第35話 嵐の前の静けさ

 久しぶりにベッドでの睡眠を満喫したナズナとシシリアは、食堂で遅めの朝食を摂っていた。

 ナズナの隣の椅子では、ギンタが前足で器用に掴んだ干し肉をくちばしで引き千切って食べている。

 夜勤明けの兵士の姿がちらほらと見えるが、彼らの視線は食堂に現れた珍客に注がれていた。

 

 ナダルの森の目と鼻の先にあるタリスマン砦。

 その片隅で流れる長閑のどかな一時。

 束の間の休息は、フリードが二人を呼びにやって来た事で終わりを迎えた。

 



「二人とも、昨日の今日で疲れているだろうがすまぬな」


 二人がフリードと共にゴリアスの部屋を訪れると、もう一人、虚ろな目をした他の男がいた。テーブルを挟み、向かい合う形でゴリアスと男はソファに座っていた。

 ゴリアスの隣にシシリアとナズナが並んで座り、フリードがその男の横に腰を下ろした。

 

「まずは紹介しよう。この男はベッケン。森の調査を依頼していたパーティー【明けの明星】のメンバーだ。先日、森に入ったフリードが、動けずに身を隠していたベッケンを見つけて保護した」


 ナズナは声こそ発しなかったものの驚きを隠せなかった。目の前の生気を感じられない男が、金等級パーティーの一員だとは思いも寄らなかったからだ。


「体の傷なら、ある程度は魔法や薬で治せるんだがな。心の方はそうもいかん」


 苦り切った表情で漏らしたゴリアスの言葉にナズナは息を吞む。

 幾度となく死地を潜り抜けて来たであろう熟練者。その心をこうまで折る事態とは、いったいどれ程のものだったのか。

 ナズナの体は無意識のうちに強張っていた。


「さてベッケン、お前たちに何が起こったのか聞かせてくれ」


 ゴリアスに促されたベッケンは――俺たちにとっては、なんて事ない仕事の筈だった――と焦点のはっきりとしない瞳のまま、ぽつりぽつりと語り出した。


「最初の二日間は浅く広く、森の様子を見て回った。特に問題は無かったよ。獣たちの警戒心が、多少、高く感じられるくらいだった。

 それから一日の休息日を挟んで、俺たちは森の中層へと調査の範囲を広げた。


 しばらく順調に進んでいると、争う物音が聞こえてきた。慎重に気配を消して覗いてみれば、なんて事はない、よくある魔物同士の縄張り争いだった。

 俺たちは巻き込まれない様に迂回して進んだが、その先でも縄張り争いに出くわした。


 それからはその繰り返しだ。行く先々で魔物どもが争っていた。しかも進めば進むほど、その頻度も上がっていった。そんな明らかに異様な状況の中、俺たちは何故か・・・進んじまっていた。


 直ぐに引き返すべきだったんだ。今ならはっきりと言える。あの時、俺たちは全員が異常だった。そのせいでミリアもギュンドアンも、あのファブレガスさえも……みんな死んじまった」


 途中からワナワナと震え出したベッケンは、最後の言葉を絞り出すと、まるで力尽きたかの様にガクリと項垂れた。

 話に聞き入っていたナズナは、唾を飲むのも躊躇われる思いでベッケンの様子を窺っている。

 一同が暫しの沈黙を守っていると、俯いたままのベッケンが語り始めた。

 

「気付いた時には、どこもかしこも荒れ狂った魔物だらけだった。撤退しようとしたが乱戦に巻き込まれちまった俺たちは、血路を開こうとしゃにむに戦ったよ。

 けど、回復役のミリアが深手を負ったのを機にパーティーは崩壊した。

 

 ミリアを助けようとしたギュンドアンが次にやられ、それを見たファブレガスが、あの馬鹿野郎……俺に向かって言いやがった――お前は一部始終を報告しろってな。

 それから俺を……俺を脱出させる為の囮となって、魔物どもに突っ込んで行きやがった」


 そこまで語ったベッケンは、仲間を失った喪失感に再び襲われたのか、深い溜息を吐き出した。それから話を続けた。


「俺も無傷とはいかなかったが、必死に走り抜けたよ。それこそ死に物狂いってやつだ。

 俺が死んじまったら、あいつらの死が全て無駄になっちまうんだからな。


 それでどうにか魔物は撒いたんだが、そこで体の限界だった。動けなくなって、救助を待つしかなくなっちまったんだ。

 一応、予定日を過ぎても戻らない時は、捜索隊を出してもらう手筈になっていたからな。だけどまさか、本当に世話になるとは、全くもって笑えねぇ話だ」


 顔を上げたベッケンは、自嘲する様に薄笑いを浮かべている。

「そう思うだろ」と同意を求めるその顔には、痛々しさを感じずにはいられない。

 一同が押し黙る中、神妙な顔つきのゴリアスが口を開いた。


「現場までの距離や、何か目印になる様なものは?」


「悪いが距離はわからねぇ。行きは、言うなら酩酊状態の様なもんだったし、帰りは無我夢中で闇雲に走ったからな。

 

 そうだ……鼻につく甘ったるい匂い、それに水の流れる音、多分近くに沢があったんだと思う。

 あと魔物だが、おかしな奴らがいた。亜種と言うよりは変異種といった感じの奴らだ。オークにしろオーガにしろ、個体の強さが通常の奴と比べて段違いだった」


「変異種か。そいつらが生まれた原因があるはずだが……」


 記憶を手繰りながら答えたベッケンの言葉を受けて、ゴリアスが考え込む様にして腕を組んだ。

 それまで聞き役に徹していたフリードが結論付ける。


「行ってみるしかありませんね。私がベッケンさんを確保したのは、中層に差し掛かった辺りでした。そこから奥へ進路を取りましょう」


 ゴリアスは背もたれに体を預けると、どこか面白くなさそうに鼻をフンと鳴らした。


「決まりだな。明後日、森に入る。メンバーは儂とフリード、それにシシリアとナズナ。あとベッケン、お前も行けるな?」


 当然の様に頷いた三人とは異なり、ベッケンは驚いた表情でゴリアスに食ってかかった。


「おいおいっ、ゴリアスの旦那、正気かよ!? もちろん、俺が行く事に異論はねぇ。だけど、この嬢ちゃんたちも一緒だと? あのファブレガスでさえ戻れなかったんだぞっ」


「落ち着け、ベッケン。言いたい事はわかるが、兄貴からの依頼で二人が森に入るのは決定事項だ。それにあくまで調査であり、変異種を殲滅しようって訳じゃない。いざとなれば儂がおるし、おまけでフリードの小僧もおる。なんとかなるだろ」


「ルーデンベルグ辺境伯の? それはまたどういった――」


 辺境伯のご指名と聞き、驚いたベッケンが身を乗り出して、シシリアとナズナをまじまじと見ている。

 ゴリアスが面白がる様にそれを制止した。


「やめろベッケン、二人が怖がっとるだろうが。その二人に関しては、そう心配するに及ばぬかもしれぬぞ? どうやら、大層なお守りを持っておるようだからな」


「お守り? それは魔物除けのアミュレットやタリスマンといった魔法道具マジックアイテムたぐいで?」


「ふはっ、さて、どうであろうな」


 ベッケンの問には答えず、愉快そうに笑うゴリアス。

 澄まし顔のシシリアの横で、ナズナはベッケンだけでなく、フリードからの視線も感じて居心地悪そうにしている。

 その後、各自準備しておく様にと言われ、その場はお開きとなった。


 ナズナとシシリアは、食堂でギンタを回収してから自分たちの部屋へと戻った。

 どれだけ食べたのやら、お腹をぱんぱんに膨らませたギンタは呑気にいびきをかいている。

 

 きっと、また力を借りる事になるのだろう――ギンタから窓の外へと視線を移したナズナは、叢雲むらくものかかるナダルの森に、嫌な胸騒ぎを覚えずにいられなかった。

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