3章「沈む心、あふれる想い」その5

 さて、その翌日の午後。カフェ「アンブローシア」の前では、三つ編みの髪の女子高生、西崎沙織が首をかしげていた。店の入り口には「本日臨時休業」の札がぶら下がっている。


 どうしよう、華伝さんに渡そうと思ったのに……。いつものように学校の帰りにここに来れば、容易に彼に会えると思っていた彼女にとっては、その札はまったく予想外だった。日を改めて出直した方がいいのだろうか。


 だが、そこで彼女ははっと思い出し、胸ポケットから生徒手帳を出して、そこにはさんである一枚の紙切れを引っ張りだした。細長い紙で、表に何か模様が入っており、裏地は白い。そして、その空白に汚い字で電話番号が書いてある。そう、これは、智子に襲われ、華伝に助けられたあの夜、百瀬孝太郎という赤い髪の青年にもらったものだった。もらったのは、華伝が去った後、家まで送ってもらっている時だった。彼は途中でふと思いついたように、懐から紙とボールペンを出し、紙に電話番号を書いて、沙織に手渡したのだ。今後、鬼とか瘴鬼のことで困ったことがあったら、俺に連絡しろよ、と。それで、なんとなく持ち歩いていたのだった。ただの営業だとは思ったが。


 あの人、今は華伝さんと一緒に化け物退治の仕事してるんだっけ。じゃあ、渡すのはあの人でもいいかな……。少し迷ったが、その番号に電話することにした。


 その場でかけると、電話はすぐにつながった。「もしもーし」と、あの赤い髪の青年の声が聞こえた。


「私です。おととい、お世話になった西崎沙織です」

「ああ、そういや、俺の番号教えたっけ。何かあった?」

「はい。実は私、華伝さん……達に見てもらいたいものがあって。事件の証拠になるかもしれないものなんです」

「そっか。じゃあ、俺のところまで持ってきてくれ。俺、今はあのクソイケメンの家にいるから」

「イケメン? 百瀬さん、華伝さんのおうちにいるんですか?」

「そうそう。仕事でステイしてんのよ。じゃ、場所言うから」

「は、はい!」


 それは沙織にはとても胸躍る展開だった。まさか、あの華伝さんの家に行けるなんて……。恋人がいると聞いて、一度はショックを受けたものの、やはり彼は沙織にとって、憧れの人物なのだった。


 孝太郎からしっかりと華伝の家の場所と道順を聞くと、彼女はすぐにそこに向かった。そこは、カフェからそう遠くない場所にあった。二十分ほど、競歩選手のように素早く、勇ましく歩いていくと、やがて「瑞島」と表札の掲げられた家の前に到着した。外壁をツタで覆われた、二階建ての、こじんまりとした家だ。雰囲気があって素敵なおうちだな、と、沙織は思った。


 やがて、沙織はチャイムを鳴らし、中から出てきた孝太郎と一緒に家に上がった。居間に行くと、華伝が座卓の前に座って待っていた。沙織と目が合うと「いらっしゃい」と、言った。何か作業をしていたのだろうか、エプロンをつけている。「お、おじゃまします」沙織は緊張しながら、その前に座った。孝太郎も、近くのカーペットの上に胡坐をかいて座った。


「あの、これなんですけど……」


 沙織は鞄から一冊の本を出し、二人の男に見せた。それは沙織の通う高校で使っている古文の教科書だった。だが、裏に記名されている名前は「葉山智子」。そして、裏表紙をめくったところにある奥付には、一枚のプリクラが貼られていた。白い髪の「新しく出来た彼氏」と、葉山智子がツーショットで映っている写真だ。


「この教科書、智子から借りたままで、昨日たまたま、ここに写真が貼ってあることに気付いたんです。それで、華伝さん、この人の写真、もっとないかって言ってたから、持って来たんですけど……」


 沙織は言いながら、二人の男の反応を確認した。そして、すぐに、自分が持ってきたこれは、たいしたものではなかったと察した。二人が何か言う前に、「ごめんなさい、あんまり役に立ちそうになくて」と、謝り、教科書を閉じた。


「まあ、そうだな。俺達、昨日、この写真の男に直接会って、本人の口から、事件のことを洗いざらい聞いたしな。その後、逃げられたけど」

「そ、そうなんですか……」


 そういうことなら、もうこんなもの必要ないに決まっている。沙織はなんだか恥ずかしくなり「時間を取らせて、ごめんなさい」と再び謝った。


「いや、まったく役に立たないってことはないさ。彼の行方はまだ不明のままだ。この写真一枚からでも、彼の過去の足跡や、今後行きそうな場所を探す手掛かりになるかもしれない」


 華伝はそう言うと、沙織の手から教科書を取り、「ありがとう、わざわざ持ってきてくれて」と微笑みながら礼を言った。沙織はとたんに、胸がどきどきした。ああ、やっぱり華伝さんって、かっこいい……。


「そ、そうだな。推理物では、一見役立たずの証拠品が、後で重要な決め手になったりするしな……」


 孝太郎も、華伝のイケメン対応っぷりに追従するように、あわててフォローした。まあ、「一見役立たずの証拠品」とはっきり言ってるあたり、フォローになってはいないのだが。


「ところで、百瀬さんってなんで華伝さんのお家にいるんですか? 仕事って言ってましたけど」


「まあ、一言で表すと、こいつのボディーガード的な?」


 孝太郎は華伝を親指でクイッと指差しながら言った。「誰が誰のボディーガードだ」華伝は不機嫌そうに孝太郎をにらんだ。


「つまり、今回の事件は、こいつの弟が主犯なわけで……そうそう、このプリクラに映ってる奴な。こいつが、どうもここにいる兄貴のことをめちゃ恨んでるみたいなんだ。で、こいつは鬼モドキで、ここにいるヒトモドキの瘴鬼君ではどうにも太刀打ちできない能力を持っている。そこで白羽の矢が立ったのが俺こと、百瀬の家の秘蔵っ子、鬼封符術師の百瀬孝太郎様ですよ。万が一、この中二病こじらせ少年のこの弟君が、ここにいる無力な兄の居場所、つまりここをつきとめて襲ってきたら大変なことになるからな。だから、俺がボディーガードとして居座ってやってるわけよ。断じて、適当に待機命令を出されて放置されているから、ホテル代を節約するためにここにとどまっているわけではない。そのへんのところは、勘違いしないでもらえるかな?」

「はあ……」


 ホテル代節約のために、居座ってるんだ……。沙織はすぐに現状を理解した。


「まあ、彼の言うことも一理は……いや、五分の理くらいはあるかもしれない。しかし、待機命令のまま放置っていうのは、単に現場に出しても役立たずだからじゃないかな」


 華伝は辛らつだ。


「うっせーな! 弓雅さんは今はお前と一緒にいろって言ってたんだから、とりあえず、これも俺の仕事なんだよ!」

「弓雅さんって……あ」


 沙織ははっと気付いた。そうか、カフェ「アンブローシア」のマスターも、実は彼らと同じ、裏で化け物退治の仕事をしている人なんだ。


「孝太郎、君は相変わらず迂闊なやつだな。叔父さんの素性まで、沙織ちゃんにばれちゃったじゃないか」


 華伝は呆れたようにため息をついた。「べ、別にいいだろ! もう鬼や瘴鬼のことは知られてるんだし!」孝太郎はいかにも必死な感じで言い訳をした。


 と、そのときだった。沙織はふと、遠くから誰かに見られているような視線を感じた。そっちに振り向くと、居間の扉のところに、一人の少女が立っていた。沙織と目が合うと、彼女はびっくりしたように、すぐに扉の陰に隠れた。


 あの子はいったい……? 沙織はとても気になった。


「あの、ちょっとトイレ、お借りしてもいいですか」


 そう言うと、すぐに立ち上がり、居間を出た。


 少女は居間のドアの陰にいたが、沙織が居間から出てくると、またびっくりしたように、廊下の向こうに逃げた。そして、よほど慌てていたのだろう、足をもつれさせて、転んでしまった。ゴンッという音が響くくらいに、景気よく、床に顔をぶつけて。


「大丈夫、ですか?」


 沙織は恐る恐る少女に近づいた。少女は顔を手で押さえて、うずくまっている。痛いのだろうか、ぷるぷる体を震わせている。ゆったりとしたトレーナーとデニムのホットパンツとストライプの入ったニーソックスを身に付けた、中学生くらいの女の子だ。ずいぶん華奢な体つきで、髪は長く黒い。


「そうだ、私、ばんそうこう持って――」


 と、沙織がとっさに気を利かせてポケットに手を突っ込んだ瞬間だった。「そんなものは、いらん!」と、少女はむきになったように叫び、ふらつきながらも勢いよく立ちあがった。沙織の目に、少女の面が明らかになった。やはり中学生くらいに見えたが、とても可憐な顔立ちをしていた。ただ、転んでぶつけたのだろう、今は眉間と鼻の頭が赤くなっていた。目にもちょっと涙が浮かんでいた。そしてさらに、少女の額の中央には小さな突起があった。これはもしかして……角?


「もしかして、あなたって鬼なんですか?」

「そうだ。だからこの程度でくじけたりはしない」


 少女は言葉こそ勇ましかったが、態度は逆だった。沙織と目が合うと、いかにも怯えたような顔をして、じりじり後ろに下がってしまった。


「あの、別に私、怖い人じゃないですから――」

「べ、別に怖がってなどおらん! ただ、人間というものは狡猾な生き物と決まっているからな。警戒を怠らないだけだ」

「警戒なんてしなくても……」


 沙織はそこで、少女に簡単に自己紹介し、ここに来た理由を説明した。


「なるほど、事件の証拠品を渡しに来ただけなのだな」

「はい。あんまりたいした証拠じゃなさそうでしたけど」

「……本当に、それだけなのか?」


 少女はふと、じーっと、疑いの眼で沙織をにらんだ。


「私は、さっき見ていたぞ。お前が華伝に礼を言われて、とてもうれしそうな顔をしているのを。お前はもしや、あの男に発情しているのではないか?」

「え、何をいきなり……」


 発情って。ひどい言い方だが、だいたいあってるし。沙織は動揺せずにはいられなかった。


「ち、違いますよ。ほら、華伝さんって、誰が見てもかっこいいじゃないですか。イケメンじゃないですか。だから、笑顔を向けられて、少し舞い上がっちゃったんですよ。それだけですよ」

「そうだな、確かにあいつは男前だな……」


 少女は、ちょっと顔を赤くした。


「それに、華伝さんってもう恋人がいるんでしょう? 確か、ルカっていう名前の年上の大人の女性」

「大人の女性……」


 少女は今度は、一瞬どきっとしたように目を見開き、それから「大人の女性」ともう一度言って、何やらとてもうれしそうに、にっこりと笑った。


「そうだ。あいつには、大人の、それはもう大人の恋人がいるのだ。うっかり懸想してはいかんぞ」

「え、あ、はい……」


 ところで、この人、じゃなかった、この鬼の女の子、いったい何者なんだろう。この家で華伝さんと一緒に暮らしてるのかな。どう見ても子供だけど、今の会話のこの反応……まさか……。


「あの、もしかして、あなたが華伝さんの恋人のルカさんですか?」

「な……なぜ、それを!」


 少女はぎょっとしたようだった。いや、いくらなんでも、気づくって。


「だって、この家にいるってことは、華伝さんと一緒に暮らしているんでしょう? それって、どう考えても、恋人か何かじゃないですか」

「まあ、そうだが……」


 少女は、いや、鬼の娘、ルカは照れ臭そうに、しかし誇らしげに笑った。


「でも、ルカさんって、大人の女性って感じじゃないような……」

「そ、そうか?」


 ルカはたちまちうなだれ、落ち込んだようだった。もしや、気にしていることだったのだろうか。沙織はあわてて、「そんなことないですよ!」と否定した。


「よく見ると、ルカさんってすごく大人っぽいです。大人のセクシーなお色気をムンムンに感じます」

「本当か!」

「はい! きっと、華伝さんも、ルカさんのそういうところが好きなんだと思います」

「そうか……そうなのだな……ふふ」


 ルカはまた嬉しそうに笑った。やだ、すごく単純だ、この人……。沙織はやはり、ルカを子供っぽいと思わずにはいられなかった。そして同時に、きっと鬼という、人間とは違う種族だから、実際の年齢と外見が異なっているのだろうと考えた。


「なるほど。お前は最近の人間の娘にしては、年上の者に対する礼儀をよく心得ているようだな。よい心がけだ」

「はあ、ありがとうございます」

「しかし、あいつがいくら男前だからといって、むやみに誘惑してはいかんぞ。絶対だぞ! 約束だぞ! あいつは私のものなのだからな……」


 少女は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、しかしとても真剣な目をして言った。


 そうか。この人、私のこと警戒してるって言ってたけど、華伝さんに浮気されないか、心配だったんだ。無理もないかな。かっこいいもんね……。


「大丈夫ですよ。私、どんなにかっこよくても、恋人がいる人には興味ありませんから」


 実際、沙織は華伝に対するあこがれはあっても、彼の恋人である目の前に少女に対して、嫉妬のような感情は何も湧いてこなかった。むしろ、ちょっとほほえましいカップルではないかとすら思えた。


「そうか。安心した」


 ルカはまた笑った。すっかり警戒を解いたのだろう、無邪気でかわいらしい笑顔だった。そして、「じゃあ、私は部屋に戻る」と言って、廊下の向こうへ行き、二階への階段をのぼりはじめた――が、その途中で急に足を止めて、階段に腰掛けた。


「どうしたんですか?」


 沙織は気になって、彼女に近づきながら尋ねた。


「い、いや、階段というのは一気に駆け上がっては風情がないだろう? だから、私は、少しずつ、味わいながらのぼることにしているのだ」


 ルカは気まずそうに目を反らしながら言った。沙織は、その呼吸が少し乱れていることに気付いた。そういえば、マスターが言ってたっけ。華伝さんの恋人は、病気がちだって……。


「もしかして、一人で階段をのぼるのがきついんですか?」

「だ、大丈夫だ。今日は体調がいいほうだから――」

「私、手を貸しますよ」


 ルカが無理をしているのは顔色から明らかだった。沙織はすぐに彼女のもとへいき、彼女の肩を担いで、一緒に二階に上がった。彼女の体はすごく軽く感じられた。聞くと、体重は三十五キロしかないという。身長は百五十センチくらいに見えるが、それにしても痩せている。軽いわけだ。


 沙織はそのまま、ルカを部屋にまで連れて行った。見たところ、彼女専用の部屋のようだった。恋人なのに一緒に部屋じゃないんだ。沙織はちょっと不思議に思った。二階の突き当たりにトイレがあったり、部屋に冷蔵庫が置いてあるのは、病弱な彼女を気遣ってのことだろうけれど。


「私、そろそろ失礼します。今日はルカさんとお話できて、楽しかったです」


 沙織はそう言って、ルカの部屋を出た。そして、一階に戻った。ちょうど家に何かの小包が届いたところで、孝太郎がその中身を確認して華伝に手渡しているところだった。沙織は二人にもおいとまの挨拶をし、家を出た。


 歩きながら沙織の頭に浮かぶのは、憧れの華伝のことではなく、ルカのことだった。彼女は人間を食べる怖い鬼の一族のはずだが、まるでそうは見えず、すごく愛らしかった。感情がすぐ顔に現れて、表情がめまぐるしく変わるところとか。一人っ子の沙織は、あんな可愛い妹がいたらなと、ぼんやり思った。


 やがて、駅に着き、彼女はいつものように電車に乗って、家路に着いた。だが、家の最寄り駅に着いて、電車を降り、改札口を通過したところで、すぐ近くの壁際に一人の男が立っているのに気づいた。白く短い髪をして、頭にカラフルなバンダナを巻いた、見覚えのある男だ……。


「よう、待ってたぜ。沙織ちゃん」


 彼は沙織を見るなり、にやりと笑ってゆっくりと近づいてきた。


「あ、あなたは……」


 沙織は背筋が凍る思いだった。今目の前にいる人物こそが、智子を化け物にした張本人、竜薙左紋であり、華伝達が追いかけているらしい凶悪犯なのだから。


「お? その顔、俺のこと何か知ってるって感じ?」

「し、知りません! そちらこそ、どうして私のこと知ってるんですか?」

「ああ、そうだな。一応説明しとくか」


 と、左紋は上着の青いモッズコートのポケットからケータイを取りだした。そのストラップに沙織は見覚えがあった。


「まさか、それって、智子のケータイ……」

「そうそう。暇つぶしにいじってたら、沙織ちゃんとあのデブスが、なかなか面白そうなメールのやり取りしてるの見つけてさ。ちょっとそのへんのこと聞きたいなーって思って、沙織ちゃんをここで待ってたんだよ。普段乗り降りしている駅とかもメール見たらばっちりわかったしな。顔も写メでさ」

「聞きたいことって……?」

「沙織ちゃん、好きな人いるんだろ? あのデブスに一度メールで相談してるしな。『華伝さん、イケメンだからやっぱり恋人いるのかなあ』って。オレはこの、華伝さんって人物に興味あるわけよ。なんせこいつは、オレの兄貴だからな。こんな変わった名前のイケメン君、そうそういるわけねえしな」

「あ……」


 しまった。まさかそんなメールが、一番見られちゃいけない人に、見られてしまうなんて。


「そ、その華伝さんっていうのは、本名じゃないんです。あだ名みたいなものなんです。だから、あなたのお兄さんとは全く違う人だと思います」

「ふうん? でもなんか、沙織ちゃん、顔色悪くね? 何か、いかにも追及されたら困るって感じで……」

「知りません! 私、急いでるんです! これで失礼します!」


 沙織にはもう逃げる以外の選択肢はなかった。すぐに左紋の脇を早足で駆け抜けた――が、そのとたん、彼におさげの髪を引っ張られ、止められた。


「お前、まさか、オレから逃げられると思ってんのか?」


 振り返ると、左紋は瞳を赤く光らせ、残忍な笑みを浮かべた。

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