第18話 最低な男

 その時、玄関の鍵を開ける音がした。

 年子の息子たちが帰宅したのだろう。低い声で「んー」とか「ただいま」とか呟くのが聞こえてくる。足音も大きい。

 その音に気付いた頼人は素早く絶ち上がり、何事もなかったかのようにリビングから出て行った。

 しかし、何事もなかったようには見えない程焦った後姿だ。

 梨華も動揺していた。

 だが、それを子供たちに悟られるわけには行かない。

 夫は先ほど床に叩きつけた弁護士からの封書をちゃんと持って行ったらしい。

 きちんと読むかどうかはわからないが、己が可愛ければ読むだろう。実家や会社に知られたくは無いだろうから。無視できるほど馬鹿ではないと思いたい。

「お帰り。二人ともお弁当箱出して。すぐ夕食よ。」

 洗濯ものを出しに降りてきた二人の息子がキッチンへ顔を出す。

「んー」

「わかった。」

 相変わらず、二人の返事は素っ気ないし、短いものだ。

 学校と野球と塾で、二人の一日は終わる。ほぼ毎日、その生活だ。家にいる時間だって少ない。寝に帰ってきているようなものである。

 その点は、頼人とほとんど変わらない。

 特に、不倫しているときの頼人はそうだった。ここのところは、相手と揉めてでもいるのか、帰宅が早いけれども。

 どちらにせよどうせ頼人と不倫相手は揉める。その結果雨降って地固まる結果になるか、所詮不倫だから破局するのかは梨華の知った事ではない。

 だが、跪いて『離婚は嫌だ』と懇願した頼人の姿が、頭から離れなかった。

「あ、そうだ。おふくろ。・・・パソコンのデータ見たい?」

 唐突に陸斗が言い出したのは、彼らが父親の不倫をしったきっかけであるパソコンのデータの事だろうか。

 リビングに置いてあるPCを起動した次男が、自分の調べもののついでに、そのソフトを起ち上げている。頼人の携帯と同期していると言うソフトの事だろう。

 陸斗はちらちらと父親がいると思われる寝室のほうを見てから、梨華を手招きした。

 呼ばれていっては見たものの、正直に言って、梨華はそれを見たいとは思わなかった。夫と不倫相手のお花畑でキャッキャウフフしているようなラインやメールのやり取りを、見たいとは思わない。そうでなくても体調が悪いのに悪化しそうだ。きっと自分の悪口も二人で言い合っていることだろう。

「なんかさ、会ってるのは間違いないって感じのやりとりなんだけどね。」

 陸斗は声を潜めて言う。

「・・・親父は、ほとんど相手に家族の話をしてないんだ。」

「・・・え?」

「やり取りから見て、向こうの女が親父に気があるんじゃないかな。」

「どういうこと?まさか向こうはお父さんが結婚してるって知らないとか?」

「いや、それは知ってるくさい。・・・ホラ。」

 画面に出てきたラインの文字を、カーソルが追いかける。


 〝誰かのものだとわかっていても、やっぱり諦められません。"

 〝最初から本気にはならないって言ってあっただろう。″

 〝わたしなんかより奥様の方を愛してらっしゃるんですね。″

 〝それは君には関係ない話だ。″


「・・・。」

「な?だから、知らなかった、ってのは有り得ない。」

 カーソルが動くのをつい目で追ってしまう。

 こうやってやり取りの文章を見ていると、随分と頼人は酷い男だった。不倫相手に対して冷たい、と言うか一線を引いている。

 読んだ限りでは、梨華や息子の話をほとんど不倫相手にはしていない。細かく追及する相手の女性に対し、関係ない、の一言でばっさりと切っている。

 恐れていた、キャッキャウフフや、梨華の悪口などは、見当たらなかった。

 相手が気の毒に思えてくる程、頼人の不倫相手に対する言葉は他人行儀だった。肉体関係があるとは思えないような、甘さのないやり取りだ。

「ほんでね、このところのラインは、別れる別れないでずっと揉めてるよ。」

「・・・そう、なの。」

 どう答えていいかわからない。

 陸斗がそう言うのは、やはり離婚して欲しくないという意思表示なのだろうか。

 先に入浴していた海斗が、風呂場から声を掛ける。陸斗に次に入れと言っているのだろう。

 陸斗は「んー」と返事してパソコンの画面を閉じた。PCデスクから離れて、着替えを取り、リビングを出る。

 梨華は、真っ黒になった画面を見つめながら、これからどうしたらいいのかわからなくて思案に暮れた。




 携帯電話のラインが喧しく鳴るのがあまりに鬱陶しくて、電源を切ってしまった。

 横並びの文字列が縦に並ぶログがずっと続き、もう読むのが面倒くさい。

 杏奈の言いたいことはわかっている。両親に知れてしまったことを相談したいのだろう。

 弁護士からの通知が杏奈の自宅に行ってしまった以上、もうしらばっくれるわけにはいかないのだ。

 杏奈は自分と一緒に自宅に来て事情を話して欲しいと言っている。

 彼女の両親には、頭を下げて謝罪しなくてはならないだろう。それはもう、仕方のない事だ。腹をくくらねばならなかった。どんなに罵倒されても、下手をすれば殴られることになろうとも。

 彼女と関係したことは事実で、それを妻に知られ、慰謝料請求された。そのことを、不倫相手である杏奈の親に話さなければならない。

 だが、妻との先行きが見えないうちは、そんなことは出来なかった。

 仮に今回の事で梨華と離婚することになったとしても、頼人は杏奈と再婚する意思などない。それは付き合う時に最初に言い渡しておいたはずだ。

 なのに何を勘違いし始めたのか、杏奈は頼人が妻と別れさえすれば自分と結婚してくれると思い込んでいる。

 職場のデスクの上に、付箋紙で杏奈からメッセージが貼られていた。頼人は速やかにそれを隠した。携帯の電源を切ったので、どうにかして話を聞いてもらおうと危ない賭けにでた杏奈は頼人の視線に気が付く。軽く頭を下げ、まるで秘密の合図でもしているかのようだったが、敢えて頼人はそれを無視した。

 デスクの陰で、仕方なく携帯の電源を入れる。

 電源を入れた途端、着信でぶるぶると震える。こっちまで震えてきそうだ。

 仕方なく、今日は仕事の後に会う約束をラインに入れると、ようやく震えが止まった。

 杏奈も不安なのだ。どうしていいのかわからないのだろう。

 それはこっちも同じだ。頼人もどうしていいかわからない。どうすれば梨華が離婚を思い留まってくれるのか、そればかりを考える。考えるが、思いつかない。

 あの、痩せた顔で、明るく笑っていた梨華。

 あの笑顔の陰で、病んで、苦痛を堪え、眠れない夜を過ごし、泣き続けていたのだという。

 自分に注意を向けてくれない妻に腹を立てて、よそへ目を向けた自分は確かに悪いのかもしれない。

 夫に関心を示さない梨華は、頼人が何をしていても気にしていないのだと思っていた。自分を疑う事もないのだろうと思い込んでいた。

 三年間もまともに食事をしていない、ずっと不眠症で薬に頼り、心療内科にもかかっている。そんなことは、知らなかったのだ。

 自分は、妻の何を見てきたのだろう。

 梨華に生活と心の余裕が出来たら、また元のような仲のいい夫婦に戻れると信じていた。それまでは自分が外を向いて気を紛らわせるしかないのだと。

 自分こそが、彼女のために我慢をしてきたつもりでいたのに。

 そして、気付くのだ。

 梨華には、外を向く逃げ道さえ無かった。きっとそうだったのだろう。

 頼人は知らない。梨華が家事と育児と仕事でどれほど大変な毎日を送っていたかなど、想像もつかない。

 ただ、いつも明るく笑顔でいてくれたから、きっと苦では無いのだろうなと思っていた。大変だとか辛いとか、余り言わない妻だった。

 言えなかったのだ。

 泣きたくても笑うしかなかったのだ。

 それに気付かなかったツケがが今、自分にかかってきている。

 その一方で、何故か頼人は、少しだけ嬉しいと思う自分がいる。その事を自覚する。

 梨華は、自分が不倫している事で、身体を壊すほど悩み苦しんでいる。

 ひどい話だけれど、それが少し嬉しいのだ。

 ずっと自分に注意を向けて欲しかった。妻に構って欲しかった。息子たちだけでなく、自分にも愛情を注いでほしかったのだ。

 頼人がいなくても笑う梨華が、恨めしかった。

 心身症になるほど、まだ、頼人の事を好きでいてくれたのだと知って、嬉しいと思った。

「酷い男だよな・・・。」

 つくづくとそう思う。

 杏奈に対する態度も、梨華に対する思いも、本当に最低だ。

 だが、それが自分の本当の姿だった。

 誠実そうだ、真面目そうだと言われながら。実際の頼人は、見かけとはかけ離れた黒い性根の持ち主なのかもしれない。 

 

 



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