。

 頭髪が白いのは生まれつきじゃなく、ある日自然に真っ白になったということが、午前中の図書館で得られた彼女に関する情報だった。


 そして、あたしがメイという名前であることと、もうじき17歳になること。

 ひょんなことから心臓に孔が開いてしまい、手術を受けることになってこの病院に今入院しているということが、午前中の図書館で彼女に渡した情報だ。


「エミちゃん?」


 お昼ご飯を運んできてくれたのはあの女医さんだった。健康に配慮してか薄味のおかずに眉根を寄せながら、あたしは今朝の出来事を話す。


「どんな話をしたの?」

「えっと……17歳になった、とか、あたしももうすぐ17歳だよ、とか、あと髪の毛の話とか」

「そう」


 どことなく思案げな様子で目を伏せた女医さんの様子に、あたしはバツが悪くなってしまう。

 何か、してはいけないことをしてしまったのだろうか。あのエミという子とは、関わらない方が良かったのだろうか。


「先生」

「何?」

「……あたし、エミに会ったら、もしかして駄目でした?」


 耐え切れなくなってあたしがそう訊ねると、きょとんと目を丸くした女医さんは、すぐに笑って首を横に振った。


「そんなことないよ。でも、断り無く長時間病室を抜け出すのはどうかと思うよ?」


 次から声掛けます、と謝り、あたしは薄味のお吸い物を喉に流し込んだ。


    †  †


 午後になり、あたしは検査を受けた。

 心臓の弁に開いた孔は縫われただけの状態で、自己治癒力ではまだ完全に塞がり切ってはいない。

 結果は病室に戻って担当医から聞く、ということで、そそくさとあたしは病室へと戻った。

 女医さんから、特にスキャンした映像などを見せられたりせず、淡々と結果を告げられる。

 やっぱり映像や画像とかが無いと、現実味というか実感が沸かないものだけれど、あたしの術後の経過は順調なようなので、安静にしていれば別に院内を歩き回る分には問題ないらしい。

 安静に歩き回る、というのは、少し不思議だけれど。


「そう言えば、図書室で本を借りるにはどうすればいいの?」

病院うちの診察券があれば借りれるよ」


 そう言って差し出されたのは、あたしの診察券だった。プラスチックのような固い素材で作られたそのカードは、右下に情報を読み取るためのICチップが備わっている、ちょっとハイテクなやつだ。


「できたてほやほやよ」

「ありがとう、ございます」


 これで本が借りられると興奮したあたしは、女医さんが病室から出て行ったのを見届けると、すぐに図書室へと向かった。駆け出していきそうなテンションだった。


 一度に借りられる冊数には限度があることと、借りられる期間の選択肢は一週間だけであり、勿論期間が過ぎる前に返せばその分また借りられることを知ったあたしは、取り合えず限度上限マックスの5冊を借りると決め、どの本にするかを膨大な量の本棚を渡り歩きながら考えることにした。


「ああ、そうだ」


 呟いて、そう言えば午前中に読み損ねた解離性健忘についての本を、記念すべき1冊目に決める。

 2冊目はその隣に差し込まれてあった似たようなタイトルの本にした。

 続いて文芸の棚へと移動したあたしは、ずらりと並ぶ文庫サイズの背表紙の中から、そう言えばちゃんと読んだこと無いなと夏目漱石の長編小説を3冊目にし、4冊目はこれ映画になってたっけと東野圭吾の小説を手に取った。

 最後に漫画本の棚に差してあった、手塚治虫の医療漫画の1巻目だけを抜き取って、漫画もあるなら全部漫画にすればよかったと項垂れた。

 それでもすでに手に取った4冊を返しに行くことが億劫なあたしは、両手に重ねた5冊の本を持って受付へと向かう。

 神経質そうな顔をしたお姉さんにポケットから取り出した診察券を手渡し、返されたそれとともに5冊の本を受け取って、あたしは意気揚々と自分の病室へと戻った。


 渡り廊下から眺める中庭の風景は今日も穏やかだ。

 あちこちに設置されたベンチではあたしと同じ入院着の人と私服の人が入り混じり、座って談笑していたり、一人で読書に耽ったり、それらの光景をにこやかに眺めていたり。

 そう言えばあたしも木陰のベンチで読書したいと思っていたことを思い出したけれど、今は人がいっぱいだからやめよう、だなんて心の中で独り言ちて、あたしは5冊の大小の本を落とさないよう大事に抱えて東館のエレベーターホールへと急いだ。


 もともとあたしは、活字がそこまで得意では無いのだろう。

 読み損なっていた1冊目の本を読み進めていくうちに、その無機質な物言いに欠伸を噛み殺しきれなくなった辺りで挫折した。10ページも進んではいなかった。

 2冊目も、この調子だと読破出来そうにない。

 そもそも医学の知識なんて全く持ち合わせていないくせに、あたしは何で医学書なんかを2冊も借りてしまったのか。


 3と4をすっ飛ばして5冊目を手に取る。文庫サイズの漫画本は、気分転換にちょうど良かった。

 この漫画は多少読んでいたかもしれない。キャラクターの造形やコマ、台詞回しがやけに懐かしく感じた。

 おかしくて笑うことは無かったけれど、物語にのめり込んで集中して読むことが出来た。

 手塚治虫は医師と漫画家の掛け持ちをしていて、その時の医師としての経験をもとにこの作品を生んだ、という知識があるけれど、あたしはそんな風に自分の過去を昇華してこんな素晴らしい作品を生めるなんて凄いな、と読み終えた本を閉じた。


 サイドテーブルに本を置いたところで夕食が運ばれてきた。どうやら本に熱中しすぎて、時間が過ぎるのを失念していたらしい。

 しかし、病院の夕食の時間が何故こんなに早いのだろう。まだ夜の7時じゃないか。


 塩気が多いと心臓の負担になるらしく、またも味気ないご飯を眉根を寄せて咀嚼したあたしは、喉から出かかった「不味くはないけど美味しくもない」という不躾ぶしつけな感想をご飯と一緒に飲み込んだ。


 夕食を終え、また読書タイムに戻った。この時間はもう図書室も閉まってるので、出来れば漫画の続きを読みたかったけれど、あたしは観念して文庫を開く。

 3冊目の夏目漱石か4冊目の東野圭吾か迷ったけれど、まだ活字慣れしていない身で近代文学は荷が重いだろうと、あたしは映画をテレビで見たこともある東野圭吾の方を手に取った。


 しかし結局読破できずに消灯の時間が来てしまう。

 こんな時間に眠れるかと溜め息を吐いて、ベッドボードの読書灯を点けて東野圭吾の続きを読む。消灯しても眠れない患者さんのためにこの読書灯はあるのだろうか。かく、ついているものは使わせてもらう。

 しかし意外とこの身体は休眠を求めているらしく、あっさりと微睡まどろみは訪れてくれた。

 本の途中にブックカバーの折り返しを挟んでしおり代わりにしサイドテーブルに置いたあたしは、瞼にかかる薄っすらとした重力に身を委ねることにする。


 そして、悪夢に飛び起きた。

 被った毛布を投げ飛ばしかねない勢いで跳ね起き、心臓が僅かに痛くなった。

 でも、ナースコールに頼るほどじゃない。徐々に和らいでいく痛みに胸を撫で下ろし、今しがた見た悪夢を思い返す。


 誰かに殺される夢だった。

 あたしは必死に嫌だと叫ぶけれど、目の前の黒い人影はぎらりと光る刃物を突きつけ、よく聞き取れない怒号をしきりに繰り返した。

 最終的にあたしは喉を斬りつけられて死んだ。死んだ、というのはあくまでその夢であたしの意識が無くなった、ということで、飛び起きて初めてあたしは、死んだのはあくまで夢の中のあたしなんだと、今このあたしとは違う誰かなんだと気付けた。


 額に前髪が、背中に入院着が張り付いて気持ち悪くて仕方が無かった。

 心臓がぎゅっと萎んだ気がして少しだけ痛くて、左胸を右手で押さえたらそれは少しだけ和らいだ。

 そして時計を見ようと顔を上げた時、目の前にあの白い少女がいることに気が付いた。


「ぅわっっっ!」


 つい声を上げてしまったあたしの唇に、彼女は図書室でやった時と同じ様に、一本だけ立てた人差し指を押し付けて静かに「しぃー」と囁いた。


 その顔は――駐車場で目を覚ました彼女の、蠱惑的で妖艶な笑みだった。


「エミがね、友達が出来たって言うから見に来たの。今日は、それだけ――そうか、君だったんだね」


 日の差さぬ暗い病室の中でさえ白いと判る少女は、まるで他人のように自分の名前を呼んだ後で腰掛けていたベッドから静かに下りた。

 そして病室のドアのところで妖しく振り向くと、小さく「じゃあね」と悪魔のように手を振る。


 少女が去り、再び静寂が訪れても尚、あたしは彼女が消えたドアを見詰め続けていた。

 悪夢にうなされたことなんて、その時はすっかり忘れてしまっていた。

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