第6話

 この、葛西達の間にのみ通用する条約。簡単に言ってしまえば、公私の住み分けを明確にするものである。佳代子の家は商売をやっているし、江崎の父親は現役の漁師だ。葛西の父親は町外れのガソリンスタンドを経営している。


 親交があり、良いお付き合いをさせて貰っているからと、付き合いが始まった当初は、お互いにお互いを特別扱いしてきたらしい。富々に集まれば無料で飲み食いができた。江崎の父親は獲ってきた魚を競り市よりも安い値段で、葛西達の家庭に提供した。葛西の父親は誰よりも安い値段で燃料を売ったりした。しかし、その特別扱いには、業種が違うがゆえに多少なりとも差が出てきてしまう。そうなると、嫌でも気を遣わねばならなくなる。


 このような小さな町となると、お裾分すそわけという風習が根強く残っていたりする。ちょっと多く作ってしまった料理を、ご近所さんに鍋ごとお裾分けしたりすることも珍しい光景ではない。だが、このお裾分けというのが厄介なもので、された側はいずれお返しをしなければならない。それに限らず、日本では対価に対価で返す文化がある。タダより高いものはない――とは良く言ったものであり、貰った側はお返しに気を遣うことになる。そのような気を遣わないように、せめて公的な場面では互いに特別扱いを止めましょうというのが【親しき仲にも礼儀あり条約】だ。葛西の父親が提案して、佳代子、江崎、沙織の両親が同意したことで運用されるようになったそうだ。


 私的な場面では、いまだに中元やら歳暮を贈り合っているようだし、互いに持ちつ持たれつの関係が続いているようだが、今は葛西達が客として訪れている公的な場面だ。すなわち、おじさんからの奢りとなると、条約に反してしまうわけである。特別、両親から条約を守れと言われたことはないのだが、幼い頃からの決まりごとゆえに、葛西達の体にも自然と染み付いてしまっていた。


「あぁ、そうか。そうだったな――」


 親父さんはタオルに包まれた頭をぽりぽりとかき、そのまま店の奥のほうへと戻って行った。


「さて、まずは土手を作って……」


 江崎は鉄板に手をかざして温度を確認すると、リズミカルに口ずさみながら銀のボウルの中身をかき混ぜる。昔から慣れ親しんだ味であるため、ここのお好み焼きやもんじゃを無性に食べたくなる時がある。まだ焼いてもいないのに、腹の虫が改めて催促をした。


「お待たせぇ」


 江崎に負けじと銀のボウルの中身を混ぜ始めると、ようやく着替えが終わった佳代子が戻ってくる。下は制服のスカートのままで、上だけラフなシャツに着替えてきたようだ。佳代子を見上げ、しかし銀のボウルをかき混ぜる手は止めずに江崎が口を開く。


「かぁこ、また乳がでかくなったんじゃね? どれだけ栄養摂取してんだよ、それ」


 デリカシーの欠片もない一言に、佳代子は「あはは……。またシャツのサイズ考えないとねぇ」と、さして気にもしていない様子で返す。


 葛西達は小さい頃から一緒にいるためか、お互いを全く異性として意識していない。一緒に育った家族のようなものだからだ。だからこそ、平気で江崎はデリカシーのないことを口にするし、佳代子も笑って受け流すことができる。それにしたって、一応年頃の乙女なのだから、もう少し言葉を選ぶべきである。そう、もっと知性的な言い回しをしてやるべきだ。


「栄養過多というわけじゃない。エストロゲンとプロゲステロンという女性ホルモンが作用するからだ。かぁこの場合、その相互作用が強いんだろう。繁殖能力に秀でているのかもしれない」


 満足するまでボウルの中身をかき混ぜたのであろう。江崎は具材をレンゲですいくながら真顔で「たっちんは、相変わらずムッツリだな」と呟く。それに対して葛西は「ムッツリじゃない。人間の体のプロセスを解説しただけだ」と返してやった。それを見て佳代子が気の抜けた笑い声を上げる。いつもならば、ここで沙織が仲裁に入ってくるのだが、その沙織はいない。何度確認したって、沙織はいないのだ。ぽっかりと空いた佳代子の隣の席が寂しかった。


「かぁこはイカ玉でいいだろ? それと、こいつもな――」


 暖簾から佳代子の親父さんが顔を出し、銀のボウルを佳代子に手渡した。そして、佳代子の隣の空席に、もうひとつ銀のボウルを置く。佳代子の銀のボウルの中にはイカがどっさりと入っている。そして、空席に置かれた銀のボウルには、山盛りの紅ショウガ。沙織が好きだった紅地獄べにじごくもんじゃだった。


「これ、そんなに人気のある商品じゃなかったけどよ、いっつもさおりんが頼んでくれるから、中々メニューから外せなかったやつでな……。お前らのと一緒に焼いてやってくれ。こいつは奢りとかそう言うもんじゃねぇ。俺の自己満足だ」


 そう言うと、四人分の皿と箸を並べて親父さんは再び姿を消した。その後ろ姿が、なんだか小さく見えた。


 江崎がもんじゃの具材を鉄板の上にぶちまけた。葛西と佳代子も、空気とお好み焼きのタネを絡ませてから、鉄板の上へと流した。残った銀のボウルの中身は、佳代子が代表して焼くことにした。


 焼き上がると、ただただ黙々と食べた。誰も言葉を発さずに、ただただ黙々と――。いつも通りの味のはずなのに、今日ばかりは少し塩辛いような気がした。


 誰も手を付けぬ皿の上には、紅ショウガたっぷりもんじゃが、湯気を立ちのぼらせていたのであった。

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