第8話 空っぽの陳列棚


 こんなに足を運ばなかったのは記憶にない。それくらい直売所に全く行かなかった。


 いつもなら何かのついでに”偵察”と称してちょこちょこと覗きに行くところを、今回に限っては「医者が一ヶ月は出さないと言った」というおかあさんの言葉をまるっと受け取って、その間は覗きに行かないと決めたのだった。

 なんでかと聞かれたら答えに詰まる。漠然と思って、それにしてはやけにきっぱりと決意したのだ。今にして思えば、それは願掛けに近いものだったような気がする。

 医者が一ヶ月と言ったんだから、その期間しっかり休んでもらえばまた元気なおじさんに必ず会える。それを信じて、未練がましいことはしないで待っていよう。

 あの時の、言葉になる前のあやふやな気持ちを今、言葉にしてみると、そんな感じだったように思う。決意というよりは、願いや祈りに近い感情だった。おじさんの帰りをただ待っているだけなのが、何か心もとなかったのかもしれない。


 それでも、一ヶ月を過ぎての週末まで待つ気はなかった。医者というのはだいたいがその手の数字は多めに見積もって話すものだと思っているし、でなくても回復が早ければ、2、3日なら予定より早く出られるんじゃないかと思ったからだ。仮に退院がまだだったとしても、メドが立っていれば帰ってくるのに備えて誰かが来てるんじゃないかとも期待していた。

 一ヶ月になる直前の週で足を運ぶと、どうやら予想が当たったらしい、門が開いているのが見えた。

 おじさん、いるかな。いたら、何と声をかけてからかってやろうか。

 そう考えるだけで自然と顔がほころぶ。足取りも軽く中に入った。

 作業場の中では、おかあさんの代わりにお仲間のおじさんがひとり、屈んで何かの作業をしていた。

「こんにちは」

 大きく声をかける。

「おじさん、もう、退院してきたんですか?」

 下を向いていたお仲間のおじさんが顔を上げた。日に焼けて真っ黒なその顔が、ぼんやりとこちらを見る。

「死んだよ」

 唐突な言葉だった。

「え?」

 何の話だろう。よく分からなくて、首をかしげた。

「死んだんだ。アイツ」

 聞き間違えか冗談にしか思えない言葉だった。実際、お仲間のおじさんの顔は薄ら笑いを浮かべているように見えた。

 ああ、これはきっとたちの悪い冗談だ。そうだ、そうに違いない。そう思って軽く返そうとする。それなのに勝手に言葉がうわずる。

「ウソでしょう。だって入院してるけど元気だっておかあさんが言ってた」

「ホントだよ。死んだんだよ。先月」

「そんなはず、ない。先月の終わりにここに来た時に、入院したばかりだって聞いたもの」

「だから入院してすぐ死んだんだよ」

 そう言ったお仲間のおじさんの顔は、一見、笑っているように見えるけれど、よく見れば泣いているようにも見えた。

「なんで死んだのよ。おかしいよ」

 しぜんと食って掛かるような口調になっていた。

「アレは農薬の使い過ぎだよ。農薬って身体に悪いんだろ?あんなに使わなきゃよかったんだ」

 そんなバカな。農薬の使い過ぎでおじさんが急に死ぬわけないじゃないか。やっぱりこれは冗談だ。このあときっとおじさんが「よぅ」とか何とか言って裏からでも出てくるに違いない。それともお仲間のこのおじさん、悪いけれど半分ボケているのかもしれない。

「農薬いっぱい使うから、まだ70過ぎだってのに80過ぎのオレより先に死んじまうんだ」

 え?おじさんとそんなに年、離れてたの?幼なじみじゃなかったの?

 あ、いやいや、今、気にしなきゃいけないのはそこじゃない。やっぱりこのおじさん、そんな年なら記憶が多少、他の人のと入り混じっていたとしてもおかしくはないんじゃないか?

 そう思いながら、少しは周りを見回す余裕が出てきた。

 さっきから何かがおかしいと感じていたのだ。

 微妙な違和感。それを探るために、黙ったままゆっくりと作業場の中を見回した。


 と。

 ようやく気がついた。

 いつもなら積まれている野菜を入れるケースが全部、ない。おかあさんが座っていた椅子も量りも端に寄せられている。その分でできたスペースでこのお仲間のおじさんが作業しているのは何かと見てみれば、野菜ではなくマンガ本だった。

 私の視線に気付いたのか、

「昨日もマンガ本、軽トラに積んで、2回も捨てに行ったんだ」

 ヒモで括ったマンガ本をアゴで指した。どうやら持てる分量ごとに分けたマンガ本をヒモで束ねていたらしい。

「なんでマンガなんてここにこんなにあるの?」

 つい、口にしてしまった言葉に

「雨の日にでも読んでたんだろ。急に降ってきた時なんかにさ」

 お仲間のおじさんは律儀に答えてくれた。

「まだまだあるから、あと2回くらいは行かないと終わんねえな」

「おかあさんは?」

 とっさに口から言葉がこぼれた。その勢いを借りて畳みかける。

「おかあさんはどうしてるの?」

「家、片付けてるよ」

 お仲間のおじさんは淡々と言葉を重ねた。

「あっちもモノだらけなんだってさ。片付けないと、って、毎日、必死でやってるみたいだよ」

「こっちには来ないの?」

「うーん」

 しばらく考えてから、

「多分、あさってあたり、来る、と思うけど」

 ゆっくりと口にした。

「分かった。あさって、ね。だったらあさって、また、来る。何時くらいならいいかな?」

「昼くらいならいるんじゃないか?」

「昼、ね。うん。じゃあ、昼前に来る」

 私の言葉に、お仲間のおじさんは、

「オレは毎日、ここの片付けしてるからさ」

 心配するな、とでも言うように付け加えた。

 軽く頷いて返事代わりにすると、くるりと背を向けて外に出た。これ以上、ここにいる理由は何もなかった。

 振り向いた視線の先は、外の陳列棚。いつもならたくさんの緑色の野菜が並んでいるはずのその上は、見事に空っぽだった。

 ふわふわと定まらない足取りで直売所から一歩外に出ると、遊歩道には桜や紫陽花の緑が勢いよく溢れ出していた。急にたくさんの色と音が周りから押し寄せてきて、うるさいくらいだった。思わず目と耳を塞ぎたくなったが、代わりに逃げるようにしてその場を離れた。そんなことはこの直売所に通うようになってから初めてのことだった。



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