「Train(ing)」

 座席の上で、僕は一定の振動を感じていた。一定のリズムでやってくる振動が僕の眠気を誘う。いつもそうだが、家のベッドで寝ようとするよりも、電車の椅子の方がよっぽどよく眠れる気がする。家のベッドも揺れてくれればいいのに。いや、地震みたいで怖いか。



 電車の中は閑散としている。座席の角を確保して、足を開いて座っても誰も咎めないし、僕の隣の席に荷物を置いても何ら問題ないくらいには空いている。



 平日の昼間だ。通勤するサラリーマンも通学する学生も、今は持ち場についているはずだ。目の前には、取引先にでも移動しているのだろうか。スーツ姿の男の人がパラパラと座っている。皆、イヤホンをして目をつむっているか、携帯を難しそうな顔をしていじっている。嫌な上司へ報告でもしているのだろうか。案外画面内のキャンディーを消しているだけかもしれない。嫌な上司達も指先でくるくるしたらまとめて消えてくれないかな、とか思っているかもしれない。



 僕の座る座席の逆側の隅には、明らかに定職についていない、むしろ就職なんて馬鹿がすることだと堂々と言い切りそうな雰囲気の若い男が、世界の一切を遮断できそうな大仰なヘッドフォンをして座っていた。これから友達と遊びにでも行くのだろうか。彼も携帯を操作していた。友人とのメッセージのやり取りでもしているのだろうか。


 もしかすると、電車内の男たちをそっと撮影して揶揄するツイートでもしているのかもしれない。勝手にツイートの内容を予想する。「おっさん座ってるwwマジうけるwww」とかだろうか。それつぶやく意味あるのか?と自分の想像に指摘をぶつける一方、思い浮かんだツイート内容が思いのほか若者への偏見に満ちていることに、僕は少し驚いた。



 しかし、僕は、そんな乗客たちと比べても異質な存在だった。



 僕はもう五時間近くこの電車に乗り続けている。


 僕には目的地がない。というより目的地で降りることを放棄してしまったのだ。


 本当は学校に向かう予定だったのだが、今日はなぜかどうしても行く気になれなかった。


 それは学校で起こるであろう退屈で、そのくせややバイオレンスなクラスメイト達からのやや陰湿でやや心が沈む仕打ちに、嫌気がさしたからかもしれないし、案外ただ授業が面倒くさいという没個性的なサボタージュなのかもしれなかった。



 大体3時間前、まだこの電車に人が大勢乗っている通勤・通学ラッシュの時から僕はこの電車に乗っていた。そして、学校の最寄り駅で降りようとしたとき、別の乗客と少しだけ強めに肩がぶつかった。僕はとっさに謝ろうとしたが、ぶつかった乗客はそれより早く、人込みの中でもしっかり僕に聞こえる音で、舌打ちをした。



 その瞬間、何かがプツっと切れた感じがした。


 僕はそのまま降りるのをやめて、車内に戻った。



 それから僕はずっとこの電車に乗り続けている。終点まで行って、反対方向の終点に戻ってくる。ピンボールみたいに跳ね返るのを繰り返している。



 驚くほどあっさり時間は過ぎていった。学校の机に座っているとあんなにもゆっくり動く時計が、電車の中では振動と慣性力に変換されているのかもしれない。気が付くと、五限が始まっている時間だった。



 僕の学校に制服がないのが救いだった。また、乗客は必ず終点までには降りていくので、僕が何時間も電車に乗り続けていることに気づく人は誰もいない。僕は空いた席に座って(終点まで行けば誰もいなくなるので、どこでも好きな席に座ることができた)、ぼうっと時間を持て余すことができた。



 最初は、その非日常的な感覚に妙に生々しい喜びを覚えた。小さいころ、風邪で学校を休んだ時、いつもよりゆっくり起きて、いつもは見ることができない時間帯のテレビ番組を見ながら、遅い昼食をとる、そんな感覚に近いかもしれない。他の子が学校に行っている時間にゲームをしたり、テレビを見たりする背徳感。どこかジメジメした喜び。学校に行くことをあきらめた瞬間、それが少しの間僕の心を満たした。



 しかし、時間が経つにつれて、その喜びは薄まっていき、自分は何をしているんだろうというどこか哲学的な問いが頭を満たすようになってきた。気を紛らわすために携帯をいじっていたのだが、もう電池切れだ。文庫本の類も今日は持っていない。もう本格的にやることが無い。



 だったら降りればいいだろう。学校だって今から行けば6限に間に合うし、学校に行かないにしてもどこかの駅で降りて、遊びに行ったほうがいくらか生産的だ。


 何度もそう思ったのだが、何故か駅に着く度に足に力が入らなくなるのだった。立ち上がることができなくなる。降りようとすると、何かが私を引っ張る。



「そこで降りてどうする?」「何か意味があるのか?」「学校を休んでまで行くべきところなのか?」「この駅で降りるなら一時間前でもよかった」「別に次の駅で降りたってかまわないじゃないか」「ここで降りたら今まで乗っていた時間は何だったんだ」「どうせ降りたって、何もすることはないだろう」……



 分解すればそんな言葉がでてきそうな、妙に気だるく重々しい感情の塊が僕の身体を抑えつける。そして、結局立ち上がることができないのだ。



 扉が閉まり、電車が動き出すと「いい加減次の駅で降りよう」なんて考えるのだけれど、いざ電車が次の駅に到着すると、やはり立ち上がることができなかった。そしてなぜか駅を通り過ぎるたびに、椅子が僕の身体を引き付ける引力は増していった。



 僕は途方に暮れていた。どうしても降りることができそうにない。


 なぜ、電車を降りられないのか。どうすれば降りることができるのか。


 その答えを、僕はあえて考えないようにしている。


 多分、その理由は考えればすぐに分かってしまうもので、そしてきっと僕にとって不都合なものだ。何より、気づいたからと言ってこの状況が変わるわけではない。実は変えたがっていないのかもしれない。



 降りることをなかばあきらめた後の、いくつめかの駅に電車が付いた時、ある男が電車に乗ってきた。



 男はグレーの背広姿で、右手にスポーツ新聞を持っていた。身長は僕と同じくらい。175センチ前後だろう。何の変哲もない中年男だ。変哲がなさ過ぎて逆に目に留まったのかもしれない。



 特に気にする必要などなかったのだが、何となく男に目をやっていると、男はがらがらの席には座らず、扉の近くに立った。そして、つり革ではなくつり革がぶら下がる鉄の棒に両手つかまった。両手を上に突き出すその姿は、何か子供がする喜びの表現のようで、大の大人がやるとどこか滑稽な印象だった。



 そして、次の瞬間。男の身体が宙に浮いた。



 男は懸垂の要領で身体を静かに浮き上がらせたのだ。右手は棒を握りながら、器用にスポーツ新聞を指で挟んでいる。背広の背中には彼が肘や肩の関節を曲げた分だけ皺が寄った。よく見ると服越しでも男が筋肉質であることがわかる。



 男は本当にゆっくり、誰にも気づかれないように懸垂をつづけた。肘を大きく曲げることはなく、しかし足が地面につくこともない。宙に浮いた彼の足と電車の床の距離が5センチになったり10センチになったりするだけだ。乗客は僕意外誰も彼を見ていない。



 結局、男は次の駅に着くまで宙に浮き続け、電車が駅に着くと、さっそうと降りていった。ちらりと見えた彼の額には、玉のような汗が光っていた。



 僕は唖然としてしまった。あれは何だったんだ。電車に乗って誰にも気づかれず、懸垂をして降りていった。どう考えてもあの男は会社員などではない。あんな汗だくで会社に向かうはずはなく、退勤時間にはまだ早すぎる。何よりよく思い出すと、あの男は手にスポーツ新聞を持っていただけで、鞄のたぐいを持っていなかった。



 一駅で降りていくのもおかしい。彼が乗った駅にも、降りた駅にも乗り換先の路線はなかった。駅同士の距離もそう離れていない。車両で懸垂をするような男が一駅分を歩く労苦を惜しむだろうか。どうもしっくりこない。


 僕は、あの奇妙な男の動きについて考えを巡らせてみた。


 もしかするとあの男は、ああやって一駅ずつ移動しているのかもしれない。駅で電車を待ち、乗り込むと同時に懸垂なり空気椅子なり、その場でできる筋トレを一駅分行う。そして、次の駅で降りてホームで休憩し、また次の電車が来ると乗り込んで筋トレをする。電車を待つ時間が絶妙なインターバルになり、ワークアウトの時間も3~4分とちょうどいい。電車の揺れが絶妙な負荷を身体に与えてくれる。そして疲れ切るころには自分の家の最寄り駅にたどり着くという寸法だ。



 そうやって考えれば考えるほど、理にかなった筋力トレーニングに思えてきた。あの男にとって、電車内はトレーニング場なのだ。はた迷惑には違いないが、あれだけ静かにやっていれば誰も気づくまい。



 事実かどうかわからないし、確かめようもない。だが、もし事実だとしたら大変面白い。僕は妙な興奮を覚えた。この事実に気づいたのは世界広しといえども私だけかもしれない。他の乗客はその事実に一生気づかないままだ。僕だって今日この電車に乗っていなかったらあの男を見ることもなかったし、もし携帯電話に電池が残っていたら、もし文庫本でも持っていたら、もし電車の揺れるリズムに合わせて眠りに落ちていたら、僕はあの男の行動に気づかなかっただろう。



 驚くほどの奇跡の連続の結果、僕はあの男の行為を見ることができ、電車のダイヤが案外筋トレに向いているという驚きの新事実に気づくことができた。



 まあ、知ったからと言って別にやろうとは思わないけど。



 そんなことを考えていると、次の駅に着いた。僕は思いのほかすんなりと立ち上がって見知らぬ駅に降り立った。不思議と例の重々しい感情の塊は意識しなかった。それよりも大事なことがあるような気がした。そして、今の僕なら、それを見つけられる気がした。

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