第7話 それは違う。
スマホが鳴った。
気付けば、あれから二時間も経っていた。体調が悪くなり玄関でうずくまっていたが、這うようにしてリビングまで移動し横になった。
「はい、もしもし」
『岩崎です。今よろしいですか?』
「教えてください。」
『夢の国ですね、テーマパーク。写真も動画も撮れましたよ。』
学生たちが卒業旅行などに行く国内有数のテーマパークに、不倫の相手と入場していったらしい。
「そう、ですか・・・。」
梨華も子供たちも家族でそこに行ったことは一度もない。
もっとも、息子たちは大して興味がなかった。夢の国よりもプロ野球観戦や、アスレチックランドなどの方が大好きだった。
『このまま一日尾行して証拠になりそうな撮影を行います。・・・向井さん?大丈夫ですか?』
黙ってしまった通話相手を心配して、岩崎が尋ね返す。
梨華は吐き気を堪えながら、応えた。
「大丈夫です。・・・今日の連絡は、後は終了するときだけで結構ですので・・・、すみませんが、よろしくお願いします。」
『わかりました。奥さん、気をしっかり持って下さい。医者にも行ってくださいね。』
「ありがとうございます。岩崎さんにこんな仕事までして頂いて申し訳ない。必ず報酬はお支払いしますから。」
『はいはい、ちゃんと既定の金額を請求しますから。それだけの仕事もして見せます。安心して待っていてください。』
スマホをテーブルの上に置く。
再度崩れるように身体を横たえる。
岩崎の優しい言葉に心底救われた気がして、なんとか息がつける気がした。
頼人の浮気の事は、子供達には勿論、親にも言っていない。誰にも言えないでいた。一人で抱え込んで、ずっと悩んでいたのだ。
悩んで苦しんでいたけれど、頼人に直接追及して、気まずくなるのは避けたかった。
気付いて以来、食欲が落ちて、ちゃんとした睡眠が取れなくなった梨華は目に見えて痩せていった。
だからこそ余計に、明るく振る舞わねばならなかった。体調が悪いのではなく、ダイエットしているなどと適当な嘘をついた。できるだけ笑顔で過ごしていた。
その一方で、薬局で睡眠薬を買って飲んでいた。市販薬が効くうちはそれで済ませたかったが、段々効きが悪くなりとうとう心療内科を受診した。
この時は心底正社員になっていてよかったと思った。梨華が心療内科に通っていることが保険でバレずに済む。
海斗と陸斗も心配していたが、ダイエットだと言い切った。そうするしかなかったし、二人もそれで納得する他なかったのだろう。
息子たちも何かは感じ取っていたのかもしれないが、彼らなりに何も訊いてはいけないと思っているのだろう。余計なことは一切聞かなくなった。お喋りだった年子の兄弟が寡黙になったのは、年齢による反抗期だろうと頼人は思っているだろうけれど、それだけではないと母親の勘で思っている。
そうだ、頼人の職場に電話をしなくては。
浮気をしているらしいことは三年前からわかっていた。
しかし、確たる証拠が見つけられない。
調停や裁判において言い逃れ出来ないようなはっきりした証拠が必要だった。
でも、梨華自身が動くことは出来ない。時間があるのなら探偵の真似事をしてでも証拠を掴もうとするけれど、残念ながらそんな余裕はなかった。
なんという不公平だろうか。
向こうは浮気する時間の余裕も、体力の余裕もあるのに、こっちはそのどちらもなく、さらには資金さえ潤沢ではない。
それに、二人の子供の事を考えると、すぐに離婚するのもどうかと思う。まだ息子たちには何も話していないけれど、その時が来たらいずれ言わねばならなくなる。
考えた末に、今は忍耐の時なのだと割り切った。
そのためには、コツコツと資金を貯めなくてはならない。離婚も調停も裁判も、何をするにも先立つものは重要だ。
幸い、夫は自分が不倫に使うお金をいい加減に使っているからか、梨華の財布事情に対して口を出すことは無かった。それを言い出せば、自分も追及されるとわかっているのだろう。
頼人の身の回りのものを見て推測するに、彼はとっかえひっかえしているふしがある。最初の頃は風俗だの水商売のお姐さんだのを相手にしていたのが、最近は身近な女性を相手にしているようだ。取引先の人や、下手をすれば同じ会社の人もあやしい。
梨華からすれば、どんな図太い神経をしていればそんなことができるのか理解しがたい。
しかし、不倫をする側からすれば、職場が同じと言うのは逢引のしやすさや、バレたらまずいという背徳感やスリルがあってむしろ好ましいという意見もあるらしく、よくあるパターンなのだという。
そんなことをあの頼人がしているのだ。もう彼は自分の知っている彼では無いのだと思い知る。
頼人は元々そんな男ではなかったはずだ。
身長も容姿も十人並で、どちらかと言えば性格も穏やかで、間違っても浮気するようなタイプではなかった気がする。
誠実なのが取り柄のような、真面目な人だったはずだ。梨華と付き合い始めた時も、そうだった。
『俺、あんまりモテるタイプじゃないし、気の利いたこととか出来ないかもだけど、好きです、付き合ってください。』
はじめて告白された時の台詞をよく覚えている。
その不器用そうな感じが、好感を持てたのだ。遊んでるタイプで無いな、間違っても女の子を騙せるような人ではないな、と思えて。
それなのに。
人は、変わるのだ。
彼を変えてしまったのは自分なのだろうか。
あんな風に平気でうそをつける人になったのは、梨華のせいなのだろうか。
何度も、そう考えて自分を責めたりもした。
そんな時に、梨華の前に現れた人が、はっきりと言い切った。
「断じて違うね。そんなの、不倫をしていい理由になんかならない。」
数年ぶりに再会した、岩崎尚人(いわさきなおと)の言葉だった。
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