第一章:殿下と騎士とご令嬢 02





「お嬢様、紅をさしますので口を閉じてくださいまし。あと先日も申し上げましたが、ため息はおやめください。お粉が飛びます」

 メイドはバラ色の紅を唇にさすと、その上に、蜂蜜を薄くのせた。


 中1日など、本当にあっという間だった。サミュエルの庭園を訪れるのは午後だというのに、ヴィヴィアンは夜明け前から身支度に起こされていた。

 手には扇子、ではなく、その先に括り付けた小さなサシェを握りしめている。昨晩、エムがくれたものだ。ほのかなラベンダーは鼻を近づけなければわからない程なので、バラ園で香りを邪魔することもないだろう。


 小さなサシェを一度握りしめた後、ヴィヴィアンは口を開いた。


「わかったわ。でも髪型はもっと簡素なものにして。あれは確かにきれいだけど、わたくしには重過ぎたわ」

「……かしこまりました」

「それと」

「はい、なんでございましょう」

 ヴィヴィアンは鏡から目を離した。

 目の前のメイドは、ブルネットの髪をお団子にまとめて、琥珀の瞳をしている。言葉はキツいが、顔は優しげな顔をしている。たれ目でぱっちり二重など、男が好きそうな顔だ。

「お嬢様?」

「お前の名前、教えてちょうだい」






* *





 夜明け前から身支度をしたため、王領は遠いと勝手に思っていたのだが、移動時間は思っていたよりもかからなかった。ヴィヴィアンの身支度の方がずっとかかった印象だ。



 隣の領地なんて、すぐ攻めて来られちゃうじゃない。



 ヴィヴィアンは扇に括り付け、手のひらにあるサシェを握りしめた。

これまでは、もっと王都に近ければと思っていたが、今は、他の領地を挟んでほしかったとすら思う。近すぎる。こんなの進軍したらあっという間だ。


「お嬢様、お手を」

 馬車から降りるとき、支えてくれようとするフットマンの声にヴィヴィアンはぱっと顔を上げた。しかし、その声は昨日聞いたエムの声ではなかった。

 念のためとフットマンの顔を見たが、鼻の形も唇も、全くエムではない。エムはもっとシャープだ。


「ありがとう」

 フットマンが別人だった事を少しがっかり思いながら、ヴィヴィアンは彼の手を借りながら馬車を降りた。

 眼前に広がる屋敷は豪華で広大だった。ヴィヴィアン好みの外観だというのも忌々しい。

 扇子を握る手に力を込めていると、こちらに来る人影があった。


 氷華の貴公子か、と警戒を強めたのだが、その人影はヴィヴィアンの全くの想定外の人物だった。


 その人物は白のマントをはためかせ、甲冑こそないが、礼服に身を包んでいた。礼服のかっちりとした装いに似合うだけの体躯。その体と美しい顔は、まるで常緑の大木のような爽やかさと凛々しさがあった。


「お迎えに上がりました、クロムウェル公爵令嬢」

「マクラウド将軍」

 王家最強の矛にして最大の盾、ライアン・マクラウドだった。

 華の騎士の異名を持つ彼がその名にふさわしい麗しい笑みを浮かべて、ヴィヴィアンに深々と一礼をしたのである。

 





 一体全体、何が起こっているのか。


 王領に呼ばれてきてみれば、王国一の将軍と共に庭園を回ることになった、簡素に言ってもやっぱり意味不明だ。ヴィヴィアンは内心頭を抱えた。


「久方ぶりの晴れ間。このような良き日に、殿下の庭園を私がご案内する無礼をお許しください」

「何をおっしゃるの。常勝将軍、華のマクラウド様とお話しているなど、国中のご令嬢にどれだけ羨ましがられる事か」

 ヴィヴィアンは扇で口元を隠しながら、ホホホ、と笑った。

 先ほどからお守りのサッシェは手の内で握りしめすぎてぐしゃぐしゃになっている。



 マクラウド曰く、サミュエルはヴィヴィアンのため、元々あった予定を入れ替えてまで今日を楽しみにしていた。

 しかし、領内で大規模ないざこざが起こってしまい、急遽彼が対応に現地に赴かなくてはならなくなり、私を案内することが叶わなくなった。

 クロムウェル公爵領に連絡を取ろうにも、都合がつかなくなりました。今日はなしで、などとは言えない時間帯になっていたこともあり、サミュエルは腹心であるマクラウドにヴィヴィアンの庭園の案内を任せた、というのが今回の事の顛末らしい。


 王太子め、仕返しするために無理やり予定を詰め込んでるんじゃないわよ。


 マクラウドの話が本当か嘘か、そんなことはヴィヴィアンにはもはやどうでもいい。とにかく、この場を切り抜けて帰る。エムに思いっきり当たる。彼女が出来る事、したい事はそれだけだ。


「本当に素晴らしい庭園だわ。あちらのバラなんて見たことがございませんもの」

「ああ、あれは遥か東方、マーソン帝国よりもはるか東にバラの王国があり、その国でよく取れるものだそうです。花は小ぶりなのですが、香りが強いのだとか」

「まあ、近くに行っても?」

「ええ勿論」

 そのため、敢えて奥にあったバラを指した。

 バラは嫌いではないし、むしろ好きなのだが、いかんせん今は愛でる余裕がない。


 省略できるところはどんどん省略しなければ。ヴィヴィアンが足を踏み出そうとした瞬間、目の前に大きな手が差し出される。

「少し、遠いですので」

「……ありがとうございます」

 差し出されてしまえば、その手を取らないのはマナー違反だ。ヴィヴィアンはマクラウドの手に自分の手を乗せた。


 そして自分が進もうと思っていたスピードよりもずっと遅い、優雅なエスコートが待っていた。

「その国ではバラだけではなく、バラ製品の輸出もしているのだそうですよ」

「それは素敵ですね。でも、私の家にはバラの製品を売ってくださる方は、まだいらっしゃらないみたい」

「ブーシュ島にはようやく来たと、この間陛下と謁見した商人が申しておりました。不思議なことに、わが国には花の苗だけが先に来ていたようです」

「まあ……それにしても、謁見の間にもご同席されるなんて、陛下に重用されていらっしゃるのね」

「殿下がご同席されていたからですよ。普段は謁見の護衛は他の近衛のものがしております」

「そうなのですね」

 ヴィヴィアンは空いている方の手で扇を開いた。陛下の近くの護衛は、最強と名高い自分じゃない、と、敵側の私に話してしまってよいのだろうか。マクラウドの発言にヴィヴィアンは内心首をかしげた。

 

 ああ、そうだ。私はまだ王家が敵だと気付いていない、頭の弱い令嬢だったわ。


 それに、この世界の貴族の男は、総じて女を軽んじている。

いくら『爵位なし』とはいえマクラウド将軍はノース伯爵家出身。その認識なのかもしれない、とヴィヴィアンは思った。

 

 マクラウドは、今でこそ王家最強の矛と盾と称されているが、つい5年前までは『爵位なし』と影で言われていた。

 通常、爵位というのは男の長子が継ぐのが原則だ。

 よっぽどの不適格者でない限り、次男になることはない。そしてティンダル王国は基本的に第2子以降は爵位が継げない。

 つまり、貴族の次男は、生まれが貴族でありながら、本人は平民―『爵位なし』になるのである。


 しかし、マクラウドは長男でありながら『爵位なし』となった。理由はその髪と目にある。赤髪に近い茶髪と薄い緑の目、だ。

 異民族であり、今は亡民であるカラムの民は赤毛に緑の目を多く持つという特徴がある。

 つまり、彼は異教徒に似た見た目をもっているから、爵位を継ぐには不適格とされたのである。


 髪と目で能力が決まるわけないのに、馬鹿らしい。現にこの国一番の将軍ですもの。


 ヴィヴィアンにとって見た目や性別での偏見は馬鹿らしいという気持ちがあるが、ティンダル王国の貴族にはこの考えはまだ難しく、現に彼が不遇の身の上になってしまったのだ。


 とにかく、マクラウド将軍は貴族の長子に生まれながら『爵位なし』となったが、自分の力で王家の将軍になった実力者であり、その強さと、凛とした美貌は社交界のご夫人やご令嬢の憧れの的なのである。

 ヴィヴィアンも彼の意味の分からない偏見に負けず、実力で周りを黙らせている姿勢は、とても尊敬している。



 そんな憧れの的に手を引かれながら、ヴィヴィアンは遥か東方から来たという薔薇を観る。確かに薔薇は小ぶりで、なんなら地味だが、あたり一帯にはバラの香りが溢れていた。

 まるで薔薇をこれでもかと敷き詰めたバスタブに入っているのかと錯覚しそうなくらいだ。

「本当に素敵だわ。確かにこれなら香水にも、石鹸にもできるでしょうね」

「クロムウェル公爵令嬢……一つ、お願いを申し上げてもいいでしょうか」

「はい?」

「ヴィヴィアン嬢、とお呼びしても?」

 ヴィヴィアンの聞き返しを、どうやら是と取ったマクラウドは、ひどく真剣な眼差しでヴィヴィアンを見てそう言った。

 マクラウドの意図がわからないヴィヴィアンは、ここで断る適当な理由がないと、そのお願いを受け入れることにした。


「ええ、勿論。貴方様に名前を呼んで頂けるなんて光栄だわ」

「ああ、よかった。では改めて、ヴィヴィアン嬢、庭園をご案内します」

 え。手は引かれたままなの。

 当然、そんなヴィヴィアンの心の叫びは口から出せるはずもなく。結局ヴィヴィアンはマクラウドにずっと手を握られたまま、庭園を回ることになった。


 しかも最後には、またお会いできることを、と指先に口付けを落とされてしまったのである。


 麗しの騎士の口付けにニコリと笑っていつつも、ヴィヴィアンは背中に大量の冷や汗をかいていた。

 断罪されずに乗り切れたのは良かった。良かったんだけど、あのマクラウド将軍からこんな対応されたなんてこと社交界やお茶会の人たちに絶対に言えない。


 ヴィヴィアンは今日のことは自分の胸に秘める事にした。さらに言えば誰も見ていなかったことを心の底から神に祈った。


 そして、どうにか自分の部屋まで戻り化粧を落とした途端、心労のせいかあんなにも当たり散らしてやると思っていたエムの来訪を待たず、その日は夢の中に旅立ってしまったのである。





* *




 ヴィヴィアン嬢と、お呼びしても。

 

 マクラウドがそう言った時、彼女はとてもきょとんとしていた。

 その青い目がちょっときつめな目尻が、とても可愛らしいと、心の底から思った。




「公爵令嬢はどうだった」

 王領の領民たちの騒ぎから帰ってきたサミュエルが早速口にしたのはまずそれだった。

 マクラウドは主人の帰宅にまず一礼をしてから、馬上から降りるサミュエルに声をかけた。

「噂の癇癪を起こすこともなく、庭園を回られていましたよ。匂いの強い、東方の薔薇をお気に召していたようです」

「そうか。彼女から公爵家について何か聞けたか」

「いえ、それは。薔薇にずっとご執心でしたので」

 マクラウドの言葉に、サミュエルは、まあそこまで期待していたわけじゃないからな、と外套を脱ぎながらため息を吐いた。


「ま、あのご令嬢の相手、ご苦労だったなマクラウド。今日は帰ってゆっくり休め」

「ご配慮、痛み入ります」

 マクラウドの言葉に、サミュエルは困ったように笑った。

「そんな堅苦しくするな。お前と私の仲じゃないか……また空いた時間にでも話そう」

 次の瞬間、遅れて家令が屋敷に到着した。マクラウドが、是の意味を込めて一礼だけすると、サミュエルは軽く頷いて、家令と肩を並べて執務室へと直行していった。


 小さくなるサミュエルの姿を見ながら、マクラウドは少しだけ複雑な心境になる。

 


 マクラウドが、サミュエルに言った言葉に嘘はない。嘘はないが、真実ではない。

 彼は一つも公爵家について質問しなかった。

 マクラウドが、公爵令嬢に言ったことは、ヴィヴィアン嬢と呼ばせてほしい事、好きなこと、好きなもの、最近面白いと思っている事。すべてが何でもない雑談ばかりだ。


 マクラウドは踵を返すと、再び庭園へと足を向けた。そして、バラ園にいる庭師に声をかけた。

「騎士様!」

 庭師はマクラウドから声をかけられたことに驚き、叫ぶような声を上げた。即座に立ち上がり、ハンチング帽を慌てて脱ぐ。

「仕事中にすまないな」

「とんでもない。どうしたんです。あのお姫様はお帰りになられたんでしょう」

「ご令嬢のことじゃないんだ。一つ頼みたい事があってな。……そこの薔薇をつかってサッシェを作ってもらえないだろうか」

「結構強い香りになります。その、枕元に置くにはふさわしくないかと、俺は思うのですが」

「それなら気にしなくていい。人に贈るものなんだ」

 マクラウドが寝るときに使う安眠用のものだと思ったのだろう、遠回しにその薔薇はふさわしくないと庭師が告げてきた。一介の庭師が騎士の言葉に口応えなど、とても勇気のいることだ。庭師の顔から一気に血の気が引いてく。

「これはとんだ勘違いを……」

「気にしないでくれ、私も君の立場だったら同じように言っていたよ」

 マクラウドは言葉と共に表情を柔らかくしての肩をポンと軽く叩いた。マクラウドの表情をみた庭師は、先ほどまでの緊張を解いて、とてもリラックスした顔で、頷いた。


「それでサッシェだが、小さいものでお願いできるだろうか。 ……扇子に括り付けられるくらいがいい」

「それなら2日もあればできます」

「なら2日後に私が直に受け取りに来よう。ああ、それと申し訳ないがこれは内密に頼む」

「わかりました、騎士様」

 頭を下げる庭師に、マクラウドは頼んだぞ、と踵を返した。

 

 立場が対等でない場合、言葉だけではなく表情や仕草で伝えることが大切なことを、マクラウドは経験で知っている。


 あの庭師は最初、とてもマクラウドを畏怖していたが、最後はリラックスして話を聞いていた。そういう人間のした仕事はいずれも質が高いものが上がってくる。彼はマクラウドの要望をちゃんと反映した、小さくも香り高いサッシェを作るだろう。


 選んだ薔薇も、華やかな彼女にふさわしい華美な香りをもっている。しかし、マクラウドは同時に一抹の不安を抱えていた。



 ヴィヴィアン嬢は、本当にサッシェで、喜んでくれるのだろうか。



 彼女が豪奢なものが好きなことを、マクラウドはよく知っていた。どの舞踏会でも彼女は華美なドレスを着て、大ぶりの首飾りをしていたからだ。

 

 そんな彼女が、いつもの扇子に小さなサッシェをつけて、この庭園に訪れた。


 平静を装っていたが、マクラウドにとってその扇子は中々に衝撃的だった。


 彼女は美しいものが好きだ。だからこそ、その形を最も重視しているとマクラウドは考えていた。流行の形、洗練されたデザイン。小さなサッシェは、そのどちらにも属していない物だったからだ。


 彼女の嗜好が変わったのか、とマクラウドは一瞬思ったが、着ていたドレスはどこの舞踏会でも一昨日の公爵家への訪問でも見たことのない新しいものであったし、彼女の耳に輝いていた黒真珠はこの国では珍しい代物だったので、その考えは振り払った。


 となれば、あのサッシェは誰かからもらったものになる。

 サミュエル殿下があのようなものを贈る訳がないことも、マクラウドは知っていた。



 となれば、推測できる答えは一つ。

 誰かが、ヴィヴィアン嬢の心に住み着いているという事実だ。



 誰かはわからない。女であるか男であるかもわからない。もしかしたら、彼女自身も気づいていないかもしれない。


 それでも、誰も入れなかった彼女の心に誰かが踏み込んだのだ。

 そして、父である公爵や婚約者であるサミュエルとは違う、公的な所縁もない人間が彼女の嗜好に合わない物を贈って、彼女はそれを受け入れたのだ。


 マクラウドはそれが許せなかった。それと同じくらい、自分も彼女に受け入れてもらいたいと思った。



 だからその前段階として『ヴィヴィアン嬢』という呼び名を許してもらったのだ。


 

 これで彼女が断る理由がなければ多少強引であっても受け入れてしまうことが判った。

 ヴィヴィアン嬢と呼ばせてもらったお礼に、昨日の薔薇園での素敵な時間のお礼に。


 どちらも理由としては筋も通る。ヴィヴィアンが自分の贈り物を受け取ることはこれで必至になった。マクラウドはヴィヴィアンににこやかに笑う裏で、昏い欲にも口角を上げていたのである。


「まあ、でもどこの馬の骨ともしれないやつと、同じものを上げることになってしまう事だけが、気に食わないな」


 マクラウドは、サミュエルに用意してもらった屋敷の自室で、彼女のためにまとった、騎士の証である白いマントを脱ぎ捨てた。騎士という称号が自分をさらに魅力的に見せる化粧であることを、マクラウドはよく理解していた。


 騎士を脱ぎ捨て、イスに深く腰掛ける。ただの男になったマクラウドは、そしてあのヴィヴィアン・クロムウェル公爵令嬢と話した余韻にため息を吐いた。


 

 世の中の女性がどれほどの恋文を寄越したとしても、勝利の女神がどれだけほほ笑んだとしても、貴女のあの一言だけが、私を救う。



「ヴィヴィアン嬢……」




 応える者のいない呼びかけは、マクラウドの心に深く沈んで、また一つ、言えない想いがつのるだけだった。





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