第11話 個人的理由

「相手の素性がわかりましたよ。」

 エスプレッソをすすりながら岩崎が言う。

 向かい側に座った梨華が顔を上げた。

 どうやって調べたのだろう、テーブルの上に載っているファイルに挟まれた資料は、とある若い女性の履歴書のコピーだった。

 これで名前も住所も連絡先も、経歴さえ全部わかってしまう。守秘義務がやかましく叫ばれている昨今だというのに、こんなものを手に入れてくる目の前の弁護士が、なんだか怖い。

「調査方法は企業秘密ね。全て済んだらこの資料は全部廃棄します。」

「はあ」

 返答のしようもなく、そう相槌を打った。

「ご主人の会社の同僚ですね。経理部に入って一年目の女性です。営業部から移って来て、御主人が面倒見てたのかな?自宅は都内で実家暮らし。中々いい度胸してますね、ここの会社不倫とかパワハラとかにかなり厳しい対応するんですよ。なのに職場不倫とはねぇ。」

 相手の女性が実家暮らしだから、泊まりはなかったのか。そういうことか。

 一年程前の不倫相手の時は、外泊も何度かあったのに、今はない。その理由はこれだったのか。

「・・・実家暮らしのお嬢様ですか。年齢的にも。」

 婚期を深刻に考える年齢だ。

 そんな女性を相手に遊んでいる夫に心底失望した。水商売の女性を相手にするのとはまた事情が違う。色々な意味で罪深い頼人をどんどん見損なっていく。

「不倫としかしてる場合じゃないと思われますけどね。」

 岩崎もそう思うのだろう、苦笑しながら言う台詞に同意を示す。もっとも、不倫された側の梨華の知った事では無いのだが。

「不倫相手の方に内容証明を送って慰謝料を請求できます。」

「・・・。」

「ご主人にも請求できます。そして離婚を請求することも出来ます。スムーズに協議離婚、となれば幸運ですが。」

「離婚、となったら子供たちは。」

「奥さんが親権をとり養育費をご主人に請求することになりますかね。奥さんの方がお子さんを旦那さんに任せるというパターンも無くは無いですが、俺の経験上ではまだいません。それにお子さんはもう中学生ですよね?本人の意思も考慮されてしかるべきです。」

 勿論、海斗と陸斗を自分が育てることに異論はない。苦しい生活になるだろうが、梨華には頼人よりも彼らをきちんと育てる自信がある。

 しかし二人の息子はどうだろう。片親となってしまうことは辛い事だ。両親が揃っていたらしてあげられることも、出来なくなる。

 数日前に見せられた不倫の現場写真を見た時に、これからどうするかを考える参考にして欲しいと岩崎に言われた。

 あれを見たらもう、離婚しかない、と思った。

 夫のために食事を作る事も洗濯することも、もはや指一本動かす事さえ嫌だと思った。

 けれど、息子たちは。梨華の可愛い海斗と陸斗は。

 悲しいほどに、夫によく似ている二人の兄弟には父親が必要なのではないかと考える。結局はそこに戻って来るので、離婚するかどうかの結論がどうしても出ない。

「経済的な事はどうとでもなります。ひとり親家庭へのサポートは各自治体にありますし、何より奥さんはちゃんと正社員だ。慰謝料や養育費が必ずしも満額得られるとは言い難いですが、それでもどうにかこうにか皆やっていくんですよ。・・・でも、離婚しない選択も確かにあります。再構築してもう一度家族を作り直そうとするご夫婦も確かにいる。奥さんとダンナさん次第ですが。」

 梨華はふとテーブルの上に並んでいる資料に目を落とした。

 ここまで詳細な情報を手に入れるのは、プロの探偵だって難しいのではないか。

 そもそも弁護士がここまでの調査をしてくれるなど聞いたことが無い。

「岩崎さん、ここまでして頂いてありがとうございます。・・・本当に感謝の言葉では足りない程に。」

 弁護士だからと言ってここまでしてくれるわけがない。

 もはや岩崎の家の方へ足を向けては寝られない、そのくらいの恩義を感じていた。自宅がどこかは知らないけれど。

 夫の不貞に悩み、かと言って誰にも打ち明けられず苦しんで、体重は10キロ減った。今までどんなダイエットしてもここまで痩せられたことなど無かった。

 これほどのどん底から救ってくれたのだ。

 唯一の味方。頼れる人。まさに闇に浮かぶ光明と言っていい。

 仕事と育児と家事に追われる梨華には、夫の不貞の証拠を得る術も時間も無い。夫はしっぽを出さず、梨華も疑っている素振りを見せられない。そう思ってお手上げだと絶望した。

 探偵でも頼めばいいのだろうが、万が一失敗したらもう目も当てられない。ネットで調べたら、信用できる探偵や弁護士に頼めるのはよいコネや運に恵まれなければかなり難しいようだ。失敗して複数の探偵に頼む人さえ珍しくない。

 幸い、梨華の弁護士は学生時代の知り合いだ。だが、さすがに探偵に知り合いはいない。

 不倫を決定づけるだけの確固たる証拠に欠ける条件では、いくら岩崎が敏腕弁護士だったとしても勝てないだろう。

 思案しあぐねて、嘆息するばかりの梨華に、岩崎は軽い口調で言った。

「俺が証拠集めてきましょう。」

 驚愕の余り絶句する。

 そんなことをして貰う理由はない。そもそもそんなことを弁護士にやらせていいのか。いくら学生時代のバイト仲間だったからと言って、職務を逸脱することである。法律に明るくない梨華でもそのくらいの事はわかった。

「そこまでしてもらうわけには」

 青い顔で断ろうとする梨華に、岩崎は悪戯っぽくウィンクして見せた。

「・・・内緒ですよ。こんなん、普通は出来ませんからね?」

「でも」

「ちゃんと調査料金は頂きます。無料奉仕なんてしませんよ。」

「でも、そんな、申し訳ない。」

「だって梨華先輩動けないでしょう。ご主人の写真や行動パターン、それに勤務先の詳細を教えてください。」

 そう言って岩崎自ら探偵の真似事をしてくれると申し出たのだ。

 再び涙が零れる。

 岩崎の前で泣いてしまったのはこの時が二回目だった。

 取り乱す人妻の前で、岩崎は速やかにタオルハンカチを差し出す。

「俺ね、なんで弁護士になったと思います?」

「・・・え?」

「俺の母親、シングルマザーなんですよ。俺が12の時に離婚してね。面会交流やらなんやらで離婚した後も父親に会いはしたけど、正直、養育費を貰うための仕事だと割り切って会ってた。そのくらい嫌いでした。父は、全く持って巧妙な手口でね、俺の母親を放り出すように離婚して金持ちの女と再婚したんです。俺の母は調停も裁判も出来ないまま、ほとんど父の言うなりの条件で離婚して・・・苦労して苦労して俺と弟を育てました。あの頃は荒れてたなー・・・今思うとちっと恥ずいですね。」

 あの頃というのは、きっと学生の頃だろう。

 梨華がバイトを始めたのは進路が決定した高三の終わり。やっと仕事に慣れてきたころに、やけに派手でチャラい高校生が入ってきたのだ。それが岩崎だった。

 わずかの差とは言え、先にバイト先にいた梨華の事を先輩、先輩と呼んで梨華を困惑させたが、本当は同じ学年だ。彼もまた進路が決定してから稼ぐためにバイトを始めたのだと言っていた。一緒にレジに立つときに軽く会話があり、このコンビニ以外にもいくつかバイトをしていると言っていたのだ。見た目の割に、よく働く子だと思った。遊ぶお金が足りないのか、と思ったが。

「・・・もしかして、だから、あの頃あんな格好で」

「まあ、ちっとグレてたって言うか・・・まあぐれきれなかったっていうか。はは。」

 そう言って岩崎は恥ずかしそうに頭を掻く。 

 梨華は当時の岩崎の姿に思いを馳せた。

 離婚して片親で育っても、こんなにちゃんとした立派な大人になった目の前の青年が眩しかった。

 きっと苦労して彼を育てた母親は、しっかりした人なのだろう。片親であっても、正しい子育ては出来る。その証明が目の前にいた。

「まあそう言うわけですよ、俺が証拠集めなんかしちゃう理由。ましてや先輩のお子さん、ちょうど年頃も俺の親が離婚した頃と同じだ。なんていうか・・・他人事に思えない。めっちゃ個人的な理由です。頼むから内緒にして下さいね?俺バッチ剥奪されちゃうから。」 

 



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